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杉本真維子に誘われて ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

杉本真維子に誘われてのページです。

杉本真維子に誘われて

昨日10月2日(火曜)は三村京子と、
新宿・紀伊国屋画廊で開催されていた
版画家・落合皎児さんの個展最終日に行った。
連詩仲間・杉本真維子の誘いを受けてのものだ。
杉本真維子の詩と落合さんの版画がコラボしている連作が
一部に展示されていたのだった。
ちなみに両者はともに長野の出身。
ただし落合さんの活動はすでに世界的だ。
杉本真維子もいずれそうなるだろう。

会場は全体に「三幅対」型の展示を貫いていた。
真ん中に落合さんの版画、もしくは絵画がある。
その左右に、より号数の小さい、
短冊形の落合さんの作品が構えている。
杉本さんとのコラボ部分でも、
落合さんの版画を取り囲むように、
杉本さんの詩の一節と、フランス詩の一節が
その左右に並べて展示されていた。
なお、フランス詩は杉本さんの詩の翻訳ではなかった。

落合さんの作品はアブストラクトとも具象ともとれない。
波濤の飛沫が画布全体に飛び散っているようにみえる絵。
曇り空の向こうに満月がうっすらと浮かびあがるような絵。
ただ、それはそのように類推が利くというだけで、
やっぱり全体が幽玄なアブストラクトと捉えられる。
たしかにイメージが自然や天体から摂取されていて、
その宇宙的な感触にこちらの肌の感覚がざわめくけれども、
そこからは「像」が周到に差し引かれていたのだった。

特徴は、粉を吹いたような金や銀の絵の具が
随所に用いられている点ではないだろうか。
藍色系の暗色にもそれらはどこかで漂っていて、
その混在によって、すべての色が鈍く沈む。
沈んでいるから浮き上がってくるような動勢が画の細部にあって、
それが刻々、見る側にリズミックに迫ってくる。
覆る運動――覆る運動。圧倒的な迫力だった。

会場に展示された、
ガラス貼りの額縁に包まれた号数の小さなものが版画だったろう。
そこでも金や銀が、表現物の細部に吹き上がり、
しかも藍色を中心とした色彩も「沈みつつ浮き上がっている」。
こちらはとくに、イメージの具象性がない。
これらの版画がどのようにつくられたのか、
まったく見当がつかなかった。

やがて会場にいらした落合さん自身と
杉本さんの紹介で、話をさせていただく機会を得る。
版画の制作過程はこうだった――

落合さんも最初は配色刷りや重ね刷りなどをしていたのだという。
だがその作業にやがて飽き足らなくなる。
彼はフランスでつくられている特殊で精密な版画インクを得た。
銀や金、
あるいは植物的な感触のある鈍い藍染め素材のようなインクは
そこでのみ、手に入れられるものだという。
インクそれぞれは比重がちがう。
金・銀は藍よりも重く沈むのだ。

秘密の露呈になってしまうが、
版画専門家でも方法のわからなかった
落合さんの版画制作の手順とはたとえば以下のものだった。

銅版ではなく、独自の紙型を用意して、
そこに針で傷をつけるように
イメージにまかせた抽象模様を施してゆく。
当然、タッチや個性や比例性がそこで綿密に発揮される。

次に、藍と銀のインクを丹念に混ぜる。
それを、傷をつけた紙型へ丁寧に載せてゆく。
染物のような作業なのだろう。
前述したように色のちがうインクは比重が異なるので、
重い銀なら、傷のなかにより深く沈む。
つけられた傷が深ければ深いほど、そこでの銀の分布率が高くなる。
混ぜられた全体のインクには、銀と藍の混合が保たれているが、
そこでも紙型に施された傷をつうじ
風合に精妙なグラデーションもできるわけだった。

むろんこの説明でわかるように
刷り上がりは事前に完全に計算できる態のものではない。
「偶然性」が導入されている。

「刷り」に移ってからの落合さんの話がさらに面白かった。
落合さんは埼玉の工場にそれだけで何トンもある
ローラー型の版画印刷機を特注したのだという。
1センチ平米あたりで7トンもの圧力がかかる機械。
この加圧によってこそ、紙型の傷に沈んだ銀が
版画紙にようやく隈なく定着されるのだという。

という説明があって、
なぜ傷を施す素材が銅版ではなく紙型なのかがわかる。
7トンの重さを加えられると
柔らかい銅版ならば10円玉も千円札になってしまいます、
と落合さんは笑いながらいう。
金属の「展ばし」をおもえばいいのだろう。
むしろ圧縮されても厚みが縮減されるだけで、
表面の細部が温存される紙型のほうが
印刷の際の異様な重圧に耐えられる――そういうことだ。
破れやすい紙、の柔らかさをおもうと意外だが。

