雑感(七月二十八日~八月二日) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感(七月二十八日~八月二日)

 
 
貞久秀紀さんの新詩集『明示と暗示』が届いて
読み始めた。

一切、難解な修辞がなく、
すべての言葉が「明示」性のもとに置かれているのに
修辞そのものが自然に把持する反転力によって
明示の裏側に暗示がはりつくようで
その短詩篇すべてに幻惑的奥行きがある(ようだ)。

(ようだ)、と限定したのは
なまじっかな咀嚼力では嚥下できない
明澄性によって
詩句のすべてがひかり輝いているため。
ひかりすぎていて噛めないのだ。

詩篇の多くが端的な散文体で書かれ、
同語が出没位置を変えて
そこで世界ができる。
どういう世界か。
「ある」、それだけの「ある」。

前田英樹さんのある種の文章と印象がかぶるが、
それでも貞久さんの言葉は
詩文であろうとして
どこかで論脈が不可思議に鞭打たれている(とおもう)。

これは論評に真剣にならなければならない、
軽いのに重量級の詩集だ。

とりあえずは半分まで読んだ際の第一印象を
興奮のうちに書き留めておく



貞久さんの『明示と暗示』、
いま第一回目を読了。

気がつくと、オビには、
《ある文によって暗示されることがらが
すでにその文に明示されている
--そのような文があるだろうか。》という
挑発的な言辞がしるされていた。

上、僕が書いた雑駁な印象は
「暗示」と「明示」の順序が逆かもしれない
(「同じこと」になるのかもしれないが)。

お気づきのように「詩手帖」に二回連載された
あの「奇妙な」詩論は
貞久さんの今回の詩集を読み解く鍵となっている。

もう一回、「明示と暗示」のせめぎあいについて
貞久さんがしめした驚異的な例文を引こう--

「三十七文字で書かれているこの括弧内の文には何が書かれているか、それを説明せよ」。



この欄の読者のために、
『明示と暗示』から一篇、引いておこうか。
ただしネット空間の可読性をかんがえ、
原文の句読点箇所を改行、
原文の行アキはそのまま踏襲することにする。



【薄にそいながら】
貞久秀紀


ここにある薄は、
道にそいながらふれてくるほど親しくつづき、
ここではゆれているとみえず、
遠くあのあたりではゆれている。

しばらくここにいて、
ゆれずにいるとみえるこの薄は、
このままおなじ道をあるけば身近にいたりつくあの薄が、
いまも目にみえて

遠くそこかぎりでゆれているように、
ながめていればゆれており、
ここからは、
おしなべてこの薄とあの薄でゆれる。



前のコメント欄に
「藤井貞和主義者」である自分を標榜したが
「自由詩」とは発語の自由を希求しながら
構文、あるいは詩行の明視的均衡において--
すなわち点在においては--不自由である、
というのが藤井詩学の要諦じゃないかとおもう。

そうした二元性を生きる詩が
現状、すくなくなっているのも確かじゃないか。
ところが実際には花田的な命題、
エラン・ヴィタルとフラン・ヴィタルの葛藤、
はまだ続いている、というわけだった。

詩篇は批評的容喙をたえず求めているが
作品環境が液状化した以上、
「感想の単純」だけが横行するようになった。
かつての僕の主フィールドである
映画や音楽ではもっとこのことが顕著かもしれない。

となったとき現代詩の担う使命もほぼ一点にかぎられるだろう。
「(思考の)自由」の引き金にならなければならない、
ということだ。

現在、『ユリイカ』の原稿のために
福嶋亮大『神話が考える』(青土社)をひもといている。

ネット社会を解説の言葉で囲む、という点では
この本は東浩紀のゼロ年前後の「達成」を
継承する素晴らしい「思考の書」であることは疑いない。
ただ、その思考の手続きはコンファームに似ている。
つまり実際は狂気を導く「自由」への希求からは遠いのだ。

哲学的社会学の限界?

