僕の身体の、左右の差異
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こないだの日曜は、
「会田誠 山口晃展」→上野精養軒ののち、
新宿高島屋に女房と行って、夕食材の買い物を
(この時点ではもう豪雨が嘘のように晴れていた)。
ふとメンズコーナーに向ってみる色気が出てしまう。
改装中には(しかしあれは正式な改装というよりも
実は紛れもない耐震補強だったのでは?)
「アルマーニジーンズ」がコーナー縮小になっていて、
改装後、もとの売場が完全復活しているのか
それを確かめたいという欲求が生じたのだった。
厭味に聞こえるかもしれないが、我慢あれ。
実は僕はアルマーニジーンズを
(デニム地ではないタイプ――色は概ね黒)
たぶん8本程度もっている。
1シーズン2~3本の換算で、
中には履き潰したり色焼けしたものも混ざっているが。
このむ理由:
1) 風合いが肌に馴染み、軽い(コムラがごわごわしない)
2) カッティングが良く、おかげで脚が細く見える
(むろん長く見える、というほどの魔法を演じたりはしない-笑)
3) ブランドジーンズにしては比較的安価
4) ヨーロッパジーンズの色物はフォーマルな場所でも着用可能
(デニム地とちがって至近距離でないとジーンズに見えない。
よって大学出講時にも愛用しているが
反面、地面にじか坐りできる気軽さもある)
ところがいまの「アルマーニジーンズ」コーナーにあるのは
僕の求めていないデニム地のものばかり。
真夏用の黒いタイプがほしかったのに。
女房も「モデルチェンジしちゃったのかな?」
「じゃ、本体のアルマーニのコーナーに行ってみようよ」
ということでフロアを変え、
普段は行き着けない、高級品ばかりの並ぶアルマーニへ。
求めているタイプのジーンズはそこにあった。
これで一件落着ではなく、実はここから話が始まる。
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ふと、ハンガーにぶら下がっている
渋いチャコールグレーのポロシャツに目が行ってしまう。
「かっこいい」と女房と小声で評しあう。
すかさず女性店員さんが、「ご試着いかがですか?」と近づいてくる。
僕は面倒臭がり屋で、
しかも自分のナルシズムを他人から疑われることは
なるべく回避しようというタチなのだが、
自分を着せ替え人形状態にして、
それを鏡で確認したり、女房からツッコミを受けるのは好きだ。
「自愛の自罰」パフォーマンスとでもいうべきか?
そうなったのもブランドショップの店員さんが
悪評高いバブル時代の「つっけんどん」から
不況下、顧客第一主義となってフレンドリーに変化した点が大きい。
それで恐ろしいことが起こる。
僕の「試着」を僕、女房、さらには店員さんまでもが
笑いあう、という(笑)。
夫婦漫才か、店員を加えてのトリオ漫才。
ポイントは自分自身のイケテないルックスに
歯に衣を着せない悪罵をサラリと繰り返すこと。
店員は当然意表を突かれ、笑うしかなくなる。
通常とはまったくトーンのちがう客という認知も生じるだろう。
むろん僕自身多少、自尊心が傷つくが、
自分自身に対する言葉嬲り、というこの倒錯は
意外な快感に深層で結びついていたりもする(笑)。
あ、試着へのツッコミは他人にもやる。
女房が着たいといって試着したワンピなどに
「デブが隠れねえなあー」とかズバリ核心を突く。
このときも店員さんは「そんなことないですよ、
可愛いですよ」とかいいつつも
口の端から漏れ出す笑いを必死で噛み殺していることが多い。
で、このアルマーニのときの笑劇は
まず前述したポロシャツを試着し、
女房・僕・店員さんが鏡を覗き込んでいるときに起こった。
女房「まあまあ似合うんじゃない?」
僕「そりゃそうかもしれないけど、
俺が着ると、高いものを着てるって感じがしないだろ?
こりゃすごく哀しくて駄目だよー」
女房「馬子にも衣裳っていうんだけどねぇ(溜息)」
店員(笑)
しかもこの女店員さん、よく笑う。
だが笑い声を必死で抑制する。
それで全身が激しく小刻みに痙攣する。
この「痙攣」を俺は可愛い、とおもった。
痙攣するものは可愛い。
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ただ店員さん、夫婦の好みも何となく把握してしまったのだろう。
「じゃ、これどうでしょうか」と別のものをもってくる。
絹地の、たらんとしたサマージャケット。
黒と紫のあいだの渋い色で、まさに僕の趣味のなかでの
ど真ん中ストライクだった。
着てみると、これが「かなり」というか
僕のルックスにしては理想的に似合う
(店員の力量は、このような代替提案ができるか否かにかかる)。
けれどもちょっと値が張る。
ここからはまず、女房とコストパフォーマンスについての
リアリスティックな問答。その次がこんな展開だった。
女房「これ、立教の合宿に着ていけるじゃない。
あんた、K先生のファッションセンスに勝負をかけるって
いってたでしょ。これなら勝つかも」
俺「あのひとはフランス至上主義者。
しかも自分の似合う渋い服を海外ですべて調達している筈。
俺なんかとは桁がちがうし、年季もちがうよ。
だがあと2年で定年だし、
こういうものを着ると以後は俺の王座が続くかもな」
店員(もう身内のようになっている)「そうですよ。
K先生にもこれで勝てます」
で、結局、買うことになった。
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さてここからが次の本題。
最終的に寸法確認をする。
どうもアチラものはみな袖丈が長いので
寸を詰めようということになった。
すると僕の足許にメジャーと待ち針をもち
しゃがんでいた店員さんが
「アレ」っと小さな声を漏らす。
腕の左右でどうしても長さが揃わないらしい。
ここでも笑いを噛み殺している。
なんせ、右腕が1.5センチも長いというのだ。
「テニスとか、そういう運動をやってましたか?
