演習秀歌選(七月六日、十三日分) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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演習秀歌選(七月六日、十三日分)

 
 
立教前期の僕の授業が
とうとう終わった。
いよいよ夏休み。
マンガ講義の大量のレポート採点以外は
ほぼ能天気な夏を過ごすことになるだろう。

したがって短歌演習もとうとうおしまい。
受講生が次々にブレイクして
(たとえば今回なら中島太郎)、
僕には愉しい授業だった。

成功の秘訣は題詠主義をとらず、
モチベーション主義をとったこと。
それと、先に口語短歌をフィーチャーして
作歌のハードルを低くしたこと。

けれども文語短歌のうつくしさに向け
徐々に覚醒をみちびき、
たとえば久保さんなどは
それで作歌がいま膠着している
(これは実は良いことなのだ)。

期末提出物はずばり「歌集」。
僕が印をつけたものに新作・直し作をくわえ
総計50首を目処に
自らの編集意識を貫く歌集をつくって、
というかなり難度の高い期末課題となった。
むろん、それは受講生の成長が目覚しかったからだ。

これは三年次演習なので
彼らは来年は卒業制作に入る。
引き続き短歌(歌集)をつくるなら
来年、卒制で面倒みてもいいよといっておいた。
望月裕二郎の歌業を引き継ぐ恰好だ。
もう二人が「お願いします」といっている。
もう少しふえるかもしれない。

いっそのこと、小池さんや望月くんとかも巻き込んで
「立教短歌会」でもでっちあげちゃおうか(笑)

