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改行原則 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

改行原則のページです。

改行原則

SNS「なにぬねの?」での僕の日記がきっかけとなって、
「詩における改行」談義がいい感じになってきた。
いろいろ考えたのだけど、
書き込みまでもふくめたやりとりを
ミクシィのこの欄にペーストすることにした。

「いろいろ考えた」のは、
こういうことをすると
SNS「なにぬねの?」の独自性が失われてしまう、
というのが第一。
ただ、これは同SNSの普及をも目しているということで
主宰者たちにはお許しいただこう。

「書き込み」を無断転載するのも
道義上、どうかとおもった。
僕はこれまでも書き込みをコラージュして
ミクシィ日記欄に発表したことがあるが、
それは著作権上、自分の文章だけにかぎっていた。
ところが今回、それだけでやろうとすると
流れが失われる、という弊が出る。

実際みんな、素晴らしい、気迫のこもった書き込みをしてくれている。
なぜか、日記の書き込み欄というのは
日記の傘の下に隠れて自立性を弱められてしまう。
それを申し訳ない、より人目に触れたほうがいい、とおもい、
エイヤ、とばかり、この日記欄での一挙掲載に踏み切った。

手間を省いて無断転載のかたちになりましたが、
書き込みをしていただいたみなさんが
諒とされると信じています。

なお、この話題は、「なにぬねの?」では
まだまだつづけてゆくつもりです。
ただ、ミクシィへの転載はここで打ち止め。
むろんミクシィ利用者は
自由に書き込んでいただいたら嬉しいです。

前置きもそこそこに、それでははじまり--








【改行原則(4)】10月13日

貞久秀紀の詩集『昼のふくらみ』『リアル日和』を
さきごろ、古本サイトでゲット。
今日は、そのうち『昼のふくらみ』所収の詩篇「夢」から
改行原則を考えてみる。
まずは全篇引用。



【夢】
           貞久秀紀


夢のなかに身のまわりがひろがる
ように
あるとき
ふと
身のまわりがひろい
はてなく
ひろいところに身をよこたえている

身のなかに夢がひろがる
ように
あるとき
ふと
身のまわりが身のなかにひろがる

菊をつみに
はてなくひろい
身のなかをあるいている

夢からさめて



「身」「まわり」の
最もすごい用語例だとおもう。
原理的でクラクラするのだ。
おそらく「身」の語は、
現代のエッグヘッド(インテリ)なら
市川浩経由でないと使えないだろうが、
貞久詩はその境界をあっさりと越えている。

5行目の《身のまわりがひろい》のあとに
句点「。」をつけると整理がつくとおもう。
2行目・10行目の「ように」は
単なる直喩ではなく、
視座を別次元に移してゆく「接着剤」で、
ゆるやかであっても
実はその機能が凶暴だ。
思考に積極的な錯視を導入するものだからだ。

この「ように」の魔法によって
第一聯の最後、
《身のまわりが身のなかにひろがる》という
脅威的な認識が定着される。



改行原則。

2-4行と12-14行の
《ように/あるとき/ふと》は
通常、少字数であっても行効率をもとめてしまう、
吝嗇な僕なら許容しないところだ。
ところがここでは、修辞が
視座のズラシと時間継起の間歇の質を告げるため
詩篇のなかで峻厳に必須化されている。
そして、その反復にも意識的だ。

8行目《と》にいたっては一字改行。
ところがそれにも「無意識」を感じないのは
貞久詩の一詩行の字数がもともと少なく、
彼の修辞が認識装置的だと
読み手がずっと意識しているからでもある。

ゾゾッという恐怖がないとこういうことが許容されないだろうが、
それがいつも確実にあって、
貞久詩が好きなものには
行内字数の少なさこそが崇敬の対象となっているのだろう。

同語が多い。
詩篇トータルの字数が少ない。
だから同語が循環し、
読み手の頭のなかの舌が
頭のなかの歯で噛まれそうになって、
それを避ける経緯が呪文化し、
結果、魔術的な意味変容がもたらされる。

