発明と溌剌
昨日深夜から今朝未明にかけ
恵贈された詩集二冊を拝読していた。
これらを読み、なるほど
詩には発明=創意がひつようなのだとおもう。
だれも手がけなかった語法や構成などを推進し
「溌剌とすること」がそのまま詩の力になる、ということだ。
長田典子『清潔な獣』(砂子屋書房)は
さまざまな「主体」に仮託し、
口語独白体の詩篇を並立させる。
しかも詩篇間に微妙な連絡をほどこす場合もある。
とうぜんそうなったときは
いまなら金原ひとみ的な短篇連作にも似てくるはずだが、
架空ギャルブランドの列挙などで
ポリフォニーを実現することで
ことばは詩とよぶにふさわしい交響性をたたえだす。
とはいえ、長田さんの「発明」は予想可能なものだし、
実際あるていどは小説分野で実現されている。
とすると、長田さんの凄さは
むしろその「精度」によるものというべきかもしれない。
ぼくにはとてもおもしろかった。
石川厚志『が ないからだ』(土曜美術出版)なら
さらに発明が「溌剌」としている。
「ライトバース的な」一篇一篇に
既存のユーモア小説の文体がまず横たわり
そこに詩的語法の新機軸までが接木されて、
だから一篇一篇が鮮やかで眩しい。
「ライトバース的なもの」の多くは
「ちいさな発明」「ちいさな局所強調」にとどまり
語調をやわらかさ、書法も余白提示から外さない。
ところが石川さんの詩篇では
果敢に「ライトバース的なもの」の転覆すら図られている。
石川さんの「生」が自己卑下的に点綴されながら
「規定できないものの不気味」「小動物の不気味」
つまりは「世界の多様性の不気味」が
実際は詩篇からアタマをもたげてくるのだった。
その印象がクレッシェンドになるよう
詩集全体が明晰に編集されているのも小気味良いとおもう。
冒頭詩篇「が ないからだ」と
巻末詩篇「が、なくなりました」とに言及が集中するだろうから
あえてそれらを避け、うつくしい哀しみを味わった詩篇を
以下に転記打ちしておこう。
●
【観覧車】(全篇)
石川厚志
丘の上の観覧車の、六時の辺りに君と乗る。
七時、観覧車はまだ三〇度の辺りで、君の顔は少し、強張っているようだね。
八時、君はまだ、ハンドバッグの中身など、整理をしてる。
九時、やや打ち解けて、君は笑顔を見せて、僕と話をした。
十時、僕は徐々に、君の笑顔が、忘れられなくなってきたよ。
十一時、最早それは、恋人気分だね。
十二時、観覧車は頂上にまで達し、僕は君に打ち明けた……君は断るが。
一時、下りに差しかかり、君は横を向いて、僕は下を向く。
二時、苦しくて、もう一度だけ君に言う……君は耳を傾ける。
三時、君の頬に手を当てて、君の額に接吻をする。
四時、君の太腿に顔を埋め、降りないで欲しいと懇願する。
君は降りる準備を始める。
五時、僕はここから飛び降りる、と脅す。
が、背を向けた君は、出口の取っ手に手をかけた。
六時、掴んだ腕を振り払い、君はそこを降りてゆく。
僕はもう、そこから降りられないよ。
七時、取り残された箱から、君が丘の向うに去ってゆくのを、遠方に見る。
八時、取り残された箱から、君が丘の向うにもう見えない。
君は家でもう、スウプをつくってる。
九時、取り残された箱から、仄かに月も蒼白い。
君は家でもう、バスルームに入ってる。
十時、取り残された箱にも、満天の星は広がる。
君は家でもう、ベッドの中で眠ってる。
十一時、そういえばもう、木枯らしに揺籠は揺れている。
十二時、気がつけばもう、粉雪に石灯籠は覆われる。
一時、そういえばもう、僕は鳥籠の中で鳴いている。
二時、気がつけばもう、そこに長い年月が経っている。
三時、そういえばもう、僕の皮膚には皺がある。
四時、明け方近くにやっともう、僕は夢の中。
五時、最期に君の夢を見た。君が観覧車にやっともう、いる夢だ。
六時、係員はドアを開け、そこに白骨と化した僕を見た。
君はもう、そろそろ起きる頃です。
●
観覧車の角度が時計式に表示され、
それに数え唄的な行頭序数の機能も負わされる。
むろん数値が「二巡」するのが「発明」なわけだ。
そのなかで「同音連鎖」が仕込まれる。
それにより、たとえば朗読に適した推進力が出るだろう。
ただし「もたれる」という意見もでるかもしれない。
「詩手帖」からは「今年度の収穫」アンケートの依頼を受けた。
今年は、震撼する詩集や感銘する詩集が
部分的に刊行されたものの
総体としては良い詩集が少ないな、という印象だ。
たぶんベストには十冊もかかげられないのではないか。
だから詩集読書なら旧い詩集が中心となった。
70年代的なものを再考する、というのと、
「ライトバース的なもの」に親炙し、
そこから真実のことばを選別するというのが
不器用な僕のテーマだった気がする。
そのなかで軽薄に文学性を誇示する詩のことばに
どんどん辟易していった。
そんな気分だから、じつはアンケート回答は気がおもい。
ともあれ近々に大書店へ行き、
「読み逃し詩集」をチェックしなくては
ありがとうございます。
とても嬉しいです。
2010年11月01日 長田典子 URL 編集
仮託された人物たちの
傍目にはくるしいことばは
詩法の「溌剌」によって
救抜されているとかんじました このコメントは管理人のみ閲覧できます
2010年11月03日 編集
このコメントは管理人のみ閲覧できます2010年11月04日 編集