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広瀬大志・草虫観 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

広瀬大志・草虫観のページです。

広瀬大志・草虫観

 
 
このたびの広瀬大志『草虫観』は、
正直にいうが僕にとっては難解な詩集だ。
全体は「草虫観」「現世紀」の二部構成になる。
その二の「現世紀」は印象論でとおせば
以下のようなものになる。

経済学用語と思想用語、
その導入語の異物性によって各詩篇の「意味」を複雑化しながら
断言と切断とから「意味」を意味以外、
たとえば音律に反転させてゆく手際がある。

それはむろん「謎」に直面するよろこびをあたえてくれるが、
同時に読者としての自分を「空白」につくりかえてゆく。
その「空白」と詩篇の「空白」が反響しあうとき、
ふしぎな同調が起こっているともいえるのだが、
批評的読解が介入する余地をあたえない。

つまり「峻拒」がまず身振りにある。
同時に「親和性」も溶出されていて
詩篇は何度も読者の「読み」をまねく。
それでまた自己の「空白」を読まされてゆくもどかしさが反復される。

詩篇個々のつくりは峻厳で
詩篇のならびにたくらみがありそうだが、
現在の僕には、断定的あるいは推論的に何かをいうには、
自身に足りないものを感じてやはり気が引けてしまう。

ともあれ、このような詩集ならふつう
「自分の範囲外」と手放すことも多いのだろうが、
一の「草虫観」の名状しがたい魅惑が捕らえて離さない。
しかしそれも、精確な読みをなしえたという自信が起こらない。
読み手を不安定にする強度を誇っているのではなく、
それぞれの詩篇じたいが自足するようすに魅せられ、
実際は「意味の切断」の感触そのものも慎ましかったりする。

個別論はあとにしるすが、
広瀬大志があたらしい詩的言語を発明しているのか否かがわからない。
部分的には七〇年代詩の難解なうつくしさを志向している気もするが
切断形式になにか独特の、身体的としかいえない呼吸もある。
とはいえそれは、たとえば杉本真維子が定式化した方法ともちがう。

どうもいいたいことが旋回をくりかえしているだけの気もするので、
まずは冒頭掲載詩篇全篇を、行頭に序数を付して引こう
(『草虫観』はその冒頭からの数篇の素晴らしさにもってゆかれ、
それで幾度も再見誘惑をする詩集であることはいうまでもない)。



【草虫】


1 欲望そのものの奥深さではなく
2 そこを通過した先の
3 開放された静寂のようなものを
4 押し開いてみるとき
5 瓜の実に赤い蝶がとまっている
6 昇華したにぎわいはすでに
7 一つの死の中で眠りにつき
8 ただ必ず至る
9 草虫の
10 強く照らし出された
11 均衡の糸口だけが
12 意味ではなく
13 すがる形として在る
14 神のかわりに生の汀で
15 人のいない
16 小刻みにふるえるその風景が
17
18 雨よ降れ青く晴れよ



1から3には広瀬のいわば「哲学」が
「昇華」された関係式のように潜入している。
これはくだいてみるとすぐにわかる。
まず欲望は深度をもつ。それは自身に対象化できず「奥深」い。
けれどもそういう深度をうっちゃって、
感覚を欲望の坑内に通過させることはできる
(ベルクソン的な「感覚縮減」が示唆されているとおもう)。
そのさきにあるのが、開放感と静寂。
4行目と化合すれば、それがたとえば「ただ見る」ことに帰着してゆく。

そのとき読みがブレてゆれる。
4行目《押し開いてみる》の目的語が
前行中の《静寂のようなもの》であるのは文法的に自明でありながら、
営みと捉える「押し開いてみる」が、
二重動作としての「押し開いて/みる〔見る〕」に分岐して、
そのときにこそ「みる」の主体としての主語が隠されている感触になる。

ともあれ主語明示されないこの主体のみたものはなにか。
述部的に登場してくるのが、5《瓜の実に赤い蝶がとまっている》だ。
この「瓜」は烏瓜(からすうり)ではないのか。
つまり赤い実に、非実在的な「赤い蝶」がとまっていて、
そこで、赤と赤の微差と綜合が示唆されているのではないか。

あるいは「赤い蝶」はその修辞の罠をかんじれば文字通り非在で、
ただ烏瓜の実のてりかがやく表面に
主体は「赤い蝶」を幻視しているのではないか。
いずれにせよ、広瀬にとって「みること」は「摘出」なのだろう。

