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道 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

道のページです。

 
 
【道】


なかぞらへ半分、身のきえているあのひとをおもう。そんなふうに
ひとがたたずむ場所のむこうに、道というものもあって、日曜の家
族食材をもとめるせせこましい吐息でごったがえす往来だってにぎ
やかだけども、息がきえていることが絵になっているあのひとの背
丈の、ただ万国的な複合をおもう。はしごのかたどる穴でできてい
るんだ、あのひとがとおくにかけわたしている起居は。あのひとい
がいにあのひとがいないことには折り合いもつけられていて、場所
も、みえなくなるほどに葉っぱのかさなりをとおくに覚えさせてな
つかしい。揮発人種だな、さあ引こうともちだしたとたんに、単語
をわすれてしまい、ふだん持ち重りのする辞書がへんにかるくかん
じられるようなあの戸惑いだ。けれどおちついているので、とうめ
いな市電にあのひとは切符なしで乗ってしまい、そこに居合わせた
客をも、話しかけもせず隣りあうだけでただ旧知にしてしまう。気
配りと気配にはそのように差があって、あのひとのばあい後者だ。
いつもひとと一緒にいて、いつもひとのあいだにみちている。市電
はかどをかたむいて走り、そのとき幽霊をふりおとす。あのひとだ。
  

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2010年10月31日 現代詩 トラックバック(0) コメント(1)


昨日土曜日の東京新聞・文芸欄には
貞久秀紀さんの詩が掲載されていた。
「ある通過」。
いかにも貞久さんらしいタイトルだけど
詩篇全体の「語調」がグッと江代充さんに急接近していて、
すこしドキドキした。

詩篇それじたいではなく、
貞久さんが詩篇に付した
ふしぎなことばの一部のほうを引こう
(例のごとく、改行をくわえます)。



この世の道を歩いて
どこかを通りすぎることはあっても、
この世そのものをすぎることはない。
この世という大枠の中で
どこかを通りすぎるとき、
何をすぎているのだろう。



その文芸欄には『淡緑湖』の
都築直子さんの短歌も掲載されていて、
以下の一首に瞠目した。



現し世は愉快なるかなわたくしのほかにどこにもわたくしをらず



というわけで、以上引用したふたつが
ぼくのあたまのなかで混ぜ合わされ
できた詩篇が、上の「道」、というわけでした
  

2010年11月01日 阿部嘉昭 URL 編集












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