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つる見忠良・みにくい象 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

つる見忠良・みにくい象のページです。

つる見忠良・みにくい象

 
 
――なんという符合だろう、
ジョナサン・クレーリーの著作をダシに
《「注意」(「集中」)にとって
視覚が中心化することが身体の近代性になるか》と前回日記で綴った直後、
つる見忠良さんの第一詩集『みにくい象』
(詩学社、72年刊)が届いたのだった。

つる見さんの「つる」の字は難しい。
雨冠の下が、金偏に、鳥の旁。
それだけで彼の詩世界を象徴する気もする。
唐十郎の本名、「大つる義英」の「つる」の字は
この異字で、微妙にちがっていたのではないか。
ともあれ画面に出せないので
申し訳ないが以後「つる」の表記にあまんじることにする。

つる見さんは42年生だから、たとえば
支倉隆子さんなどとも同世代だ。
その世代なりの奔放さがある。
むろんつる見詩のファンなら周知だろう、
著者略歴にはさらにこうあるのだった。
《1953年 小学5年生の時、縄とびの縄にて左眼を失う。
1961年 ラグビーのボールにあたり右眼も失い、失明。高校を中退。》

全盲者。詩篇細部でつる見さんは鍼灸技師だともわかるが
興味本位で失明者の詩の世界がどうなっているのかと
覗くだけでは済まない、峻厳で奔放な詩がつづられている。
第一詩集としてこの完成度というのは伝説に属するのではないか。

ともあれ、先にぼくが書きつけた、
《「注意」(「集中」)にとって
視覚が中心化することが身体の近代性になるか》という命題は
「注意は身体にこそ分散して、身体の近代性を超える」と
つる見さんの詩作をつうじて換言されるとおもう。

失視者の世界観は、たとえば以下のように表綴される。



母よ
真昼の光を消そう
そして世の中の窓を
すっぽりあけ放って
ひとかたまりの暗黒の星になって
冥府につづく
ねむりの国の泥の中で
しずかにとびまわろう

――「光を消そう」部分



この「みえない」世界は、実際では空間的に無辺際。
だからこそ空間の変質がゆたかに起こる逆説をもつ。たとえば――



菜の花のむれのあいだに
ぼくはぼくのメガネを
そっとおいた

菜の花がぼくのメガネをかけた
ぼくは透明な菜の花になった
菜の花のうえには
菜の花の咲き乱れる空が
ちゃんとあった

――「菜の花」冒頭



同時に、失視者の身体が前にする空間の無辺際は、
その身体へも内在的に折れて
自身の身体感覚を豊饒にする。
しかもそれがハードボイルドでもある。こんなふうに――



【花貝】(全篇)

花貝のように奥歯がかけた
しばらく凍えた指で
なでまわしていると
なぜかいとしくなって
もういちど口のなかにいれた
目のおくで
味をみた
けれど
なんの味もしなかった

じっと指のはらのうえにのせていると
軒や八手のしげみのうえにふる
みぞれの音がきこえた
かけた奥歯のあとをべろでさぐると
それは棘のように熱していた



つる見さんにとって、詩はどう書かれるか。
聴覚、触覚、味覚、嗅覚――
つまり「視覚以外」が注意ぶかく導引されて、
一個の息づく闇=穴である身体に充満するものを
「実況」し、「記憶化」し、「再構成」するかたちがまずはとられる。

身体のくらい空隙が意識されているぶんだけ、
ことば=修辞の入り込む容量がおおきい。
だからたとえばおとずれた朝の気配が、明視者と比較できないほど
繊細に叙述されることにもなる。以下のように――



【また朝が】(全篇)

耳のまわりにだけうすぐらくやってくる
朝がある
手足と頭とが
どうしても……とぎれてしまう
朝がある
生きているはずの言葉さえ
すこしも響いてくれない
あせたポリエチレンの
ぼろぼろの朝がある
汚れた皮膚はいくら洗っても
きれいにならない
そのずうっと奥で
息をつめてる暗い神経が
せっかちな小刀のように
ふるえてしまう
朝がある
やせた栃の葉からはえ
古ボタンのむれのように
貝殻虫のはびこり出す
うそさむい朝
こんな朝がまちがいなくやってくる
不幸な一日のはじまり
ひらかない胃袋の
またぽとりと落ちる
かなしい朝
ようやくしめったタバコに
火がつけられ
その身軽なけむりのように
ひと思いに自分をぬぎすてて
空高く舞い上がりたい 朝が
やってくる



朝が晦冥から解放へと向こう過程が
身体感覚を基軸に、見事にとらえられている。
問題は、それを失視者ゆえの世界把握という
納得の構造に置かないことだ。
ことばが奔放で、それ自身を呼吸し、連関し、「生きている」ようすに
ただ打たれることがひつようだとおもう。