さて、「烏瓜」の季語は秋。秋なら蝶はもはや翅も破れはじめ、
「細り」「しおって」いる。それ自体が「ひかりのふるえ」のように。
烏瓜にまぼろしの赤い蝶がとまっている、
そうみえたのは実の表面のひかりのふるえゆえだった――
という詩想なら、通常は俳句数句を連作させるだろう。

むろん広瀬はそういう抒情を切断し、詩行を残酷に圧縮してしまう。
あふれさせない。むしろ「穴」をつくる。
そう、それがこの詩集の「法則」だということだ。

6 昇華したにぎわいはすでに
7 一つの死の中で眠りにつき

またも喩的解読に迫られる。
たとえば5行目までの僕の読みが正しいとすると、
「にぎわい」とは烏瓜の赤い照りであり、
そこにひかりとしてたわむれる「赤い蝶」の微動だろうが、
「昇華した」というやや生硬な形容詞がそこに付されることで
ふたつともになにか高次元に定着された趣が生じる。

たたみかけるように7《一つの死の中で眠りにつき》が後続するとき
「赤」が静寂へ固着された感触がでる。
すなわち、瓜も蝶も、赤という色に「還元」され、
いわば抽象化を果たしたのではないか。
「一つの死」とは明示されていないこの「赤」回帰だと捉えた。

ここでも主述の錯綜が生起する。
文法上は「眠りにつ」いたのは前行中の「にぎわい」なのだが、
読解上は「瓜」と「蝶」、
あるいは「瓜」と「蝶」のおりなす、ひとつの共同性だと読みがズレる。

そういうズレに、しずかな、極上の「戦慄」があるが、
しかし広瀬が提示しているのは
「自然」からあたえられる「感覚」の問題だという点に注意したい。

8 ただ必ず至る

前行「眠りにつき」が連用され、併置的に動詞「至る」を引き込む。
この動詞ふたつでもたらされる「割れ」が
烏瓜がやがてかたどるだろう割れと響きあうが、
問題は「至る」を動詞終止形ととるか、
次の「草虫」を修飾する連体形ととるかの選択だろう。

音律上の判断をすれば終止形という気がするが、
そうすると「至る」の出現は飛躍的で、
そこにあるべきだったなにかが消散してしまった印象を受ける
(この感触が今回の広瀬の詩法の、不穏な「味」なのだ)。

それで文意を補おうとたとえば「無に」などということばを
「至る」のまえにかんがえてみるが、
省略物の復元はじっさい不能だというのが正答のようだ。

よって「連用形」と捉えかえすと、
8行目から13行目は以下の連関になってゆく
(そうなると、6行目から11行目が
長い構文を組織していたという理解が暫定的にも生ずる)。
《8ただ必ず至る/9草虫の/10強く照らし出された/11均衡の糸口だけが
/12意味ではなく/13すがる形として在る》。

「至る」のは「均衡」だ。「均衡」に「至る」。しかもそれは「糸口」にすぎない。
同時に、「草虫」と「赤い蝶」は同一物に一見捉えにくい。
たぶんそこが罠で、草虫は飛蝗のような一昆虫ではなく、
「草=植物」と「虫」を併置し「自然的」世界観を拡充するもので、
つまりは「草-虫」中の「-」が省略圧縮されているのではないか。

となるとまたも主述の呼応にズレの感覚が生じる。
13「すがる」に主語的に呼応するのは「糸口」だが、
読み手はそう読まず、「草虫」が「すが」っている、と捉える。
しかもそれは「虫」ではなく「草虫」、つまり植物と昆虫の複合形なのだ。

つまり話を大幅にもどすと、「赤い蝶」が「瓜」に「すが」り、
同時に「瓜」が「赤い蝶」に「すが」っている、
力の対称的な図として一篇を意識すべきなのではないのか。
そのようにして「草=植物=瓜」と「虫=赤い蝶」が「均衡」している。

ただ繰り返すが、その相互定立性は「糸口」にすぎない。
それは「意味」を発散しない。
だから「形」だけを視覚に充填させて、
「在る」ことは「在る」ことへと突き放されるほかはない。

それでも微細なものは「在る」。
そういう「気づき」を自己身体に接続することが、
4《押し開いて〔/〕みる》ことなのではないか。

お気づきのように、ここまでの「読み」は
故意に曖昧に配置された詩句の意味不確定性を手中にしようとするとき
意味の根拠を得ようと詩行をわたる視線が蝶のうごきのように「分散」し、
短く、瞬時的といってもいい読解「時間」に
飛躍や遡行といった分裂線が入ってくることを意味している。

