切通理作・情緒論
【トラブルというか勘違いあって、
こちらへのアップが遅れました。
mixi上は10/4の日記です】
切通理作くんの新著、『情緒論』をたったいま読み終わる。
重量級パンチを食らったように、頭のなかが混乱している。
それがすごく、いい気持ちだ。
切通君の著作は深いレベルの未来形成力をもつ――
最初にそう確信したのが彼の初期評論集、
『お前がセカイを殺したいなら』を読んだときだった。
僕は彼の「連接能力」に注目した。
そこでは歴史上の敗者、または現在の潜勢の個々が
着実に結びつけられて、
ある星座型の模様を刻々えがきだす。
その模様のなかに、来るべき未来が着実に透視される。
それが「勝利者の未来」でない点がミソだ。
「存在」の絶対(孤独)が感知すべき未来、というべきか。
これは、ベンヤミンが歴史に関わる手法と同様ではないか。
切通君の扱うものは当時多く、サブカル的無ジャンルだったが、
サブカルを哲学(社会学)するというのではなく、
サブカルをサブカルのまま現前させて
その連接にこそ意味をもたせてしまうこの手法に
学者には及ぶこともできない倫理的なものを感じた。
●
『お前がセカイを殺したいなら』では
サブカル個々から主題論的に採取された「空」が
メインテーマの回帰のように出てきた。記憶で述べる。
というか「模造記憶」にまかせて以下「切通的《空》」をしるす。
「空」とはあらゆるものの投影幕だ。
だがそれは覚束ない。実体がないから。
それはわれわれの自由の延長線の集束。
だが、同時に、「天蓋」の言葉のあるように、
それはわれわれ地上の捕囚の思念的限界でもある。
だいいち、鳥ではないわれわれは「そこにいた」験しすらない。
空はわれわれよりずっと古く、
新しいわれわれは空によってこそ齟齬を自身に投影されている。
というか、空はわれわれの齟齬によって投影されている。
だからそれは「せつなさ」の根源であって、「懐かしい」。
ハルカナ星ガ フルサトダ・・・
最近の僕の詩句を対置させてみようか。
《最初っから鳥の翔ぶかたちは
鳥ではなく空の残心だろう》
新著『情緒論』の扉写真には
「阿部嘉昭ファンサイト」にも掲載されている
仙台在の女性写真家Keiさんの写真がつかわれている。
彼女が撮った壁のうえの影。
影の自写像(草森紳一にも同様の写真テーマがあった)。
「不如意」が滲み、写真行為の豊かなだらしなさも潜む。
わたしが影法師だという「転換」は
わたしが鴉だという「転換」のように「不敵」なのだが、
不敵さに甘んじられず、他人からも懐かしさの芯を見透かされる点、
「不如意」が最終的に枠づけられてしまう。
こういうものに対処すべき態度は「全肯定」だ。
僕のファンサイトには「空の無名」という
空をテーマにしたkeiさんのプチ写真集もアップされた。
見てもらえればわかるのだが、
まったく凄い「空」を撮るひとなのだった。
ぼかんと開き、同時にそのかけがえのなさが懐かしく、
催涙にまで導いてしまう空の顔貌の数々。
位置をしるすものの一切ない空「だけ」の碧空は
写真家の署名性を拒絶する、という絶対逆説をもつ。
その周囲にKeiさんの写真は自身を張り巡らす。
一期一会の一瞬の空を捉える彼女の運動神経は、
同時に彼女が場所をめぐる個体(場所)でしかない、という
「不如意」も抱えていて、
それで「単なる空」が幾層もの「情緒」を帯びてゆく。
――ふと憶いだす。
そのKeiさんの「空の無名」の解題を書こうとしたとき、
誰か若手論客が書いた「屋上論」が
書棚のどの本にあったのかを探そうとした。
空に最も近いその場所が、空によってこそ幽閉されている。
あるいは階段を昇った分だけ、屋上は稀薄さや死に近付いている。
そして建物屋上の構造自体が落下しなければ幽閉的で
そこでこそ人は「空」に捕囚され、宇宙的にせつなくなる。
そして若者の場所はその屋上にいよいよ近付いている――
そこでは、そんな文が書かれていたはずだった。
記憶力の悪い僕はそれを探しだすことができなかった。
それは豊田利晃『青い春』の作品論を書こうとしたときも
すでに体験していた挫折だった。
今度の切通君の『情緒論』で、
その文章がどこに掲載されていたか端無くもわかる。
――宮台真司『世紀末の作法』だった。
宮台は「開かれた密室」という端的な形容を
屋上空間にたいし、つかっているようだった。
●
以上の僕のエッセイ的文章では
最終的・大団円的に「空」の領域にやはり入ってゆく
