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杉本真維子・袖口の動物 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

杉本真維子・袖口の動物のページです。

杉本真維子・袖口の動物

凶暴なものは連打的で長い――
そう「常識」は考えるだろう。
だが杉本真維子の新詩集『袖口の動物』ではちがう。
凶暴なものはむしろ少なく、間歇的・余白生成的で、
結局は、「見たことのない配置」によってこそ
暴力の域へ「成上がる」のだ。

部屋――そうしるせばそれは「脳」でもあっていいのだが、
ともあれ「奥津城」で女は言葉を「宰領」する。
霊性を、語同士の衝突によって手許に沸きあげて、
それをしも闇に、じつに恬淡に献呈してしまう。
言葉生み、言葉殺し。
あるいは発語を単位とした、「刻々の気配」の生殺与奪。
持統天皇とはきっとこんな女だったのだろうか。

杉本真維子の哀しみは、詩の哀しみは
意外なところから測定できる。

二度目に詩篇が読まれたとき
語の凶暴な配置はすでに読み手に記憶されていて
衝突そのものが柔らかく馴致されてゆくのだ。
凶暴なのに、馴染んでゆく語順や比喩。
「発せられたもの」は自らの再来によって
他人にあっけなく吸収されてしまう。

杉本真維子が「女」だというのは、
そうした語の宿命を自らの存在感の哀しみとして
あっさりと引き受けているからではないか。
実に、あっさりと。
自棄の気配が優雅な含羞の笑みで覆われる。

たとえば、集中、「光の塔」「笑う」「袖口の動物」
「或る(声)の外出」「貨物」「やさしいか」は
僕にとってすでに初見の詩篇ではなかった。
それらのたたずまいに初見時、あれほど怯えた記憶が
それ自体、錯誤だったのではないかと逆に戦慄してしまう。

「笑う」の乱暴な比喩、「わたし」に向けられた命法、
「身頃」の造語、異様な副詞、
「或る(声)の外出」での、転倒ではない主格助詞止め、
「やさしいか」での主格を主語にした奇怪な疑問文――

それらは詩語の運びの未聞の「発明」なのに、
いったん「やさしさ」として受け入れてしまうと
古くから見知っている存在拉致の郷愁へと
その質感を淡く変えてしまう。
こういえばいい――
異質が語る。「わたしはここにいる」「わたしをみて」。
だがむしろその声の女性性にこそもってゆかれるのだった。

こういう女性詩の声に接したことがない。
「動物性」「理知」の順序が従前のものとはちがう。
おおかたは「理知」にとどまる。
あるいは、「理知」を捨て去って「動物」を展覧する。
ところが真維子は、「動物性」の出し方が理知的で
理知の出し方が動物的だという右往左往がその本質にある。
存在を自ら血まみれにする往還がある、ということだ。

そうした本質を措辞の「少なさ」が封印して
彼女の言葉が「動きつつ」「停まっている」。

停止の空間が「部屋」の感触の実体となる。騒霊は、ない。
部屋では起点はあっても「閉じない」括弧だけが浮遊していて
だからこそそこが世界へとつながっている。
そのようにこの女は個別だが、普遍だった。

重圧をかけられ、悲鳴する言葉の群れ。
叫喚しうる言葉それ自体のもつ動物性。
だがそこでは黙語が叫ばれているのだ。
すべての場所がそれで「静かな叫喚」の撞着として音連れる。
僕はそれを、「懐かしい」とおもう。眼すら潤む。

オビ文のサブ見出し冒頭は
《獣のようにあいすることから逃れられない――》。
なるほど、わたしと相手との場が
多く詩句の、刻々の前提となる統一感がある。
だがその場のわたしが、相手が
詩句において可視的になっているか、といえば
そうではないだろう、けっして。

像の朧化どころではない、
像の消去のためにこそ、
無言の鉈が詩空間のここかしこで振るわれ、
紙が透明な血を流し、ヘンな色に濡れ、
襞を生成し、だが瞬時にのっぺらなたいらへと快復する。
事前と事後に挟まれ、時間の本質である瞬間がおめいている。

場所の詩。みえない場所の詩。みえなくなる場所の詩。
何かが何かを覆う。その不透明。その厚み。厚みなのに平たいこと。
そうした場所、場所、場所。
いったんそう捉えて、この「場所」が正しい詩篇の本質として
即座に「時間」へと換言できるとも気づくだろう。
詩においては、時間と空間の弁別など正しくは不可能なのだ。