個人的にそこに代置されなければならないのが
「詩学」だとおもうのだが、
社会学的思考がツイッターなど「商品」に親炙するのに対し
詩学はあくまでも「作品」を搾りあげる、
その延長線上にしか自己定位ができない。
そのことに、「わるく進む世界」への逆転要素も仕込まれている。



真の創造性は
逆行の位相を
帯びるようになったということだ・・・

心せねば



とはいえ、その「逆行性」は
たとえば稲川方人の主張のような、
「詩人という特権者の復権」とは無縁だ。

ぼくらの書くものは
対象化され、変型され、参与され、
増幅され、利用され、廃棄されることで
ぼくらとは別次元をたえず生きられなければならない。

この点では福嶋亮大のいうことと似るとはおもうのだが
偶然性を必然性に「みんな」で再文脈化するのが
現在の「神話」であるのなら
偶然性を偶然性のままに崇敬することが
作家への崇敬を保証する
逆行的なありようがある、ということだろう。

偶然を強度にたもち、
簡単な容喙によって必然化を許さないこと。
しかしそれには難解な堅牢化が作品組成に必要なのではなく
実際はそこに手を入れても対象化が覚束ないような
海綿的な「柔-強度」が必要だということだろう。

稲川的単純性にはこれがわからない。
自己言及矛盾を簡単に仕出かすのと
事態は連続的だ。

ともあれ稲川のように「無意識」を糾弾することは
実際には「作家への崇敬」に逆行する。

無意識には二層が想定できる、ということだ。

ひとつは単純原理的に創作の潤滑油となる無意識。
これは近代性によって保証されている。

もうひとつは無意識を意識化して成立した新・無意識を
さらに意識化して上位次元の新々・無意識となし
その無意識をさらに意識化して・・・
といった無限循環の相にある
現在の「神話」の作用域にある(無)意識のことで
これはむろんポストモダンの商業資本によって
保証されている。

で、前者だけを希求するというのが論理的に正しそうだが
実際には現在が
ポストモダン的商業性から出られないのも自明だから
この「逆行」がありえない、ということになる。

そうした「意識」をもって
「詩はみなで書かれなければならない」
(詩作における「個人作者」の神話が
半分機能しないようにしなければならない)というときに
詩作や詩誌の新しいありかたが
いま問われている、とはおもうのだった



「ネット」プロダクツ段階というのは
ヴァリエーション化と平準化の区別がつかなくなった
座標軸喪失の段階を指すだろう。
反射的に「ネット詩」への言及ととられそうだが
実際これは詩壇的な特徴でもある。

座標軸喪失には座標軸喪失で対抗するのが賢明だろう
(座標軸再建はたぶんニヒリズム蔓延のなかでは
徒労に終わる)。

「個別化と民主化」、この弁別を
実践において曖昧にする
詩作や詩誌編集があればよい、ということだ。

そう、ここでも「柔-強度」のような
二重構造が必要になってきている・・・



現在の作品が享受者の生の指針になるとしたら、
その条件は作品が単純に「柔-強度」をもつ、ことと
いえるかもしれない。

それは作品が本来もっていた強度を
やわらかさで手なづけ返したものだから
それ自体が再帰性・事後性をもっていて
そうして「元あった自ら」から変貌を経過した、
このこと自体の厚みのなかにこそ
受け手への指針性=教訓性がある、
と捉えることができる。

そうなって、「単に硬い作品」は
「単に柔らかい作品」とともに退けられる。

作品のたたずまいとしての「二重性」(の必要)。
「柔らかくないと、その硬さは読まれない」とも
それは換言が利くし、
「二重性の必要」についてなら、
「弱さの強さ」などといった別の言い方へと
さらに転換が生まれてゆく。

いずれにせよ、現在の狡知は
とりあえずその「二重的」な表情に集約される。
「面従腹背」とか「巧言令色」といったものが
道徳的に理論化される必要も出てきているのだった。