このことはラーゲリ体験を解釈の割符にして
石原吉郎の詩の熾烈な外部性を縮減して
平穏なものにすげかえる悪質ともつうじてしまうだろう。
詩のことばは生成だけを現前化している。
解釈など二の次でかまわない、ということだ。

ともあれ、こうした朝の気配と身体の摩擦、もつれ、複合といった
「世界の境界部でのざわめき」は
世界を告知し、その世界内身体を告知するという以上に、
境界そのものを、ことばでするどく境界化する詩業をうみだしてゆく。
この詩的機能に自覚的になったからこそ、
つる見さんは詩を書いている。
失視者として、という以前に、「ただ」詩を書いている。

「世界と自己身体の境界」から「境界」そのものに語らせようという詩法は
圧縮されれば以下のようにさらに飛躍的な修辞を呼びだすだろう。



【不眠】(全篇)

ねばいゴムのヘアネットで
いけどられてしまうよ
かぐろい光のすすが
音をしのばせて
ふりしきるよ
なべぞこの空のしたの
ふるだるの
にごった水のせなか



寝床に眠れないまま仰臥する者が
みずからの上方=空にかんじるおもさ。
身体はその状態から生け捕りにされてゆくが
そこに異化的に現れるものがあった――「水」だ。
詩篇を読むと、この水が不気味なのか恩寵なのかが宙吊られる。
この「宙吊り」と「不眠」の状態が見あっているのだった。

それと、「また朝に」にあった音律反復が
この詩篇では最小限度に入りこみ、
ミニマルな音律性がなにかを明示している。

そう、失視者の「明示」は音律に現れる――
となれば明視者が音律に無頓着な詩を書いたときには
その詩が失視的とよばれるだろう。
いずれにせよ、つる見さんの詩は
詩に内在する視像と聴像の交差配列が詩の神聖な生命だと告げる。

むろんこの詩集は完成度がたかいとはいえ、
つる見さんの初学時代の残存物をひきずっている。

たとえば音律のよさは、中原中也の参照によると
はっきりわかる細部もある。
けれどもその中也の影響が
一種、ことばのハードボイルド精神で煮沸されてもいて唖然とする。

《海にゐるのは、/あれは人魚ではないのです。/
海にゐるのは、/あれは、浪ばかり。》で知られる
中也「冬の海」(『在りし日の歌』所収)にたいしては
たとえばつる見さんはこのような転位を図る――



【うみ】(全篇)

うみのなかに
とりはとんでいるでしょうか
うみのなかに
かぜはほんとに
ふいているでしょうか

どこまでいっても
うみのおもさばかり
どこまでいっても
しんだひかりの
うみのいろばかり



たとえばこの「うみ」なら、
石原吉郎が詩篇全体を脳裡に完全にしるし
記憶化したのちに一気書きしたように、
点字針で一気にしるされていったのではないだろうか。

ひらがなのみという条件は「全体性」に傾斜し、
よって詩はひかりか盲性かのどちらかにふりわけられる。
逆にいうと、ひらがなに混在している漢字なら、
「世界の地」にひらく「窓」を形成し、世界を多様化する。

ただしそれよりも、
詩篇がいったん記憶化されたことでいわば「繭籠って」、
その全体に触感的な「盲性」が生じているのではないか。
明視者だった石原吉郎の詩にも、
するどい盲性を感じてしまうのはそのためだろう。

つる見さんはともあれ、不明性の幔幕にではなく
その幔幕をとりはらってなおも失視に「かがやく」虚空に、
ことばをかたどって、ことばを霊化(融即化)してゆく。

詩が失明者によってどう書かれるかを詩篇化した作品もいくつかあるが、
つぎの「影の探索者」中のフレーズは
詩の霊的な機微をもっともつたえるものだろう
(引用冒頭の「夜道を歩く」が
失視者ののがれられぬ体感である点に注意)――



夜道を歩くわたしには影がない
しかし
わたしが杖を
ひとたび振れば
音は弾けて
つぎからつぎへと
物が現われ
その名が現われ
影が現れる



本書の「跋」は故・菅原克己が書いている。
菅原さんが日本文学学校の講師だったとき
全盲の受講生としてつる見さんが入ってきて、
ふたりはすでにそのとき、教室で詩的火花を散らしたのだった。

その菅原さんが述懐した教室でのつる見さんの
自作詩の朗読のすがたが、これまたつる見詩の正体・秘蹟をつたえる。
つる見さんの「音律」がどのような身体性によっているかがわかるのだ
(ただし以下の引用では適宜改行をほどこした)。



点字を探す指先にあわせて、
一行をさらに短く区切りながら、
息を吸いこむようにしてゆっくりと読む、
まるで、一つ一つの句読点を
空間に打っていくように。
するとぼくらは、
文字を見る以上に、
網膜の内側に彼のイメージが
つき刺さるのを感じるのである。
 
 

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2010年10月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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