このように恐怖と「同時に」郷愁をくれるひとのなかでは、
とうぜん、ある信念がその詩作に伏在しているはずだ。
《郷愁と恐怖など、じつは「おなじもの」ではないか》
「おなじもの」という認知からは意気阻喪を測らなければ――

むろんたおやかさによって心を誘う措辞だって散らされている。

《曇り空は
誰のものでもない声にとてもよく似て》(「坊主」)、

《まだ、
言葉も知らぬ唇をねがい
まっさきに乳頭を差し入れて
母よ あなたが
ほんとうに注ぎいれていたものはなにか》(「皿」)、

《あ、その白い手袋――
イナイイナイバアと顔を隠した
両手のすきまから
夥しい他人がこぼれ落ちていく》(「他人の手鏡」)、

《青年のような烏の声が
とどめのように
世界を整頓する》(「毟り声」)。

だが、「坊主」「皿」「毟り声」といった
詩篇タイトルの暴力はいったい何なのか。
「毟り声」といえばその最終二行、

一度もだかなかった
同音はもう、ひとではない

は、前行を次行冒頭の修飾節と捉えるか
あるいは二文連鎖と捉えるかに遂に解答が出ず、
そこにも暴力が顔を覗かせている。

措辞の論理展開が崩壊したときには
フランシス・ベーコンの絵画に接したような恐慌も起こる。
「ある冬」から、最終聯を引用――

ああほんとうはわたしたち
ころしあっていたのではないか
あのとき
轢ききらなかった半分の
片腕ももう、捨てる

暴力1:「爪」「ゆび」ガ突然「片腕」ニ昇格シテイマス
暴力2:「轢」ノ字ガ無気味デス
暴力3:片腕マデモヲ落トソウトシテイタナンテ
ソレマデ聞カサレテイマセンデシタ

怖気をふるってしまうような暴力は、
集中では「果て」に最もあふれていて、
自分の画面が不吉になりそうで転記などできはしない。
魯迅の箴言《川に落ちた犬は棒で打て》を
知人へも「培養」してしまった怒気の狂気。
このときの《Y原》という名前の書き方が呪われていて
詩神からは即刻の死刑宣告がなされるのではないか。

一篇だけ、全篇引用――



【いのち】

飴を噛んではだめ
ゆっくりと溶かしなさいと

そんな、声がする
ふいにかかとに落ちてきた一滴の
ように

わたしは、口のなかに
刃物があったことにきづく
まるく透きとおった、ちいさな固まりが
からころとあかるく
陽だまりのように鳴っていても

突然、歯で潰す
からっぽの一瞬がある
そんなふうにひとは
死をえらぶことがあるのだろう

ゆっくりと溶かしなさい。
そのうそだけがわたしを生かす
おまえの
飴玉は溶けない
たとえ焼かれても
黒こげの口を粉々にこじ開けて去る



四方田犬彦『摩滅の賦』の一節のように
順次唾液で溶け、最後にのこった飴の欠片が
うすい刃物となって自らの口腔を傷つける惧れを
詩篇が「抒情的に」唄いはじめた。
穏やかに詩が終息しようとして
では最後の四行、とつぜん噴出する黒化(ネグレド)は何か。
憂鬱が爆発してしまうことなどありうるのか。
これは誰の誰への恫喝や強請りなのだろうか。

読者を最後に谷底へ突き落とすべく
それまでの詩行が平静を装っていたのだとすれば
詩行を運ぶ動力が「悪意」だったと総括ができる。

いずれにせよ真維子は言葉を統べた。
それが完全なかたちになるようにではなく、
不完全になるように統べた。
不具へ、欠損へ、《せむし》へ、陥穽へ――
そんな状態にしてそれが愛されるように統一した。

杉本は編集をも統べた。
統一が編集だったからだ。
言葉を欠損・疫病にひたして
それが美しくなるように
その周辺を静かにさせたことも如上あきらかだ。
そうして前詩集『点火期』の弱点が克服され、無敵になった。

ほぼすべての詩篇に字数・行数上の統一感が
感じられたことが大きい。
それと詩集空間の白部分の多さに
言葉がひたされて同じ沈黙を保っていることも大きい。
だから詩篇の並びに、一瞬、連詩の運びすら錯覚してしまう。
冒頭の流れなどは、
杉本の好きな動詞「掃く」を蝶番にした
連詩かとおもったほどだった。

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2007年11月06日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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