たぶん他の詩篇からの類推でいうが、
「広瀬的時間」とはのべたらな時間に
「飛躍や遡行といった分裂線が入ってくること」で一旦の完結を見、
「しかもなお」のべたらな連続性に復帰する
ブレをも反復するのだとおもう。

話をもどすと「在る」という語が13行目でもちいられ、
「ある」との差異線がそこにえがかれるだろう。
「在る」が現象ではなく、哲学的実在、神学的実在にもちいられる語だとすれば、
これまでの文脈からいって、
「色に還元され」「自他をなくした差異」が
それでも自他のあわいに「形」を演ずることで、
〔神のように〕それが「在る」といわれているのだ。

一切は「在」ればいい――「形」の在ることが
神の「在る」ことまでも代位してゆき、それが「み」られる。
だから詩篇第一聯は最終的に次の展開へと帰着してゆく。

14 神のかわりに生の汀で
15 人のいない
16 小刻みにふるえるその風景が

ここで「意味」がふえているのに注意。つまり15行目が曲者だ。
「神」の介在しないまま成立する「風景」とは、
「人のいる」それではなく、「人のいない」それだという
冷厳な認識が広瀬にはあるということだ。
冴え冴えとしつつ、読み手はここで寂寥感にも打たれてゆく。

「小刻み」に「ふるえ」ているのは物象的には5「赤い蝶」だろうが、
むろん前言したように
「赤い蝶」は「〔烏〕瓜」と一体的に6「昇華」されているから、
「ふるえ」ているものは16「風景」と呼ばれるしかない。

同時にここでまたも意味とともに詩行の運びにゆれがもたらされる。
16行目は「風景が」と省略的に停められていて、
文法的には「倒置」が介在したという判断になり、
その述部は前置されたものから探すようにうながされる。

そうなって着地する動詞は「在る」となる点、自明だろうが、
そこで「糸口だけが〔…〕在る」と「風景が在る」が
遡行的に並列することにもなって、
「風景とは糸口」という隠された図式が顕現している。

なんのための「糸口」かといえば
「風景から神〔14〕を探す」という営為がここに隠されていて、
その「神」の正体が11「均衡」なのではないだろうか。

これはつまり「神学的認識詩」なのに、そこに省略や遡行誘導がくわわって
詩篇として峻厳な体裁がたもたれている――ということにもなるだろう。
すごい。ほんとうに、すごい。

17行目の一行空白はふかいが、
その深さの意味とは直前上記した
「これはつまり…」の一文と密接に関わっている。
同時にこの空白の属性は、空間性ではなく時間性に傾斜している。

一行おいた最終行で、命法がついに書かれる。
18《雨よ降れ青く晴れよ》(このフレーズは詩集中、他の詩篇でも近似反復される)。

一見、撞着的な事柄が同時に命じられているとみえるが、
「時間」がその撞着性を修復する。
読み手は時間性を介在させて、省略的な詩句をこうおぎなう――
《雨よ降れ/〔そののちに〕青く晴れよ》。
「神」よりも「時間」のほうが救済主として上位に置かれているのではないか。

「同時に」、
16行目「倒置文の尻」、
17行目「空白」、
18行目「命法」という流れでは、
読み手は16行目と18行目を接続的に読むよう「誘い」を受ける。
するとこのように奇怪な構文ができる――
《小刻みにふるえるその風景が/雨よ降れ青く晴れよ》。
この「錯視」が最もうつくしいことを、詩篇自体が狙っている。

なんということだ、冒頭詩篇に迫るだけで
これだけの字数を費やしてしまった(笑)。
ただ広瀬さんの峻厳な詩はこのように峻厳な読みを請求している
(むろん僕の提示した「読み」が正解かどうかはわからないし
広瀬詩にとって正解をしめすこと自体が無意味だ)。

むろん「納得」が生じない詩篇なら咀嚼できないまま宙吊りになる。
それらは詩集二部に集中していることは述べたが
またいずれ余裕のあるときに読み解いてみたい。

ひとつだけ付け加えると、広瀬さんの良いフレーズは
貞久秀紀さんが論じた「明示法」とも隣接する箇所にある。
以下のように――



ただ流れる水の音だけが
聞こえるために
繰り返されている
(「外耳」部分)



一日の長さと
短さを
交互に気づかせる瞬時の光が
感覚の畝を繋ぐことで
私には外側がある
(「鳥光」部分)



微笑む笑い方に
微笑むべき類似の

そこにわたしは
線を引く
線上になる
(「視点」部分)
 
 

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2010年11月04日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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