ところで作品が内包する硬さの最たるものとは
個別性ではないだろうか。

たとえばネットユーズの音楽は
体感的快楽に訴えるだけのリズム、コード等で組織され、
それは内実をもっていない。

そのメッセージは「聴かないことを聴く」
あるいは「聴くことを聴かない」。
逆に個別的な音楽は
ネットユーズの音楽とちがい、
「個別的な聴きかた」を組織するがゆえに
それ自体が「強度」なのだった。

しかし私が個別性であり、
受け取るあなたもその反射の限りで個別性になる--
そのような力場をつくりあげないなら
どんな作物も「表現」たりえないだろう。

表現の根幹には、人間信頼的な抵抗が存在する。
それをいわない社会学的思考は、
やはりニヒリズムの文脈にあるといわざるをえない



昨日は詩集の体をなす詩集が
三冊同時に郵便受けにあった。

高貝弘也『露光』、高岡修『幻語空間』、
茂本和弘『あなたの中の丸い大きな穴』。

『露光』は依然として高貝ワールドの開陳だ。
高貝的二重性が「彼岸性」と「親和性」の綜合から出来し
それ自体でしずかな狂気を誘発するものである点、
忘れてはならない。

しかも僕はその内容よりもその「詩集形」にもっと着目する。
断片が間歇性を保たれて藁束のように置かれつつ
徹底的に無名な「綺語絵巻」をつくる。
そのときの空間と時間の無分別そのものが
たぶん循環的に迫ってくる高貝詩学の本質なのだ。



『幻語空間』はそのタイトルからしてわかるように
高岡さんの衒気が漂う詩集だ。
詩における衒気そのものがもう旧いのだが、
その衒気が高岡の出自を分岐させているのが
僕には興味ぶかい。
68年詩の自動記述性、短詩系文学の余韻、
とくに季語的なもの、平坦なモダニズム、石原吉郎・・・

高岡さんの特徴(二重性)は
《論理的なものを脱論理性に再組織させながら
結局は読者に「論理」をつかませる》点ではないか。
それはしかし本当は逆であるべきかもしれない。
つまり、上、《 》内の「論理」と「脱論理」は
すべて入れ替えられるべきかもしれないのだった。

高岡さんの詩では
フッと「俳句」の混入する瞬間などがいつもあって、
そういう点が僕の偏愛理由になっているのは確かだ。

今回ならこんな戦慄的な一句--

白葱は白い谺として洗う



茂本和宏さんの『あなたの中の丸い大きな穴』が
僕にとってはいちばんプロパーと感じられる詩集かもしれない。

刻む律動も、悶える曖昧も、繰り返される冗語も
すべて身体的に「わかる」というか、
完全に僕(阿部)とも似た資質だとおもう。
そういう類似性によって郷愁が生じ、ふと「泣けてくる」。
ただし湿潤傾斜を戒める、というのが読解態度になる。

父さん
悲しいのは詩を書く私ではなく
詩です
詩はいつも少しだけ悲しい

という、素晴らしい一節のある
詩篇「朽ちていくのは」もいいけれど 、
僕が「いいな」とおもったのは
詩篇「問いにぶら下がって」の過激な冗語性だった。
最後の三行を割愛して以下に引用しよう。



元気かと問われて
そこから先が折れている
折れたその端に
ぶら下がる
とりあえず
ぶら下がって
元気です と
返してみるが
先の折れた問いは
問いのまま
ぶら下がった私は
ぶら下がったまま
何のかわりもなく
夕方になったりするのだ
すると また誰かが
元気か と
折れたそれを突き出してきて



詩という、単純簡明で短い、と誤解されている形式は
ネットユーズでは「感情」を
洒落た言い回しで盛り込む表現の器、
と多く目されているだろう。

ところが「洒落た言い回し」は彼らが操っていると信じていても
一切実現していないし、
もともと詩には「洒落た言い回し」そのものも必要とされていない。
したがって「洒落た言い回し」については
二重の誤解が彼らにあるというべきなのだ。

