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天気 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

天気のページです。

天気

 
 
【天気】


落ちていた水は拾われぬ
空との平行をえがくものは
とおくに返さなければならないが
彼岸まで、対比がうつくしく割れて
投影めいたものも地に走っている
そんな水いろだろう、向かいは
つまり向かう前空の窓だった
ひらかれて一揖される気配を感じるが
日の増加ということでもない
あしたの舌を口腔にまるめ
球を想起した無言で往き帰ると
いよいよ空気が周りにみち
上昇を一身にあつめたような
清潔な月をみあげる夜もあった
 
 

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2010年08月11日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

やあ、寝て起きてみると
ようやくミクシィがアクセスできるようになっていた。
やれやれ。
(しかし、まだ復旧は完全でない?)

じつは昨日は「ユリイカ」用に
原稿を書く予定だったのだが、
その原稿のための備忘録を
ミクシィの自分の日記のコメント欄に
セルフコメントとして書き散らしていて、
それらをみることができず
原稿書きまで断念してしまったのだった。

頻繁にアクセス障害が起るようなら
このようにミクシィに
自分の情報を集めておくのもリスキーかもしれない。
ミクシィを通じて連絡をとりあっているひとも多く、
実際のメアドを知らないことだってあるし。

で、昨日は午後から原稿に関係なく
詩集を読み始めてしまった。
魂のリハビリのつもり。

最初は黒蛙さんの示唆の影響で、
江代充『梢にて』を久方ぶりにひらく。

江代さんの詩というのはどう表現したらいいのだろう。

「噛み応え」がある。
透明で緻密な「描写」が充満しているのだが
(つまりたとえば中本道代的「圧縮」でもない)、
文脈がなかなか了解できない。
一篇を読了すると即座に読み直し、
その「二度目」に、梢、鳥、道など
「地形」に類するものと
人物との関係がおぼろげにわかってくる。

「みえる」「うかがわれる」というふうに
視界が描写されているのだけれども
詩篇冒頭から掉尾まで時間があまり動かない。
その動かない時間を読解がわけいってゆくと
「事物」の静謐な配剤が
ほんとうにゆるやかに定位されてくる。

黒蛙さんはいいことを書いていた。
江代さんの詩は読み手の聴覚をゼロにすることで
世界内関係の浄化をうながすのだった。
それで詩がかならず「叙景」の域に収まらなくなる。
これが圧倒的だとおもう。

言葉数がすくないのに
一詩集を読了するのに時間がかかるし、
読後の影響も透明感にあふれているのに
何かの強度に接して深甚な傷を受けた感じになる。

このごろ僕は「本質的な詩作者」という形容をよくつかう。
「文学趣味」を改行や散文の枠組にただ容れて
安閑としている作者ではなく
そういう詩的形式でしか書かれている詩的内容が成立しない
という不自由を謳歌している(ヘンな表現だが)作者を
たぶん「本質的」と呼んでいる。

この範疇の作者は、
詩行なり詩文なりが加算されることが
そのまま世界=言葉の認識につながっている。
まずは認識論的なのだ。

同時に詩が俗っぽい野心によって書かれることがない。
その結果、必然的に詩として表された空間に
怖いほどの静謐が宿ることになる。
江代さんのばあい
聾学校で教える、という職歴がこれに関わっているか。

認識論的な詩(「修辞的な詩」の逆)という点では
江代さんや貞久秀紀さんなどがその代表格だ。
彼らにたいしては「読む」という動作がふさわない。
ただ「彼らになるために」そこに「参入する」だけだ。
そのような畏怖も字面に要求されている。
だがそんなかたちの畏怖が要求されない
駄文書きの詩作者の、なんと多いことか。

江代さんの詩集としては
この少し前に『黒球』も読み返していた。

日記形式(しかも日付個々は
「大過去」ともいうべき往年=70年代)。

そこに平叙的な文が並行されながら
脱臼性のつよい一行が不意に混じったり
(そういう一行の感触は杉本真維子と共通性がある)、
あるいは前述のような
江代的な、了解しにくい描写文が混在してくる。

つまり読みの座標軸を安易にあたえない、という点では
詩篇集である『梢にて』よりも
さらに『黒球』は複雑な装置性を内包しているはずなのだ。

トータルでおこなわれていることはわかる。
「時間の再編」。
プルースト的な大事業のはずなのに、そうは受け取らない。
静謐さと厳格な「小ささ」が存分に機能しているからだ。
結局はただ「生」の質感に衝突して
自他の弁別を消された気持が遥かになるだけだ。

江代さんの詩集は複数読むと
その語感が異様に緻密だということがわかってくる。
そういう複数対照が必須だとおもう。
つまり江代的語彙の探索ということではない。
言葉が出される位置=身体の厳密さが
終始、微妙に角度を変えながら共通している
と気づくことが肝要なのだった。