詩篇は眼下を通り過ぎそうになって
ふと「とどまれ」と言外の声を発する。
とどまった途端、読み手は詩的恐慌や光明に包まれる。
そして離れられなくなる。



ともあれ、「息」というより
意味変容へ向けられた、魔法の改行原則なのだ。
こんなシンプルな修辞には
厳しすぎるくらいの「厳密」を感じてしまう。

その証拠に、
貞久秀紀では「改行原則」と「一行アキ原則」も
機能的に峻別されている。

第二聯に移ったとき、
場所も移り、詩の相が具体化した、という感触が生ずる。
「菊をつみに・・」ではじまる
その第二聯の美しさを他と比定するのは難しいだろう。

そして一行だけの第三聯。
そこではまた場所が移ったような感慨が生じるが、
実は、第一聯と第二聯の関係が
結語的に解き明かされているのだと僕はおもう。



貞久秀紀のこんな「改行」は果たして通用可能なのだろうか



【タカノさんの書き込み】10月13日

改行によって終止形と連体形を二重に響かせているみたいに見えます。改行後にはっきりした体言を配置していったらまた変わってくるのでしょう。


【阿部嘉昭の書き込み】10月14日

あ、そうですね。

いったん成立した詩行終わりの動詞終止形を
改行が曖昧化・朦朧化している。
動詞の「足」が、そうして幻影的に林立してます。

で、ラスト一行がくっきりとした連用止め。
そうして連用形であることによって
さらなる拡がりが獲得されている。

「拡がり」の二様。

ここに、体言止めが混在すると
句点がはっきりと成立し
それが詩行全体の「染み」になってしまう・・・

なるほど、なるほど。

タカノさん、僕のくだくだ書いたことを
実に端的に射止められた。
感謝、です


【森川雅美さんの書き込み】10月14日

 貞久さんの詩の手法はそんなに特殊ではなく、現代詩ではよく使われる手法です。基本的には、言葉を前と後ろに違う意味で掛けることと、同じ言葉の意味がずれながらの繰り返しです。ただ、貞久さんの場合、このずらし方が絶妙で、同じ言葉、ここでは「ひろい」「ひろがり」、が詩のリズムを作りながら、少しずつ意味がずれていき、読み手は自然にその意味のずれに引き込まれます。また、前後の意味にしても微妙な段差があり、時には離れたところにつながるような構造もある。かなりの荒業です。
 最近、目に見えない改行を考えます。一行が長い詩や散文詩には表面に見えない改行があるということ。稲川[方人]さんや瀬尾[育生]さんが、中尾[太一]さんの詩に、改行をするところで改行せず、言葉の軋みや屈折を作り、今までにない言葉の、思考の接続を表す、ことを指摘しています。足し算と引き算の違いで、案外このことは貞久さんの詩にもいえるかもしれません。


【阿部嘉昭の書き込み】10月14日

うーん、森川さんの書いたこと、考えてみます。

「見えない」改行と可視的な改行では
「英断」の質が違うと僕はいまおもっています。

「見えない」改行は
息の句点までふくめれば
散文詩の一字アキなどにもたしかにあるわけで、
瀬尾さんの詩ではそういう精妙もじっさい感じます。

ただ、自分の詩を微視してください、と語り
しかもその詩がレイアウト上の強度を回避している、
そのような詩に
いとおしさをじっさい僕は感じてしまう。
「息の句点」と改行が一致している詩の、すがすがしさというか。
小ささをまとっているものが好きなのです。

「改行」が「陰謀」や「解釈の要請」であっては
作者が偉すぎる、ということですね(笑)。
現状の詩はそこまでの「信憑」を獲得してはいない。

ただ僕はまだ、この「改行原則」の連続記載で
「ズラシ」という問題を語っていません。
廿楽さんの意見なら
それは荒川洋治の詩などに顕著だという。
そんな「ズラシ改行」にも魅力を感じる。
この魅力の源泉を何かと考えることが次の命題になるとおもうのです