では六日、十三日の秀歌を----



●福島 遥

ほんとうのことを伝える練習をだまって聞いてくれるやさいたち


いけすの魚にがしてまわる どさくさにまぎれて君も私も海へ


たいように睡眠薬をうって 今、見たこともない顔をする君


システムをこわしていって最後にはハダカンボウのわたしを撫でて


いつだって既視感だけで生きていてまるで世界はひとつの映画


まんなかが空洞である二十年生きていてもまだ空洞である


一篇の詩歌になっていくからだ君がわたしにすっとさしこむ


さっきより音色が高くなっているあなたの弦をそっとつま弾く


やさしさを運んでくれたみずいろの風にはだいろお返事として


いっこうに昼間である日 家猫になってもねむりに墜ちないのです


どうしてもつくれない色あけがたの空からもらうバケツをかかげ


さよならがいえない君はいつまでもひらひらと夜に舞うモンシロチョウ


おやすみとおやすみの間のしずかなる呼吸のように香る茉莉花



●山本晴佳

おあずけの「三日待って」は えあばっくみたいなものです。「事故はこわいです」  

    
土曜日に「キティじゃなくてミニーだから」といいわけをして食べられてやった


よくぼうを見つからぬようおむれつにつつんでつつんできみに食べさせる


くれよんで、使ったちり紙に虹を描き、きょうという日を鮮明にした


「しあわせもひゃっかいめには苦くなる」一〇一回目できみに言うつもり

  
オルゴールの針ちぎって安息日“だれかのわたし”を削ぐこころみ


かたくなにかたわらでわたしかたくなり36.6℃の化石


一枚の布をかぶせて「はい終わり」きみのセックスは死に似ている。    

  
なりたいなぁやさしいからだ。ひよこまんじゅうにちゅっとくちづけ。

  
いつもより大切にしたいひとなのでスカートはあえて長めにしました。


懐かしさ香る電話がありました。きんぴらごぼうにゴマちりばめます。


そのすがた色っぽいよりは透明 朝に生まれた君のむきだし


( し ょ う し つ ) 私せかいにいなかったエスカレーターのる間だけ


とある朝私は疲れて風呂に入りくらげになろうと決めたのでした。


夕飯のたまごどうふのくっしょんが今宵二人を守るはずです。


味噌汁がしょっぱいミスを消すためにどうぞ世界よ滅んで下さい。


できたてのお米をつつむゆげに似た膜にくるまれ幸福なきみ


ろうじんがエピローグとプロローグ入れ替えたのに誰も気づかず



●門司奈大

いまいちど胸のかたちを確かめる甘夏のたねはもう取り出せない


ブックカバーかけるくらいは大切にしたいと思う三日月のひる


くちびるに木綿の糸を巻きつけて君を私の酸素にしたい


暁にひかりをすべて受け止めるパラボラあんてなみたいになって


親指の爪をおととい切ったので君のキリトリ線はそのまま


指先におおきな腫瘍ができましてかえるは跳ぶたび優しくなります


不足したわたしの一部を切り取って黒いのらねこの尻尾に結ぶ


ぼろぼろと拡散していくだけだったイヤホンの位置を正してみても


回転をつけたら向こうへ投げ飛ばすあれはいつかの海洋生物


「開くドアにご注意ください」そちらには明るい何かが詰まっています


愛情の形をいつしか履き違え靴ずれしても脱げないでいる



●坂井 雅

古本の紙やけの跡のグラデーションに宇宙の真理を見出せる朝


風に舞うサランラップの大群を見送ったならカン蹴りしよう


シャーペンの芯のせせらぎききながらねむりとめざめをいったりきたり


CDをききながらアイスを買いに旅立つイギーポップのわたし



●廣野友里恵

指先が茶色い海に沈んでく、軋んで落ちて私目覚める、


会いたくない。絶対に君に会いたくない。ねぇ だからせめて声が聞きたい


ケータイを持つその手つき同じ形でアゴを持つのね



●鈴木寛毅

くもの尾をさがすと言って街にでたさきで お金はらってお風呂につかる。


新宿でやきざかなたちと目があった なるほど、ぼく、そんな目してたのか。


射し込んだ斜光をのぼるほこりたち ふれようとして手をさしのべるきみ


その瞬間とおくのくもがちぎられて、からすがさよならつげた。ないた。


ぼくもまたかれらのようにじき闇にとけいるのだから、はっか飴かむ。


まよなかがおわる電車にとびのって、だれも知らないベッドに行きつく。


あさりさえ僕と目すら合わせない。もうわかったよ。火にかけてやる。


ねこじゃらし、かぜでさらさらゆれてます。はじにいるのはとりあえずのぼくです


かがみさえうつさぬものを好きになり、スケートリンクを抱く水曜


認識のあめあらしのなか僕はよく、うそつきおばけと遊んでいるのです。


まなつ日のきみの昼寝はびしょ濡れの飲み忘れてたコカコーラみたい



●中島太郎

ゆれうごく淡い睡蓮見つめては (ほのおのようね) あなたのようだ


火星にもチンジャオロースがあると知り 踊たくって夕立のなか


水色のわたしがほんとであることをわたしはどうしても気づけない


火星では時計をなくした人々が下北沢に移住のよてい


ニッポンのとりわけ絶頂見るための夜の幽体実行中。。


城壁にレモンイエロー塗りつけてわたしを照らす空しい暴力


わたしたちがスパゲッテイーを食べている その前からあるエジプト文明


野球したときからうっすら感じてた ゆくなら九月のパライゾがいいね


半分が絵本でもあるひとびとが東京駅で始発を待っている。


わたしよりブログにちかいわたくしに 町のでんきを消させてほしい


さよならが空へと昇って行くように 言葉はそれほどかるくあってほしい


カマキリ 気が済むまで泣いてくれ わたしの肩を湖にして


女子大で女子をするきみたちが すなはまにうめた使わないきもち


だれにでも魚であった過去があり うろこのような涙をながす


ぬか漬けにしておこうかともおもったが あえて廊下に立たせた言葉


すこしだけ僕といっしょに止まってみないか 風も車も大海原も


蜃気楼の中まで来てしまったとおもったら きみがひっぱりだしてくれた


太平洋の孤独なクジラの警笛を ベガだけが黙って聞いている


夜の風がすべてを飛ばしたはずなのに言葉だけが道に転がっている


なにもないこの四角い部屋には ただ なにもないということがある



●安藤由貴

目と耳と鼻もついでに持ってって。白い人形に私はなりたい


12時を少し回った風呂上がり産地直送お味はいかが?


