小川三郎・コールドスリープ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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小川三郎・コールドスリープ

 
 
小川三郎はことばをたぶん不信の対象にしていて、
その不信感のゆるぎなさにおいてことばを信じている。
つまり、逆説をともなった、再帰性の対象として
ことばは小川三郎の手許で運動をする。

そのようになればとうぜんことばの並びが疎隔を組織する。
ここからでてくるものは飛躍とか脱論理といったものにもなる。

いっぽう詩行や詩文の構成が「逆」をただ自己表現するだけならば
その詩作はたんに手品師の所業へとおとしめられてしまう。
小川の詩がそうならないのは、
そのフレーズに、詩の趨勢によごれない、
独特のハンドメイド感というべきものがあって、
意外性も彼の身体からじかに浮上していると認知されるからだ。
独特の体内抵抗圧があって、それが好きだ。

小川三郎は『永遠へと続く午後の直中』から
そうして詩を書いてきたが、
そこに変化が兆したとすれば、
たぶん恋情の形式のうちに他者をとりこんで、
くるしさをおぼえる生活が成立していったためだろうか。

小川はむろん周到だから詩作背景などあからさまにしない。
けれども、フレーズを任意的にとりあげられたばあい、
詩集一冊が苦衷のラヴソング集に還元されることも厭ってはいない。



小川の言語観をしめす好篇が
このたび上梓された新詩集『コールドスリープ』にある。
集中「ことば」の一節――



〔…〕
私は自分だけでものを考えることはできない。
この文章だって
ふたりで相談して書いたものだ。
だから私はいつも独りで
死ぬほど苦しくまなくてはならない。



思考の不能性、というマラルメ的命題にたいし
いつでも救済的に到来してくるのは
「われわれはいつも〈ふたり〉だ」ということだろう。
わたしとこの別者の対は、
わたしとドッペルゲンガーの取り合わせということではない。
相手は文字どおりの身近な他者だろうし、
もうひとつはわたしに内在する偏差が双数性をもち
それこそが発話装置になるという自覚でもあるだろう。

引用部分の最後から二行目「だから」は
なるほど逆接でむすばれるべき文脈に
順接の接続詞が誤嵌入されている印象をもたらすが、
発語の不可能性突破が上述「内在偏差」によるのなら
これは順接接続詞でかまわない、ということになる。

同時にこの「ふたり」は小川の実人生の奥行をかすかに照射して
そこから他者との偶然性によって
詩的発語を促進されている彼の日常もみさせる。
小川は本気で自分の詩を《ふたりで相談して書い》ているのではないか。

小川の詩集タイトル「コールドスリープ」は、
まずは冒頭掲載詩篇「名乗りそびれたものたちのこと」冒頭を
直截の命名根拠にしているとおもわれる。



ベンチに雪が積もります。
その雪をベッドにしようというのですから、
やはり子供たちの気は知れないものです。
川べりにあるベンチですから、
風がびゅうびゅうと吹きつけます。

そんなベンチに彼らは並んで寝転がり、
透き通った雲に覆われた空を見上げ、
何がおかしいのか
笑ってばかりいます。
〔…〕



雪中就眠=コールドスリープ=仮死。
「仮死」とは決定性の死(そこでは死は一回しか体験されない)にたいし
連続性の文脈に置かれて死の実質にふれつづけることではないのか。
凍死、あるいは死による体温奪取がおこる寸前で
みずからの体温のなかに蘇生することは
死の相貌がなにものだったかに直面しつつ
なおもそれにとりこまれない「ぎりぎりの躱し」を志向する。
死にたいする距離測定、あるいは死との疎隔の意志的な生産。

掲出詩文中、いっけん「子供たち」は小川の内心に
ノスタルジックに巣食った「幻像」のようにみえながら、
小川はこの外在性を媒介に、自己無化の運動をもつかもうとする。
熾烈な関係図式が急速に成立しつつ
寓話性が詩文の「意味」を貫通しているので、
読者は豊饒な不安定感(脱臼感覚)に巻き込まれてゆく。第三・四聯――



私は一人の子供の手を取って、
自分の手のひらと合わせてみました。
するとその大きさは、私とちっとも変わりませんでした。
それどころか、
私の手をすっと握りこんで、
絶対的な力で私を閉ざしてしまいました。
一体こんなことをして、
これからどうしようというのでしょう。
〔…〕

私はどんどん小さくなってしまいます。
それは眠りとは違い、
やがて消えてしまう予感すらします。
〔…〕



コールドスリープ=他者媒介的な寸率縮小化。
ところがそれは他者のつくる世界をも掠めているから、
またもや小川の記述は逆接的な内容を漏洩してくる。
《するとしかしなぜだか、/心に小さなランプが灯ったような、/そんな気がするのです。》

ともあれ自身の寸率的縮小化(「無」にちかづくこと)は
あらゆるものへの「同化」をもたらす。
けれども形成される「論脈=詩脈」は
終始、熾烈さをのがさないような逆接に貫流されたままだ。
あるいは論理性の舌足らずを不気味に装填させたままだ。以下のように――



