抒情にある流れの枠組 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

抒情にある流れの枠組のページです。

抒情にある流れの枠組

 
 
本日は朝イチから岩波のゲラチェック。
入稿まで入念にチェックしたし
その後書き足すべきことも
ファイルにある元原稿に
赤字で足していったので
作業そのものはラクだったのだが、
何しろ元が100枚ちかい長稿なので
時間もかかってしまった。

顰蹙を覚悟で自画自賛するが、
このアダルトビデオにかかわる原稿は
ぼくの映像論原稿のなかで
「扇の要」みたいな位置にあるなあ。
種別はちがうけど重要性は
谷川雁における「びろう樹の下の死時計」
(『工作者宣言』)みたいな感じ。

この拙稿をふくむ
『日本映画は生きている』第七巻は
12月中旬に刊行、の由です。

ゲラを入れた封筒を最寄の郵便局までもってゆく
行き帰りで、ふと詩篇の冒頭が
あたまをかすめる--



阿部さんこれは外科手術ですか
そんなところをボルトにしちゃイヤン



そう浮かんで、その後をおもいめぐらそうとして
さすがにとりやめてしまう。下品だ。

というよりもこれを「展開」するときは
ことばの変成能力に頼りにした
破礼詩をまっとうするしかないのだが、
そういう「悪達者な」詩篇を
ぼくはさきごろ一挙に詩集編纂プランで捨てきった。
ぼくの機智は好かれるが
悪達者ぶりは眼の敵、と
このごろ自分への評価相場をきめているのだった。

詩篇が成立するときは実際に
「或る予感」がともなわれる。
「抒情」が発想の核になるとしても
それが自然に展開される余地を
あらかじめはらんでないと
詩篇は人為的な印象をおびてしまうということだ。
「ことばで」「のみ」「書かれる」詩になってしまう。
詩はほんとうはどこかが不可能で、
「書かれきる」ことなどないのに。

「かなしい」でも「うれしい」でも何でもいいが、
もともと抒情が一定点に収斂するとき
その抒情はありきたりとなって死ぬ。
なぜなら人の感情に、さほどの種別などないからだ。

むしろ抒情的なものが個別性を発揮しだすのは
それが展開をして
その展開にこそ「類別外のしるし」がやどる場合ではないか。

「こうなって」「こうなって」「こうなって」…
という「もってゆきかた」には
経緯/渦中の把捉不能性をなんとか固定化しながら
それが失敗に帰してそこに記述の束ができ、
その束の推移が情のうごきと
近似的に拮抗するという擬制ができる。

たとえば展開力のある表現媒体とは
小説にしても音楽にしても映画にしてもみなそうで、
そういう展開力の要請が
詩についてのみ放免されるという
身勝手があってよいはずがない。

ところが詩篇の展開性とは
実際はいま例示した諸表現とは別もので、
ことばの展開と情の展開が
拮抗して分離できない点こそを
その定位の根拠としているようなのだった。

おもうことがある。
ダメな詩とは展開という局面からは
以下のような「わるい」特性をもっている。

1)展開がない(すべてが同じ)

2)定点的無展開が並列になって
並列性だけがあり、運動がない

3)展開至上主義になったように
ことばに、展開にかかわる負荷がくわえられているが
それがことばの展開でしかない

現在のネット詩などは
意外に「写真」の影響がつよいのではないかとおもう。

瞬間を凍結した写真は
無展開であっていいものと相場がとおり、
空間的なひろがりだけがそこにある。

そうした写真の表面的な無時間性を
安直に信じた詩の類型が上記1だとすれば
上記2はいわゆる組写真状態、といえるだろう。

その組写真がするどい「編集」意識を介在させて
写真集に昇華するのだとすると
2は写真集にならない、出来のわるい組写真に似ていて、
それは実際には詩篇並立の詩集空間でよりも
一詩篇の組成内部でこそ目につくものだ。

ただし写真と類推の利く詩などはどこかが健康的で
厄介なのは3だろう。
これこそが詩特有の問題をしめしている。

3についてはいずれ具体的な作品を俎上にして
なにかを述べる必要があるが、
とりあえずはその尊大無礼な外観だけでもう辟易する。
ことばの籠城、すべてが武張ってふんぞりかえっているが、
とうぜんそこには過剰防衛意識とコンプレックスと
詩にたいする根本的誤解が透けている。

透けていいのは、書き手の「個別化しようとしてもかわされる」
身体のぶっきらぼうさのほうでしょう?
いずれにせよCの類型は「身体の原資」を
詩に欠いていて、信頼が置けない。

黒蛙さんの日記へぼくは昨日だったかに
次のようなコメントを寄せた。



ぼくはことばでかんがえるのに、うんざりする。
だから、ことばそのものがみずからをかんがえるよう、
ことばを配置してゆくと
それらのことばは相互接着性からはなれ
空間的なすきまをもつものとして再組織され、
あるいは、意味よりも音韻のほうが
ことばの連接原理にすりかわる。

そうしたことばの組成は「まぎれもないしくじり」。
この「しくじり」のなかに
ことばの別相が、「それでもことばとして」うごいている。



まあ詩は即刻、「作者万能主義」を捨てることだろうなあ。



【ふむふむ】


ふむふむが
まゆだまをまえに
うなづいている
すけているものが
そこにない
ないけれども
すけているものが
かんじられる
この「ないがある」
こそが
まゆだまにはあって
それがはればれと
まゆだまの
かたちをしている
といっていい
むろんふむふむと
すごくにているので
うなづきが
おわることもない



おそまつ、らいとばーす
 
 

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2010年10月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)

 
 
【だらだら】


だらだらが
しきりに
なまけている
なまえまけして
ぼうにふられ
ぼうだらとして
しょうゆに
にられたように
かなしく
なってしまった
だらだらとは
ぼうぼうと
ここにいること
ぼうのごとく
まっすぐに
ふせているので
またもゆめも
ゆめさわれない
 
 

2010年10月08日 阿部嘉昭 URL 編集












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