あじさいに見守られてる靴擦れに気付かないでとペダルをこいだ


給料日だから今日はコンビニでスパークリングな明日を1つ


新宿の僕の温度を手に残し弱冷房車をえらんでみたけど


コンタクト君から見えないこの場所はステンドグラスの紫みたい


決められた髪型服装、決められたあなたのそばで意味がほしくて


とりあえず何かで私を満たしたい。たまごかけごはん独りを埋めて


キスはなし小さな銀色そっと置き冷たい世界に旅立ちます


右耳のピアスをさわってすごしてる血がでたらいいなと少し思う



●久保真美

わが裡に天よりきたる大火事をしづめむと夏のストーブ抱く


ぎんいろのこいぬをさがす 若草に初夏のひかりの群がるあたり


丘のあり川の流れる手のひらを箱庭としてきみに差しだす


かなしみと夢とうつつの煮こごりをそつとすくひてくちびるに寄す


わが窓の鉄格子にて囚わるる孤月の夜を逃がしてやらむ


身熱のみ われの形を保つもの 蝉鳴く声は遠くなりゆき



●長野怜子

当てつけに聞こえてなんかやらないさ ヘッドフォンをした。無口な君の。


鮮やかにパソコン壊していくきみの衝動じゃなくてほくろに惚れた


石像とたんぱく質は2:1 あとは樫、水入れればわたし


夜も深けて 黒塗りの川に実を沈め 浮かばないことに決断をした


海原にゴマを2粒蒔きました。伸びるあてなどないというのに。


踊るならピントを私に併せてよ。葬式前で顔は青いけど、


ティッシュからいかの匂いがしたんです。「浮気?」「いや、自慰。」「嘘付くなよおい。」


鋏では突き刺せぬものもあるのだとあなたの心臓が教えたのです。



●三村京子

をとめごの狐にかなしき恋はなしあなたをあやめゆくような藍


激しさは感情なんかじゃないらしい。宙(そら)に浮く庭、冥府の家屋


君の顔おもい出せぬも体だけ夜気をよく知るときの口づけ


ありえないとどかないもの恋うること。水晶のドア叩く囚人


下町のひとがやさしくからだから落としてしまったビー玉は何?


照り返す区切られた壁 団地にて夢みたことの見境のなさ


十五分、歯磨きをしてをりました。夜雨の奥にすいよせられて


切り刻むことばはわれに返りくる比較文化の義眼もってる


としょしつの海がみえてるまどをあけ望遠という種をしまった


夜空には銀貨うかんで女らは月さす洞でカオのこうかん


ベッドには藁束がよこたえられて意味のないよういのっています


皿あらうわたしの手から水になる白亜紀ころとおんなじように


傾いてしまった肋とりだしてわたしを食べたあるきだそうと
 
 

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2010年07月14日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

掲出短歌についてのコメントが出ないので
ちょっとセルフコメントで補足を。

短歌の演習授業をやってみて
やっぱり意識せざるをえないのは
五七五七七という黄金律のどうしようもない魅惑だ。

この魅惑が第一句から第五句までの
リズムの均質性にある点はいうまでもない。
短歌では岡井隆や菅谷規矩雄に照らすまでもなく
実際の五音にたいし三音の休符、
実際の七音にたいし一音の休符を配して
各「句の小単位」が均質時間で読まれようとする擬制を生む。

しかも短歌ではそれが五回繰り返され、
この「五回」こそが「歌」を成立させるための
最小基準となる。
実は「三回」の俳句ではそうならないのが味噌だった。

そうしてミニマルな「歌」の枠組のなかで
瞬間的な認識や自分の「情」を描こうとすると
それらは黄金律の支えというか化合を受けて、
一気に荘厳〔しょうごん〕化する。
この機微に気づくと、
もう作歌がおもしろくてやめられなくなる。

演習授業では、最初に塚本邦雄の実例をしめし、
語彙に凝って語関係(「喩」など)を盛り込みすぎると
即座に「調べ」が疎外されると実証した。

語彙はどうセーブされるか。
たとえば縁語などをつかい語彙分布を一定性のなかに
平準化/透明化する。
あるいは虚辞をもりこみ一首全体の情報量を軽量化し、
一首読み下しの際の直線性を細く整備する。
反復の効用もあるだろう(たとえば葛原妙子)。