切通君の新著『情緒論』のキーワードをちりばめている。
では何が「情緒」なのか。
「エロ」がそれだ、と切通君は果敢に綴る。
「残酷」がそれだ、とも、柳田國男『山の人生』の一挿話から綴る。
それが『文学のふるさと』で安吾が引いた『伊勢物語』の挿話と
遠く交響していたりもする。
主体が見る「風景」ももともと主体を投影されていて、
主体と不分離だ――その不如意が情緒の本質だという点を
切通君はつげ義春の談話などから高度に概念化する。
「過去は過ぎ去って戻らない」――
このことも切通君の思考のなかでは「情緒」だ。
怖ろしい言葉が綴られる。
《因果律のハッキリしているものは情緒を削ぐ》。
茫洋としたものの不如意感、その残余・揺曳が情緒なのだ。
つまり貶価的にいわれる「情緒的」の「情緒」ではない。
「論理的」の対義語「情緒的」の「情緒」ではないのだった。
ここにあるのは情緒の怪物的な論理化――そういっていいだろう。
情緒を回転させる滑車のその役目を「不如意」が引き受けている。
僕の頭のなかでは、とりわけ安吾『青鬼の褌を洗う女』の
奇怪であるがゆえに情緒的な結句が響いていた。
《すべてが、なんて退屈だろう。
しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。》
ここでは「退屈」の語の価値が転倒されている。
こうした転倒の手捌きのリアルが切通君の新著にも渦巻いている。
●
文学発見という点で、切通君に急所を突かれたのが川端康成だった。
僕は映画百年の刊行物で西河克己『伊豆の踊子』を扱い、
そのさい川端の原作も再読していた。
「いい人はいいね」という
波の同一運動のような言葉を語る少女を中心に、
それは水の縁語に貫かれた短篇だった。
主人公・一高生の「みなしご根性」が云々されるその小説は
被差別民の通路が地上に別に設けられているという
峻厳な視座にも同時に立っている。
水はつづらおりの坂への通り雨とともにくるが、
旅芸人一座の「水」は梅毒流産によって流れた、
「水子」の「水」から定位される。
その「水」が転位によって、
主人公の脳を水のように浄らかにさせるまでを作品は描く。
その際に、一座と主人公の別離が物語上、取引されるのだ。
川端『みずうみ』は中学一年のときだったかに読んで、
読み返していない。「気持ち悪い小説」の意識だけが残る。
それを自由に翻案した吉田喜重『女のみづうみ』に熱中するだけで
原作を度外視し、事足れり、としていた。
切通君は、僕が忘れていた途轍もない原作末尾を過たず取り出す。
そう、主人公は女の尾行者だった。
「内面」などない。彼にとっては女が風景だから。
その彼がある美少女を尾行する。
ついに彼女が欲しがっていた蛍籠を渡す。そして去る。
主人公の心にはその少女の瞳の「みずうみ」が揺曳している。
そののち、主人公「銀平」は安酒場で
尾行した少女との聖性と対照的な中年女と懇ろになる。
《銀平は夢幻の少女をもとめるために
この現実の女と飲んでいるような気もしていた。
この女がみにくければみにくいほどよい》。
ああ、こうしてわれわれの「不如意」「懐かしさ」が摘出されている
――そうおもった。
これはわれわれの行動の、欲望の常ではないか。
この小説には、銀平を客観描写の軸から外れて規定してしまう、
途轍もなくヘンで怖ろしい文章もあった。
それも切通君は過たず、抜き取っている。
《桃井銀平がその少女の後をつけていた。
しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、
一人と数えられるかは疑問である》。
ああ、ここにも「われわれ」の姿が定着されている、とおもう。
論理的に銀平に川端自身がすでに重なっていて、
だから「一人」ではない、という解釈をするまえに、
欲望によって自己喪失しているから
「一人」はすでに「一人」ではない、としたほうが面白い。
●
ともあれ、この一連で僕は切通君が本で出した名、
それに乗じて僕が出した名と、固有名詞を濫発した。
実際、「連接」によって思考を伸ばしてゆく切通君のこの本では、
施されている巻末索引にふさわしく、
固有名詞が思考ごとに通過して、ときに回帰までする。
だから、混乱の強度と快楽の弁別がなくなる。
たとえば先に柳田國男の名を出したが、
それは文中の固有名詞レベルでは次のように「つながる」。
《藤原正彦→ブレイク→イエイツ→宣長→柳田→
養老孟司→茂木健一郎→小林秀雄→田山花袋》。
酩酊をおぼえずにはいられない。