【廿楽順治さんの書き込み】10月14日

「見えない」改行と可視的な改行では
「英断」の質が違うと僕はいまおもっています。

 このあたりのことは大変難しいですね。可視的な改行を隠蔽することで、逆に軋みや屈折をつくるといったことは、その通りだと思います。
 ただ、それは改行という地を前提にしているように思えます。つまり、詩であるはずなのに改行されていない。しかし、散文ではない言葉のきしみと屈折、あるいはイメージを媒介にした意味の切断や飛躍があるもの。
 こういう「読み」が成立することは事実だけれど、これは読者への負荷がけっこう大きいでしょうね。
わたしは怠け者の読者なので、そういうのはよほど面白くないと最後まで読めない。
 散文詩はまた少し違うのかもしれません。


【阿部嘉昭の書き込み】10月15日

そうそう、読者への「負荷」という問題がありますね。
「見えない」改行の多くがそれに無自覚だ、というと言いすぎでしょうが、
結果的に、そういう詩篇ばかりの詩集は
再読を促がされなくなる。
愛そうとするときの突破口が明示的ではない、ともいえる。

散文詩と散文の区別もまた
「改行原則」の考察とともに難しい。
粕谷栄市が読みやすいのに
粒来哲蔵が「ほぼ」読みにくいのはなぜか

あ、森川さんの書き込んだことについて、ここで。

貞久秀紀の詩の技法は
現代詩のなかにあって
決してオーソドックスではないとおもう。
改行方法にしても、何にしても。
意味の繰り出し方、無駄のなさ、反転、事後判明、語彙の限定・・・
すべてが「勢い」では書かれていない。
推敲の鬼、という感じもします。
でも生得のリズムがある。
一行の字数の少なさとリズムが離反しないというのも凄い


【阿部嘉昭の書き込み】10月15日

いや、一行の音数の少なさは
それ自体に内包的なリズムを繰り込むか。
それで複雑な味わいが出る。
眼下がゆっくりと沁みてくる。

逆に一行の音数の多さは
「たたみかけ」以外にリズム的な解決を見出せないかもしれない。
散文脈の詩ならばまた別だけど


【廿楽順治さんの書き込み】10月15日

粕谷栄市が読みやすいのに
粒来哲蔵が「ほぼ」読みにくいのはなぜか

 確かに。なぜだろう。
 改行は意味や像、視野、人称の転換の記号として機能することで、「読み」にドライブをかけるわけですが、それによって読者の負荷が分散する。これは詩に分かりやすさという錯覚を与えます。長い行の連続では、韻律や音数律、微妙な屈折などが形態的な「読み」の加速の要素となるのだと思いますが、これがどのようなあり方をとれば正しく機能するかが、今のわたしには見当がつかない。しかし、長くておもしろい詩は確かにある。
 いずれにしても、イーザーが読書行為論で言うような空白、省略などのテクスト戦略がなければ能動的な「読み」は起動しない。個々のテクスト戦略が希薄な状態で「読み」を現象させるには、「現代詩」というジャンルの強迫性がなければ難しいでしょうね。「これは現代詩という前衛なんだから少しへんで難解でも、とにかく最後まで読んでみよう」ということです。しかし、再読にまで至らない。これはあまりに理に落ちた分かりやすい詩が、一読で消費されてしまうのと結果的にたぶん同じです。
 「現代詩」内部にいた読者が崩壊し分散してしまった状況では、「現代詩」や「現代詩」のなかにあらわれる語り手が、今では聖性も強迫的な力ももてなくなっている。少し悲観的かな。

旅の一日
          西脇順三郎

すかんぽの坂をのぼって行くとそこ
はアモリの春であつた林檎畑の石垣
によりかゝつてみたが何も考えたく
ないアネモネの根のように頭が岩の
中へ沈んで行くばかりだ夏が来ると
この曲がりくねった枝から没落の天使
が透き通つた舌を出してたれさがる
のだが今は鳴いているばかりだ