こういう情報軽減化の要請のあるとき
実は口語の使用が奏効する。
口語こそが受講者が通常抱いている「自らの情の軽さ」を
表現するに抜群の道具だとも実作のなかから掴まれてゆく。

詩的飛躍をたとえば一首のなかに限定的に実現させるだけなら
それで一首の可読性も高まるだろう
(掲出者のなかで例外的なのが三村さんの作例で
彼女の場合は語関係の詩的飛躍が輻輳的、
つまり最も「一行詩」短歌にちかいのだった)。

来年は立教での最後の任期になるので
演習授業では初めて
プロパーな「詩作演習」をやってみたいとおもっているが、
実際「改行詩」では一行のあと
黙読にファジーな「休符」が介在して
やはり一行単位が等質リズムで読まれるような擬制が生じ、
それで言葉のつらなりが音楽状態になるとわかる。

このときも同じように「語関係」を膠着させないために
語を逸って出さないことが
可読性と美しさの向上に寄与するのではないかとおもっている。
その意味で現代詩的な「膠着」「硬化」「マチズモ」を回避するため
やはり短歌のもつ「歌唱性」を吟味する意義が生じてくる。

短歌演習で提案しなかったのが
歌壇的な意味での「連作」だった。
ただし日常的・日録的に短歌をつくり、
その歌作意識によって日々の流れを充実させるような、
そう、「人生」に関わる提案はおこなった。
詩作、歌作、句作それぞれが
そのように生活(余暇)の充実を生む。

そのことが若い世代にはちょうど良いのだ。

逆に本当に小説家志望になったりすると
卒業後の生活が不安定極まりないものになるので。

かなり圧縮的だったかもしれないが
演習で短歌を教えたことの意義とは
以上のようなものだったと総括できる



一概に、「詩を教える」のはおかしい、
「詩はそれぞれが自ら書きだすものだ」
という考え方があるだろう。

それはわかるのだが、
短歌俳句、詩にはリテラシーの介在も前提されていて
その能力が向上すると受容の悦びが増す----
ただそのことだけを端的に伝えるだけで
授業があっさりと成立してしまう、
というのが僕の経験則になってもいる。

となると生徒に実作をさせて僕が解釈し、
既存歌人の模範作例をプリントにしめして
僕が解釈するだけでいい。
解釈水準がちがうと生徒が気づけば
その「気づき」は彼らの批評意識となって
その実作に再反映されてゆく。

この次元まで実証的にたどりつくと
「詩を教えるのは無意味」という評言こそが
逆に無意味だと気づく。
そのような語りには教育的本義がない。

短歌はむろん「結社」が歌会、吟行、同人誌などをつうじて
このような教育効果をずっと担ってきた。
それがネット短歌時代になって機能不全になる。

このとき大学の演習などのもつ効用は大きいだろう
(水原紫苑での早稲田の演習など)。
ただし時代は変化した。
「口語」が突破口になるのは仕方のないことなのだ。

演習の最終段階では
文語短歌の姿の美しさに受講生はもう気づいていた。
ただし文法も古語も知らず、十全な発現もできない。

そのときまずは何を参照すべきなのか。
僕はあっさり固有名を告げた。
斎藤茂吉----
『赤光』『あらたま』がまずは読まれるべきだと。
茂吉こそが万葉と現代短歌を綜合する位置に
いまもあるのだと



とんでもなく美しいものは
「とつぜん」やってくる。

たとえば上に掲げた中島太郎くんの歌を
もういちど示そう。

ゆれうごく淡い睡蓮見つめては (ほのおのようね) あなたのようだ



あ、もう一個、詩的な演習授業にはコツがある。

講師もまた自分の実作をしめすことだ。
それで高みから教えられているという抑圧を
受講生が感じなくなるのだとおもう。

さらにコツをいえば
解釈の際にユーモアをしめすことだろうか

2010年07月15日 阿部嘉昭 URL 編集












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