子供たちも私も、空や川や雪だって、
所詮は見て楽しむために作られたものであって、
海のように子孫を残すことはできません。
悪意はないにせよ、存在すなわち破壊であるという意味においては、
みんな同罪なのです。



「子供たち」は外在であると同時に、
何か分子運動をも起こすシミュラクルに見受けられる。
一切の無化は多在的であるべき季節が溶融して
世界が多層のまま浸潤する一瞬こそを射当て、
とうぜんそこに最もうつくしい詩句が構成されてゆく
(そういう詩文がこの詩集には数多くある)。



子供たちが、笑い続けるものだから、降りしきる雪はもう、
桜と見分けがつきません。
そのようにして子供たちは、
冬と春の境目に爪を立て、
そこからぺりぺりと剥がしてみたり、
秒読みを始めたりするのです。
子供たちに理由など必要ない。
〔…〕



「理由など必要ない」「そのことがそのまま笑いにみちあふれること」、
小川の詩文そのものがそんな境地を目指そうとする。
このときに季節崩壊、季節溶解が起こり、
時間の深層が垣間みえるとすれば、
またしても小川の第一主題は
『永遠へと続く午後の直中』からずっと
「時間」だということにもなるだろう。

季節の運動性のなかに、
矛盾撞着的に人間(恋愛対象?)の不動性を宙吊りにした、
次の詩句(集中「寄り添う。」の結句部分)の
驚異(脅威)的なうつくしさはどうか――



偶像が空を支配する五月に
あなたはただ
人間という言葉によって
崩れ落ちる春となり
音速にて踏みとどまる。



詩的な実質を獲得するために、空間を崩壊させるという
感覚の英断ともよぶべきものがこの詩集には散見される。
そういう小川は若々しいが、
「見者」の特質を単純に生きているともいえる。



世界中が海になるまで
ぼくは進化などしない。
たぶんそれは悲しいことだ。
(「日々の続き」結句部分)



あたりは夕日が沈む音に
薄紅のように閉ざされている。
絶望的な眺めのなか
いつのまにか隣の椅子には
青鬼が
女の姿で座っていて
私の涙を丹念にぬぐっている。
(「青鬼」結句部分)



坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」終結部の逆転でもあるだろうが、
アンフラマンスや不在を表す「世界の構造」的な道具、
「椅子」がこの部分で効果的にもちいられている点に注意した。
詩篇「生活の鳩尾」には以下のフレーズもあるのだった。
《あなたの机と椅子が/部屋の隅に溶けて行くのを/ぼんやりと眺め/私もそこに足を差し出す》。

こういう「椅子」が実在/非在双方の領域にまたがってみえるのが
小川特有の視界ということだろう。見事な視力だとおもう。
この証拠として、ふたつの対位法的なフレーズをスパークさせてみよう。



ここは、ここではないどこかとはちがうことの、
証明として。
(「雪だるま」部分=A)

水面に映った自分の顔を、
見つめてしばらくぼんやりとする。
〔…〕
自然と半分半分がすてきだ。
(「たぬき」部分=B)

Aは、実際は証明済のことを証明しようとしている。
つまり掲出一行目は「ここはここだ」という同一律の言い換えなのだった。
むろんそこから貞久秀紀的「明示法」の
「アンフラマンス(極薄)な再帰」が結果されている。

Bは幻影と一体になった自身に、
いささか不釣合いな「自然」の語までもが導入され、
自己が表象する(病理する)逸脱こそが「すてき」と語られる。
ここでは「それはそれでないことによってそれである」という
融即の法則が支配していて、むろんAとは対蹠的だ。

「だからこそ」、小川の想像力にあっては
「部屋のなかになにもない」という主題をもつ詩篇「過去」と
「部屋のなかにすべてがあふれかえり窒息に導かれる」詩篇「顔」とが
矛盾撞着的に詩集内に配置され、
相互がうつくしい均衡をたもつことにもなる。

いまいちど註記すれば「みえないものはみえ」
「みえるものはみえない」ことこそが小川的視覚の真髄だということだ。
ここでは「みえるものはみえない」という主題を潜ませている「過去」を、
小川詩篇の全体性を公平にしめすため、全篇転記打ちしておこう――



【過去】


なにもないんですねえ
あなたの部屋には。

ええ、夕暮れしかありません、
夕暮れになれば

美しかった桜も
なくなってしまう。
遠くから流れてくる音楽は
タイトルが思い出せませんから
なくなってしまう。

誰の記憶だか知りませんが
そんなものが
床のあちこちに転がっていて
拾い上げて目を凝らしても
それは私の記憶ではなく
だから
なくなってしまう。

私の部屋には
なんにもないのです。




素晴らしい詩篇が『コールドスリープ』には満載されているが、
とくに詩集最後に収録された「惑星」は
対象を駱駝に仮託した琴線のたかいラヴソングだと襟を正した。

結像のあやうさと逆接の点綴によるラヴソングといえば
ボブ・ディラン『ブロンド・オン・ブロンド』中の歌曲の数々をおもいだすが、
「惑星」のかもす雰囲気と心情はそれらにもとてもよく似ている。
 
 

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2010年10月19日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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