 この詩は原文では下が揃えられていて、一見すると散文詩に見えます。改行という観点からするとおもしろい詩です。で、この詩の読者はどういう層なのだろう。


【阿部嘉昭の書き込み】10月15日

廿楽さん、濃い(笑)。

もう酔ってしまったので、あした必ずカキコ対応します。

ごめんなさい


【阿部嘉昭の書き込み】10月16日

掲げられた西脇の詩、失念してました。

こりゃすごい。
散文詩のようでひそかに「改行」してる。
行末揃えで、このことが韜晦されている。
うーん、「改行原則」は
やっぱり西脇接近になるなあ。

なぜ、廿楽さんのカキコが濃いとおもったかは
シラフにもどって即座に判明。
どんな詩にせよ、ひとのカキコ欄に
詩を打つやつぁ濃いのだ(笑)。

さて。

改行
=像や人称などの転換
=読者への統御力の発生
=その一方で、読者への負荷の軽減・分散
(「同じもの」への膠着は逆に魔力的である)

という廿楽理論には大賛成。

ここで先日の切通理作君とのトークイベントでの
もうひとつのテーマ「気散じ」も出てきますね。
「気散じ」こそが「気散じ」を読む--
しかもこの図式、美しいのではないでしょうか。

脳に視野があるとして、
それが動くことで
読書には「生」の色彩が生まれる。
さきに「それ」を書いたものは
このことを先験的に知っているから
詩が「受け渡し」の文脈にも置かれる。
このとき「普遍」とは何か、という視点が発生するはずです。

いずれにせよ、「改行詩」は音律の束のかたちに「ほどけている」。
読者は眼で一行一行の「リボン」をゆらす。
ゆらして、自らに風を送る。
いっぽう散文詩は、ときに文と文が硬くむすばれていて、
ほどかせないほどに堅固なものもある。

この証明は簡単で
掲出の貞久詩でも廿楽さんのどの詩でもいいんだけど、
それを散文詩形に送りなおしたら
それは即座に空気なしの状態で硬直してしまう。

(ならば西脇の「旅の一日」とはいったいどんな奇蹟なんだ?)

ともあれ、ということで新説(笑)

《改行はサーヴィスである》

こうおもうことが
気持よく詩を読むコツかもしれない。
こうしてイーザーが打っ棄られる(笑)

もう一点、逆証。
各行を送っても印象に変化のない散文脈改行詩は
やはり「詩性=ことばの魔術性」が欠落している、ということですね


【森川雅美さんの書き込み】10月17日

 廿楽さんの引用した西脇さんの詩は確かにある種神業的。改行するところでしないで、その少し前や後でする。言葉そのものが襞になり、二重三重の意味のぶれとして現れてくる。意味の多重性は時間の多重性にもなる。「旅人帰らず」や「失われた時」の時間も、存分にこの多重性を孕んでいる。
 貞久さんの技巧が特殊ではないといったのは、あくまで方法という意味で、その現われはきわめてユニークだと思う。西脇と同じようにように、言葉のひだ、多時間を作っている。やはり普通の改行とはずれたところで改行されている。短く改行されているだけに、その改行されなかった部分のきしみが強調されている。

ひろいところに身をよこたえている

身のなかに夢がひろがる
ように

当たり前に改行すると

ひろいところに
身をよこたえていると
身のなかに
夢がひろがるように

となるが。明らかな意図的屈折が多重に施されている。見えない改行と、見える改行の間のずれを読むことになる。
 特殊ではない技術を、自らの技法として溶変させるのが、優れた詩なのかもしれない。


【阿部嘉昭の書き込み】10月17日

特殊ではない技術を、自らの技法として溶変させるのが、優れた詩なのかもしれない

そのとおりですね。

貞久秀紀は、昨日、『石はどこから人であるか』を
読んでいました(これがいちばん新しい詩集?)。
こちらは(たぶん初めて)散文詩形をふくんでいる。

これを読むと、通常の身体観(自己限定域)を
どのような詩的発見によって覆すか、
これを詩法の問題として繰り返そうとしているのがわかる。
不意打ちの認識。その提示。しかもそれが詩としてゾッとさせる。
してみると、貞久さんの「改行」が
まさにその身体と相即している点がわかる。
尊重すべき、唯一無二の個性だとおもいます。

上、森川さんがしめしてくれた「通常」の改行法は
熟さない言葉でいうと、「助詞切り」。
いっぽう貞久詩のほうは「動詞完了形切り」。
その動詞を次行の何が受けるか。
その直前に宙吊りがあり、
次行開始直後に「屈折」が来る。

