作品の与件 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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作品の与件

 
 
今期の立教で
小説(坂口安吾)、少女マンガ、短歌を研究対象に扱い、
自分では詩作もつづけ、
あるいは三村京子さんの
新アルバムの完成過程も眼近にし、
このところ「作品の与件」(どういうものが作品か)を
多元的にかんがえるようになってきた。

いずれは評論家として構造批評すべき案件なのかもしれないが、
とりあえずいまおもっていることを
フラッシュアイデア的にちりばめておこう
(まあ一種の備忘録です)



1)作品は作者の身体、あるいは実在性を
その基盤にせざるをえない。
だからそこにはどんなに少量でも血液分泌がある

2)その作品がある表現ジャンルに内包されているとすると
一旦はそのジャンル法則に親和的だが
同時にその法則は更新されなければならない。
そうした作品の更新(尖端)部分がとりわけ受容される。

3)作品はその進行原理を内在的に見出すことから
作品として「ただ」発現されてゆく。
ということは作品とは、
いつまでも経緯や過程や渦中であって
たとえそれが結論をもったとしてもその重要度は低い。
そしてこの「経緯中心主義」こそが
作品再見を促すものの実質というべきだ。

4)その経緯に伏在する進行原理にこそ
作者の個性のすべてが横たわっている。
とうぜんその個性は有機的であって、
だからその細部は隣接連続性をももつ。
このとき世界にたいするのと同様の敬意が
作品にも巻き起こる
(世界も隣接連続性なのだ)。
じつは細部の隣接連続性は
進行原理そのものとは区別が不能だ
(小説における「描写」を転位できるものが
各ジャンルの表現にもあるということ)

5)作品は意味論に還元されない暗部をかならずもつ。
この暗部の正体は、じつは作者の精神的内実や実人生が
作品表面から把握できないという事実とは関連がない。
暗部とは、作品がどこかで
無償性にひらかれた贈与である点からまず出来する。
つまり作品内在的な原理とはちがう(贈与の)層が作品にあって
それが還元不能を導くのだが、
その還元不能性は受け手には快感に似たものにすりかわる。

6)作品の意味論に還元されないもうひとつの暗部とは
音素に代表される聴覚的なものだろう。
それは分節化されない身体にも似ていて、
これは視覚性のつよいマンガなどにおいても
メタレベルからの嵌入要素として分離できるものだ
(ただし脱分節性として)。

7)上記1~6の水準において作品は「生きている」。
作者の手許で生まれながら
その外部においても生きうるような生命論的「芯」があって
その芯の本質は偶成的であると同時に
作者との因縁が切断的にすらもなりうる。
現在は作品のメタレベルの算定が
「作者の事情」に偏奇しすぎているように感じるが
それは作品を経済原則がつよく取り巻いているからだ。

8)作品たるべき領域に経済原則が取り巻きすぎ、
有機性、中途性、身体性、音素などを失い、
単純に感触や意味(メッセージ)などのみに還元され、
その内実よりも「消費せよ」という命法が
先行するようになったもの----それが商品だ。

9)今後の文学的アカデミズムに採るべき道はふたつある。
9-a)ひとつが商品分析(実学)。
9-b)もうひとつが作品分析から実作への道(虚学)。
これらは同時並立的であってむろんいいのだが、
もともと商品が作品状態をふくむ系統発生をたどる点は
忘れられてはならないだろう。
アカデミズムの二面性とは
9-bのほうが長期スパンでは実学的だという逆転を
ふくんでいるということだ

10)作品では「全体」が擬制されるが
それは決して「部分」の総和から導き出されるものではない。
部分をいくら足しこんでも全体にならない磁場こそを
作品というべきで、
それは部分に調和があるため
部分の潜在的加算が作品の総量を越えるがゆえでもある。
この事実によって
作品は再見に値し、時々に再確認され、
しかも印象がぶれるものになる。
作品はだから一回的に高速で消費され、
その消費量を他人に誇るものとはなりえない。

11)上記、部分の潜在的加算にあたるものは
ある範疇の語彙でまとめることができる。
コード、ハーモニー、隠喩、合奏形といったものがそれだ。
そこには理論があるようにみえて
理論を越える独自性がかならず痕跡となってもいる。

12)繰り返すが、作品は「私」の位置から出現しながら
「世界」と織り交ざることで「非私」を結果する。
その際、「世界」から汲み上げられるべきは
「世界の感情」ではないのか。
いずれにせよ「私--非私」の反転、
その刻々の痕跡が、作品のもつ経緯で、
だからそれは物質的実体としてある。
その物質性ゆえに唯物論的なアプローチも
作品解析に約束される。
むろんこのアプローチは商品論におけるそれと
立脚を異にしなければならない。
ではどんなアプローチであるべきか。
これこそを「詩的アプローチ」というべきではないか。



まあ、こんな感じかな。

最も深い考究が必要なのは
「贈与」に関わる問題だろう。
これは中沢新一的な言い方をすれば
「非対称的世界」の内部でやりとりされる
コミュニケーションで、
そういう世界像の定位が
現在、危機に瀕している「作品」を救出するものとなる。

この場合、「作者」は以下のどちらかにならなければならない。
そう、「神」か「動物」のどちらかに

もうひとつ、「贈与」の本質が
ポトラッチではないが「非終結的」であるという点にも
顧慮がなされなければならない。
ここからいわゆる「芸術家の人生」の問題も出来するだろう
 
 

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2010年05月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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