7トンまで行かなくとも加圧式印刷の版画では、
素材が銅版ならば十枚程度刷って、摩滅してしまうという。
紙なら80枚程度が理論的に刷れるらしい。
ただし落合さんが刷るのは15枚程度。
「刷り」に労力と綿密さが要求されるからそうなるのだが、
もう一点、大量に刷ると刷り上った一枚一枚の単価が下落し、
版画家としての活動が不能になるのではないかともおもった。

会場には版画に用いられた紙型そのものが一点、展示されていた。
触ってみる。
当然、紙型に施された細かい傷が指先に伝わってくる。
そうだ、落合版画の像の朦朧化とは、
視覚性が触覚性に逆還元されて起こった変化なのだった。
それは刷り上がった版画それ自体にも共通する。
杉本詩とのコラボとして展示されている作品の表面も触ってみた。
同じように指先から幽玄な波動が伝わってくる。
刷り上ったものと元の紙型は相互に触覚性を鏡像化していた。
そういえば案内状にも、こうあった――
《作品は手で触れて材質と版の圧力などをお楽しみ下さい》。

こう書いてみて、落合さんの版画と杉本真維子の詩の共通点が
判明するだろう。改めて整理してみる。

・ 両者ともに「像」がない。
・ 紙に「傷をつけること」が作業の端緒となる。
・ 紙への異様な加圧によって作品が完成する。
・ その加圧の介在を察知して、「暴力」が享受者に伝達される。

杉本真維子と落合さんのコラボ部分。
引用されている詩は、
杉本の第一詩集『点火期』所収の詩篇「発色」だった。
最初、落合さんの版画に杉本さんが詩を施したとおもったのだけど
だから順序は杉本さんの詩に落合さんが版画を添えたのだった。
全体が二聯で構成されている杉本「発色」を
落合さんは五聯に分けなおした。以下のように――



【発色】
杉本真維子

少年の
垢まみれの刃は
柄の部分だけがずっしりと重く
怒りのようにみえる

わたしの一本のしらがは
とおい物語を聴くように
うっすらと重みを帯びて

ひだりまわりに裂けてゆく胸の
ちゅうしんに赤い
鳥の足がとまる

ねんどを切るように歯茎がぬれる

ひと殺し
とは誰のことをいうのか
言葉で
なぐりつける瞬間は
ひとが割れる
飛沫すら見えている



曖昧で像を結ばぬ修辞、直喩の乱暴、
「言葉で/なぐりつける」など杉本さんのヤクザぶりが満載。
しかも幽玄だ。
冒頭「少年」と二聯目「わたし」の遠近法が測れない点も
そうした印象を深めるとおもう。

この聯ごとに、落合さんの一枚一枚の版画が対応している。
一聯目の「刃」、二聯目の「しらが」、三聯目の「鳥の足」など、
「らしきもの」は版画の細部にも認められるのだが、
それらはあくまでも「らしきもの」であって、
具象性を自ら覆している。

全くの具象再現など怖くない。
あるいは全くの抽象化も凡庸だ。
問題なのは「らしきもの」の近似性、
それがもたらす極薄の厚みの差に伏在する
「非似」=ズレの恐怖のほうではないだろうか。

杉本真維子の詩行の運びにはもともとそれがあって、
だから彼女の詩がヤクザなのだが、
そのヤクザぶりを落合さんは版画に過たず転換し、
やはりこちらの距離感を豊饒に狂わせるのだった。

しかも、向かって右の杉本さんの詩にたいし
向かって左には同様に裁断されたフランス詩がある。
翻訳ではないことは、そこに
朧ろげに知っているフランス語の単語を認めただけでわかる。
落合さんによると、そのフランス詩「にも」
個々の版画が「照応」しているのだという。
つまり真ん中の版画を中心にして、
日仏ふたつの詩が「分岐」していた恰好となる。

なぜそれが可能なのかといえば、
イメージにもともと定型がなく、
だからそれが無秩序に「継がれ」うる、ということだろう。
「継がれて」はじめて、世界が(脱)整合的な連続性を得る。

落合さんと、杉本さんたちと進めている連詩の話になって、
落合さんが連句に非常に詳しいとわかった。
僕らの連詩の方法に納得もしてくれた。
それは「連鎖」が何かを知る落合さんからして当然だった。
落合さん自身、杉本詩とフランス詩の「あいだ」をつなぎ
橋渡しする連句を版画で提示した、といっていい。

杉本詩-落合版画の共示部分は
だから最後に歌仙36句めのような「祝言」を迎える。
5つに分断されていた杉本さんの詩の全体が初めて提示され、
それにも落合さんの版画が「付いた」のだった。
たしかにそれは「企み」なのだが、
人間の想像力の真芯を突き、
イメージや作品を「救済」していたとおもう。

素晴らしい個展だった。



なお、杉本真維子は思潮社「新しい詩人」シリーズの枠組で
この秋、カフカ的なタイトルの新詩集『袖口の動物』を上梓する。
その出来上がりを僕は心待ちにしている。

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2007年10月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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