●
《しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、
一人と数えられるかは疑問である》という川端の奇妙な文は
ラカン学者の喜びそうなものだろう。
欲望を感じる主体は主体を喪失する。
それは対象が実は欲望によってこそ喪失するのと鏡像的関係にある。
対象はいつもaであって、主体と対象は
aの座の奪取をめぐり虚無的な取引を繰り返すのだった。
これが『情緒論』の顕著なテーマ、「ノスタルジー」と関わる。
切通君のこの本で僕、「阿部嘉昭」の名は、
まず写真家・佐内正史の言及箇所に
僕の『実戦サブカルチャー講義』を引用しつつ現れてくる。
そこで展開した「散歩論」で僕がしるした「不如意」から
切通君は自分の思考を組み立てていったとものちに綴る。
つまり僕自身は『情緒論』で過褒ともいえる扱いを受けている。
同時に『情緒論』はギャルゲーなど僕の守備範囲外もあるが、
永沢光雄『AV女優』、瀬々敬久『HYSTERIC』、中田秀夫『女優霊』、
石川寛『tokyo.sora』、つげ義春、中平卓馬+森山大道といった
僕の親炙したものにも溢れかえる。
ただ、僕が警戒し、度外視していた領域に論及を開始する
――これが、「ノスタルジー」だった。
僕のこれにたいする態度は偶然というべきか徹底していて、
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』も
『ALWAYS 三丁目の夕日』も結局観ていない
(だが『ALWAYS』は倦厭の対象ではないかもしれない――
切通君がインタビューをおこなった同作・山崎貴監督の発言は
「時間」にかんし実に叡智に富むものだとわかるためだ)。
僕がノスタルジーに対比させるのはアナクロだ。
前者をとらず、後者を戦略化する。
音楽分野でいうなら、「昭和歌謡」は結局、
クレイジー・ケン・バンドにしても
GO! GO! 7188にしても音楽シーンの更新に結びついていない。
ノスタルジーを「資本」が商品化し、
それに自己愛者が自己同一化させる枠組がまずあって、
それをそのノスタルジー対象を知らない世代までが
戦略転用するやりかたが世代補完的で、好みではなかったのだ。
むろん時間軸の攪乱は必要だ。
よって元も子もない「アナクロ」が時間操作上の唯一の戦略となる。
そこでは、一定時間への同一化が起こらず、主体が散乱する。
散乱、――すべてはそれでいい。
このときに前述したラカン的な思考が導入されると効率が高まる。
ラカン学者、スラヴォイ・ジジェクはこう綴った。
《ノスタルジーは「見えない」。
それを見ようとすれば「自分自身」を見てしまうからだ。
それはポルノグラフィと同様である》。
さすがに切通君もそれと同様の言葉を
自分の対談相手・唐沢俊一の発言から取り出していた。
ただ、この『情緒論』はノスタルジーにたいする僕の警戒を
別次元にときほぐすものなのかもしれない。
この分析がまだで、だから読後感にわずかな混乱がある。
切通君の書いた「行間」が把握されなければならない。
たとえば、こんな言い方はどうか。
・ 「時間」は寸刻と寸刻のわずかな隙間に人が住めない、
そのことによってすでに「不如意」だ。
・ この不如意を拡大し、中心化に引き戻す心性がノスタルジー。
よってそれは人間普遍的にしか捉えられない。
・ これを資本操作から自発的にわかつことができるのは
不如意の意識を最大限拡大したときだけだろう。
・ ノスタルジーは現代的情緒の典型だが、
不如意の介在を通じてのみ、断罪されない。
切通君はそのように示唆しているのか。
日曜日のトークイベントまでに
本に付箋を入れ、さらに細部を確かめてみなくては。
●
いま「日曜日のトークイベント」と書いた。
その概容は以下。
切通理作×阿部嘉昭
せつないって、いいよね!~中年二人、情緒を語る
日時:2007年10月7日(日)午後3時開演 (午後2時30分開場)
場所:三省堂書店神保町本店 TEL 03-3233-3312 http://www.books-sanseido.co.jp/shop/kanda.html
入場料:500円
一度、別の日時・場所を一旦この日記欄に
お知らせでアップしたことがあるので
間違いのないようにご注意ください。
僕の学生は誘いあわせて、こぞって来てほしい。
出席をとりますので(笑)。
僕の本も会場に取り揃えられるようです。
サイン本ゲットも、ぜひこの機会に!