それはともかくとして、
彼らは彼らの使いうる言語体系によってしか
通常いわゆる「ネット詩」を書いてはいない
(この点では口語短歌と似た立脚だが
そこにはほぼ韻律の恩恵がないのだった)。
現象しているのが当然「世俗化」だが、
「世俗化」がある様式を帯びている点には
注意喚起の必要もあるとおもう。

彼らは真正の詩を書いていないのに、
ブログやSNSという利器をもちい
「詩を書くこと」については発言を繰り返す。
差別的な言辞を弄するなら
「楽屋」(by稲川方人)を語りだすことで
自分たちの生産性の厚みを
職業的文筆家のように詐称してみせるのだった。

ところが逆に、彼らは
実際に自分の詩作中には
自分自身をちりばめない。
たぶん語るべき哲学的もしくは行動的
もしくは感情的な自分がないのだろう。

その代わりに彼らが書くのは
いわばサブカル的な操作子そのものであって
その意味で言語単位は「意味」単位と単純に等しくなって
構文もこの点を単純に反復するのみとなり、
構文自体の破壊に向けての変容を記録することができない。

これもまた詩作の世俗化の一様相と呼ぶことができる。
言葉が世界像に小さく縮減されたうえで
そこでは「小さな洒落」だけが殺伐と機能してゆくのだ。

ところでこのような姿の詩が
ネットワーク上で成立しやすいのは
その流通容易性、模倣可能性からいって当然なのだが、
実際の詩壇においては
これは詩の68年世代が先鞭をつけた傾向だった。

「書かれているような錯覚を与える詩」は
言語への根拠なき信奉によって起こり、
その最も象徴的な存在が北川透だろう。

一構文や一行に展開を刻々生じているという責任がなく、
詩空間の連接と
「洒落た言語感覚」のみがあるだけのような産物。

北川透的なものがネットに蔓延するのは
当然、詩の構造と世俗化の瞞着からして当然のことで、
だから「北川的なもの」は阿部が今年初頭、
首都大学東京において実際に見聞したように
「詩の現況を自分に置き換えて完全に語る」という逸脱をも犯す。

現在の世俗的な詩作精神はそこまでの厚顔無恥を
自己演出することはできないが、こうは自分語りできる--
「現代の詩が不毛なように自分の詩も不毛だ」。
ここにも底上げされた代表意識がまつわっている。

詩の世俗性を、
詩の通用性・周囲への浸潤性・変化の体現性などと置き換えたとき、
むろん詩の世俗性には
ネットユーズ・サブカルの二次創作のように、
偶然性の脅威を必然性へと縮減してくる
容喙誘導性があると理解できるだろう。

その意味でネット詩はネットユーズの必然として
集団創作性を経由して連詩を呼び込んでくる。
連詩の要諦はたぶん「変化を体現する調和」ということだろう。
連詩で個別性が衝突しあうだけなら
それはネットユーズのもうひとつの局面、
ディスコミュニケーションをただ結果してしまう。

以上のような揚言からいえること。

1)ネットワーク社会の詩作者は連詩を中心に考えることで
個人神話を抹消する。
また連詩に参入できない作者は
ネットワーク社会にとってやがて過去の遺物となる。

2)そうした連詩のありように
たぶん詩作の世俗性を滅却する方法論が伏在している。
つまり既存(先行)作者を
自分の詩作において一旦転写しながら
その転写作業のなかに抵抗子を加え
それをパグ化することで詩を更新する、ということだ。

まあともあれ、福嶋亮大『神話が考える』を
あと50頁で終わり、というところまで読み
舞台を詩作状況にまでずらして考えたのは
以上のようなことだった
 
 

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2010年08月02日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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