それならこういうこともあるんですが。
しかし1.5センチも差があるというのは。。。」
女房がすかさず、持ち前の推理癖を全開にする。
「腕の長さがちがうのではなく
背骨が曲がっているんじゃないの?
あんた、高校のときちょっと入っていた山岳部で
《リュックサック麻痺》*になったっていったじゃない?」
[*註=重いリュックを背負った際
筋肉がないゆえに肩の神経に重みが直接かかり、
腕が上がらなくなる、などの症状が起こる神経麻痺。
半年で直ったが、これに罹ったことが退部の契機になった]
俺「おお、そうよ。右肩ね。
だから俺はいつも左肩に肩掛け鞄なんじゃんか」
女房「あんた、撫で肩でしょ? それで肩掛け鞄が滑らないよう、
いつも躯を右に傾けてたのよ。
それで、もうトシだから、
背骨全体が曲がったまま固まったんじゃないの?」
俺「そりゃヤバイよ。孫[家邦=映画プロデューサー]が
躯各所の猛烈な痛みを感じ、病院をたらい回しになって
やっと原因がわかったってことあったろ?
あれ、脊椎が湾曲して、内臓を圧迫してたからなんだぞ」
女房「エ、じゃあんたも病院送り?
ちょっと鏡の前にまっすぐに立ってみなさいよ」
店員(心配げ)「ええ、ぜひ」
立ってみる。がーん。姿勢をどう操っても
単純にまっすぐに立とうとするだけで
右肩が1.5センチくらい下がるとわかる。
腕の長さが違うのではなく両肩の高さが違うのだった。
精神ではなく、身体の右傾(笑)。
女房「あんたの躯に、また不自由が増えた(溜息)」
「不自由」の第一は当然ルックス、次が頭髪、
さらにはこの胴長体型なのだが(笑)、
見えない「不自由」もある。
自分で自分が可哀想とおもうのは「足」。
「ダンビロ」「甲高」「偏平足」の「三重苦」なのだ(笑)。
腸もずっと弱いし、
ほかにも最近いろいろ苦労の種が増えつつある。
最大なのが「老眼」。もともとド近眼なので、
CDジャケットのように細かい文字は今や
どんなふうに眼前の距離を変えても読めなくなっている。
虫眼鏡は男50の必須道具ですよ、
と、かつて映画史家の田中眞澄さんがいっていた。
俺より2コ下の先述・孫もこのところ老眼が煩わしいといってた。
そこに脊椎湾曲がまた加算されたのだ。泣けてくる(笑)。
ともあれ、右腕のほうをより1.5センチさらに詰める、
ということでこのジャケットの購入が決定した。
こんな大きな身体の異変に気づかなかったのは
通例の僕は半袖が多く、長袖のときも腕まくりが多いからだ。
こういうことが最もはっきりするジャケットもあまり着ない。
これらが祟った。
ジャケットを最後に買ったのは5年前ほどではないか?
するとここ5年で僕の背骨が曲がって固まったのだ。
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昨日(6/12)の午後はずっと読み落としていた
瀬尾育生さんの『戦争詩論1910-1945』を読んでいた。
瀬尾さんらしい緻密な論理展開をもつ名著。
国民国家や外部性の概念から
いかに新体詩が口語自由詩、モダニズム詩、
さらに戦争詩へと突入していったかが分析される。
「想像力の質」という大問題がそこから浮上してくる。
瀬尾理論には驚きも伴う。
プロレタリア詩と狭義モダニズム詩はいわば正反対の回路で
戦争詩への頽落を迎えた、とする意外な立証に
評論の力点が置かれていたのだった。
評論中には講演をもとにした口語文があり、
そこでは北園克衛や安西冬衛(初期荒川洋治の源泉だった)等の
戦争詩以前と戦争詩の切断/連関が
詩の実際と社会背景への豊富な洞察から考察されてゆく。
鮎川信夫と吉本隆明の戦争責任論が殺し、
「消えてしまった」詩人・大江満雄の復権がそこに付帯する。
その最後の章にこんな一節があった。
《意志と情熱の身体がある。
言語はそれを開示するが、
詩的な言語は無媒介性だから、
サブスタンスの衰弱が表現の衰弱としてあらわれる》
《詩的表現が受容され、問題とされ、論じられるために
必要とされるのは
ある存在的な連続性であり、
それはたんなる生存の持続ということではなく、
意志的・情熱的な身体の連続性なのだ[・・]。
戦争期におこったのはとりもなおさず、
この存在的な連続性の損傷であった》
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僕の脊椎の湾曲も「損傷」にちかいと覚悟する。
身体の意志性・情熱性はそれに阻害されるにちがいない。
ただそれでも身体の詩性を護持することができるか?
となれば、身体の老化・衰弱を
新たな「逆転的意志」につくりかえ、
それで詩作が情熱を描きだす
方法の隘路が考えられねばならない。
「逆転的意志」は同時に「別のもの」も呼び込むだろう、
視点の複数性、諧謔、認知のヤクザっぽさなどを――。
僕はこれから自己身体をそのようなものに
作り変えなければならないのか。