「文学趣味」の「修辞派」の詩作者の
雑さ、うるささとは正反対の位置にそれはあるものだ。
江代充を好きになるべきだという作者は数多くいる



江代充『黒球』再読の影響から
すこし前に日記形式の詩篇をふたつ書いた
(「夏の日記」の「1」「2」)。
「1」「2」は同じ日付を配し、
内的には平行世界を示唆している。

むろん書かれたものは『黒球』とはぜんぜんちがう。

たとえば塩田明彦の映画『害虫』には
ヒロイン宮崎あおいの「一日」が
短い1ショットで連続的に要約されてゆく
残酷なくだりがある。
それは宮崎あおい扮する少女の「生の疎外」を表現していて、
それを僕自身は一日の日記記載内容が一行だという形式で
まずは踏襲してみようとおもったのだった。

しかしその一日には実際は完了性がない。
それは「後日」へと微妙に延びてゆく。
その「延長」によってこそ「生の救済」が生じる。

また「一日」を「一行」に圧縮するとき
何が起るかもかんがえた。

気づかれたかたがいたかもしれないが、
「夏の日記」の「1」ではとくに
一日単位の記載は短歌の原型的な歌想に拠っていて、
そこから五七五七七の韻律を奪うことで不完全を体現し
その不完全性によって
逆に次行への「延長」を目論んでいる。

岡井隆のように日録的に歌作することから「韻律」を奪うと
現れてくるのが岡井隆的な「詞書」だという循環。

それを描けば充分だったのだが
日記日付の終了日を敗戦記念日にするという企みをさらに加え、
同時に詩篇が20行にぎりぎりならないよう
日数を三週間に配分したのだった。

このごろは一行の長い詩篇を
ある一定の枠組をもうけて間歇的に書くようになった。
その反動を受けて読解の座標軸を容易にあたえないことで
静謐な詩行の渡りを志す詩篇をも平行するようになった。

こういう二面展開は
ネット詩誌「四囲」の課題に応えるためにじつは生じた。
そこでは「二十行」という枠組を真率に考えた
十篇の詩篇を--という課題があって、
その課題を作風の新機軸に利用しようとしたのだった。

「四囲」の同人はゲストのほかはみなマイミクだが
こういう僕の試みに本質的な批評がでてこないのが不満だ。
一行の長い詩篇は中尾太一的な方法以外にも多様にあるのだと
まずは自分でしめしたかった



話をもどすと
江代充『梢にて』の読後があまりに圧倒的だったので
その後はライトヴァース的な詩集に手を伸ばした。
金井雄二『にぎる。』がそれ。

金井さんは最近ご恵贈いただいた
散文詩集『ゆっくりとわたし』が
あまりに僕自身にフィットしたため
慌てて他の詩集もネット注文したのだった。
彼は僕より一歳年少という同世代。
同世代の詩作者には
僕自身のリアルが何かを逆照射するため
とくに眼を配らなければならない。

金井さんの言葉はやわらかく
その可読性も江代さんの詩集などより格段と高いが
やはり上質な抒情という以上に
本質的な世界発見へと読者を巻き込む。
その導きに金井雄二自身の「からだ」が担保されている点が重要で、
だから実際は生々しさに直面させられることにもなる。

僕は不明で、金井雄二の詩の重要性に
ずっと気づかないできていた。
今度送られてきた『ゆっくりとわたし』で
ようやく蒙を啓かれた、ということになる。
編集担当は『にぎる。』と同じく、亀岡さんだろう。
送付に亀岡さんの示唆が加わっているのなら
亀岡さんに感謝しなくては。

『にぎる。』は07年刊。
たぶんその年発行された詩集では
杉本真維子『袖口の動物』、近藤弘文『夜鷹公園』などとともに
大向こうからの評価を受けるべきものだとおもった。

で、「詩手帖」の「年鑑2008」の
「アンケート・今年度の収穫」を繰ってみる。
けれども『にぎる。』を評価したひとはすくない。
たったこれだけか、とため息が出そうになる。
だれも、ちゃんと恵贈詩集など読んでいないのだ。

読み巧者を称える、という意味で
『にぎる。』を07年度ベスト詩集に掲げたひとを
下に列記しておこう。

池田實、岩佐なを、海埜今日子、
田野倉康一、廿楽順治、松岡政則、山本哲也

「やっぱり」、という人物群になるなあ・・・



昨日の夕方は
蟄居と冷房と酒でナマっているからだを叩き直そうと
自転車でちょっと遠出をしてみた。
前日、汗をかいたら体調が急に向上したのを
さらにコンファームしようとしたのだった。

しかし帰宅してみると疲労だけがのこってしまった(笑)

2010年08月12日 阿部嘉昭 URL 編集












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