森川さんのしめしてくれた例は
たぶん論脈構築的で隙間がない。
実際の貞久詩のほうは
動詞が詩行の終わりに「脚のように」伸びて並立し、
それだけで眺めが亡霊的・夢幻的になる。
とうぜん、そこに隙間が生じる(空間のみならず時間にも)。
これは、貞久さんの修辞上の「好み」の問題ではなく
やはり存在の真芯を貫いている「感覚」の問題だと僕はおもいます。
時空に「ヘンなもの」が見えているんだとおもう。

いずれにせよ、森川さんは
考察に足る提起をしてくれたとおもいます。

多謝


【阿部嘉昭の書き込み】10月18日

今日、ミクシィに詩篇「てつぶり」を書いていて
新たな「改行原則」に気づく。

詩行末に置かれるべき助詞を
次の行の行頭にズラす「改行」は
動詞の連立あってのことだと。

名詞が多い場合にそれをやると
詩行末が「体言止め」の連鎖のように
いったんは読まれてしまう。
それが意外に辛いのだ。

昨日は佐藤友衣ちゃんという、
岡井さんの結社「未来」に入っている子が
飲み屋の面子にいて、
短歌における体言止めは
往々にして関係性の複雑な提示になりがちで
歌の調べを阻害するという歴年の僕の主張に
大賛同をえた。

卒然として気づく。
掲出の貞久詩には名詞(の種類)が極端に少ない。

「とき」「はて」を除外すれば、
「身」「まわり」「なか」「菊」しかないのだった。
なんという峻厳。

だらしない僕にはとても真似ができないや(笑)


【廿楽順治さんの書き込み】10月19日

 像的なイメージの氾濫か、または音なり声のイメージの氾濫か、という極のなかで現代詩は蓄積されてきたかと思いますが、これらはやや飽和状態です。動詞や形容詞といった述語相互の異化作用にイメージの磁場を移していく、という道もあろうかと思います。その場合、像としての名詞は最小限でよい。
 貞久さんの詩には、そういう「述べる」ことそのもののおかしさを感じます。改行の変則は、この「述べる」ところのずれ‐衝突に「読み」を焦点化させる装置となっているのだろうと思います。
 わたしは実は最近そんなことをするのが趣味になってきて、少し困っています。このままでは貞久さんに吸引されてしまう。


【阿部嘉昭の書き込み】10月19日

像的なイメージの氾濫は
60年代詩で収束を迎えた、と
僕は詩史観的にはおもっています。
それから荒川[洋治]・平出[隆]・稲川がやってきた。
これらはイメージの脱臼を仕掛けた。
当初この3人の「改行」(「見えない改行」)はあまりにも見事でした。

脱臼から「縮減」に向かったのだろうとおもう、現代詩の一種は。
貞久さんの詩は、そうした「縮減」に
深甚な「認識装置」をからませる。そうして笑わせもする。
「像としての名詞が最小限であること」は貞久さんの場合、必然ですが、
それで独自の改行原則ができあがっている。
この域に達している「縮減詩」はあまり多くないとおもう。
みな、言葉を愛しすぎている気がします。

俳味という問題もあるとおもいます。

僕が掲出した詩ならば

菊をつみに
はてなくひろい
身のなかをあるいている

が、多行形式の俳句にみえる。
みえるけれども、それは
一節がたしかに多い。
この「多い」は実は「少ない」と同根です。
二句がしめされ、
縮減が起こり、
このかたちのフレーズに変成した、と考えてもいいから。

こういうのが僕の考える「ズレ」です。
廿楽さんのいう、

「述べる」ところのずれ

とリンクしているでしょうか。
ま、わざわざ厳密に書いたら
ヘンなことになった、というのが
「述べる」ところのずれ、の第一義だとおもいますが。

廿楽さんは貞久さんに吸収されませんよ。
平易な言葉で「原理」をゴツッと出し
残余のない点に詩が成立するという個性は共通しますが、
廿楽さんには別の武器「ポリフォニー」がある。
一行一行の「別角度」がある。

最近、( )を多用なさるのも
その表れだと考えているのですが

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2007年10月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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