朝倉喬司追悼
朝倉喬司さんの訃報が今朝舞い込んできて
午前がすごく憂鬱になった。
孤独死らしい。
ネット探索してみると
この十月に離婚して
長年棲んだ逗子市久木を離れ
ひとり暮らしをはじめた矢先の
病死だったという。
あるいは転居方角が祟ったのか。
あの霊神にはふさわしからぬことだ。
はげ頭に帽子をのせて犯罪の地をさまよう
朝倉さんの痩躯はTVでもよく映った。
けれども土地の旧い霊と交感し
からだの霊的水位をたかめてゆくその実際は
TVの解像度ではあまり映らなかったとおもう。
むろんコメントにもとめられる還元主義を
朝倉さんはけっしてとらず、
その語りが複文構造になるのも厭わなかった。
書き手としてはもう
処女作『犯罪風土記』からのファンだった。
東海道新幹線で西走するとき
車両がつぎつぎ跨いでゆく「男川」「女川」を
朝倉さんはいつも体感への加算装置にしていた。
男女の複層。性愛の水。テキヤの襲名の酒。遊郭の濠。
「水」が朝倉さんの想像力の起爆剤だったのではないか。
たとえばダムの水没地。
ダムの底にきえた岐阜の一村の出身者が
ラブホテルチェーン経営に先駆的にとりくみ
成功をおさめたと知ったのも朝倉さんの文からだった。
歌舞伎町にもそうした建物がいまだあって、
ついさきごろ、それをまえに
ともだちと朝倉さんの話をしたばかりだった。
朝倉さんの犯罪ルポには
なにか別の天をうつす水溜りが常にあった。
地下水脈からにじみでる、遊女たちの旧い叫び。
先住者のうめき。歴史敗者の異議申立。
それを聴き継ぐのは『アースダイバー』での
中沢新一さんしかいないのかもしれない。
朝倉さんによって僕は地理を学んだ。
西成。鹿児島のシラス台地。
チェイチェイという奇怪な叫びであふれた
西南戦争時の田原坂(やがてその上空に西郷星が出没する)。
お伊勢参りと対になった遊郭・古市。
豊田商事・永野会長の出身地、岐阜県恵那。
土地と連結されて、ひとがはるかになった。
朝倉さんはその作法で、無告者の伝記をなすのが見事だった。
だから神戸の児童連続殺傷事件の「場所=疎外」などは
鄙を本質的に愛する朝倉さんの慧眼には
すごく乾いて映っていたのではないだろうか。
あの扇の骨をたたんだような躯と
抱擁しあったのはいつだったか。
「同時代批評」が開催した忘年会のひと齣、
別役実さんしか朝倉さんの犯罪批評のライバルはいない、
と僕が酔って朝倉さんに断言したのだった。
別役型犯罪評論の、
還元主義からぎりぎり躱される思弁主義にたいし
朝倉さんにはあるく脚が生み出す霊的多層がそのままある、
だから朝倉さんは類推不能な「猿田彦主義」だ、とか
たしかいったのだとおもう。
刹那、きみはいい子だ、と抱擁されたのだった。
朝倉さんは河内音頭振興会の斬り込み隊長だったが、
そのおどる仕種は、酔席で何度かみた。
ことしの牡丹はよい牡丹。
そんな朝倉さんは犯罪者を大悲する観音に似ていて、
彼・彼女らの罪はまずその踊りによって祓われた。
朝倉さんの評論でのみ
犯罪者は倒立した獣神として列聖される。
その列聖行為は、薩長閥が基礎をつくった
近代日本の欺瞞をするどく打った。
むろんそれは朝倉さんの
土地を徘徊し、時空を縦横し、風景の突破口を見出す
あの達意の文章によってだったが、
そのまえに、あの観音踊りの仕種がある、と僕は見ていた。
芸能的。だからその文章の真髄が、
荒魂をしずめる踊りとなる。
そのかぎりで浪曲に代表されるものへの
朝倉さんの好みもあった。
むろん左翼的な階層社会注視もそれに相即していた。
平岡正明さんとの二人三脚が
つづいていたら、とおもうこともある。
朝倉さんの思弁が踊りだすときというのが
数多い朝倉本のどれでも精髄箇所となる。
霊性のまつわりついたそれまでの描写が
急転直下、観念的で噛み砕けなくなるが、
そこに読者の「錯視」までふくめ
なにか途轍もない影が乱舞する景色となる。
そういう箇所を以前引用して、
文章が適当に切れず、てこずったこともあった。
映画監督の瀬々敬久も朝倉さんの大ファンだった。
瀬々のある一作は
ビニ本の女王とあがめられた田口ゆかりが
羽田の水上生活者だと知ったことからはじまるが
そのインスパイア源こそが朝倉さんの本だった。
「犯罪-女-水」の聖なる、日本的な三幅対。
瀬々の映画キャリアはそれを連打することで
たしかに蓄積されていった。
朝倉さんが「犯罪が内出血化しだした」と慨嘆したのは
九〇年代の初頭だったろうか。
つまり歴史上地域上の「因果」があって
それまでの犯罪が成立していたのだとすると
そうした犯罪は社会にたいする「出血」として現れる。
ところが出血せず
犯罪内部に再帰的に沈潜するようになった犯罪は
再帰性反射して、その享受者の無意識にこそ巣食い、
たとえば「十年殺し」までも結果する。
犯罪が他在的な追求対象から、
内在的な不明化へとその身をひるがえしたのだ。
それでわれわれの「体感」だけが奇妙になってゆく。
そう、ひとが悪をおかすのではなく
悪がひとをおかす、というときのカフカ的な内密性が
空間におしひろがってくるのを朝倉さんもみたはずだ。
そのころからか朝倉さんの単行本の重心が移る。
明治の新聞社会面から明治小説まで、
朝倉さんの博艘がはじまり、
フーコーなどもよく引用されるようになる。
あきらかに「近代」の要件を思弁的にかんがえる変化が起こり、
そうなってたとえば歴史上の「自殺」などが
綿密な文献探索で腑分けされていった。
名著『自殺の思想』、自殺の近代性が
華厳の滝に投身した藤村操で確立したあとどうなったか。
朝倉さんは三原山投身自殺者を使嗾しつづけた
奇妙な女に憑依して
自殺を謎のなかに相対化する挙に出たのではないか。
その三原山自殺連鎖でも
それをモチーフにした高橋たか子の小説『誘惑者』は
申し訳ていどにしか紹介されていない。
あるいは別のところで朝倉さんがあつかった
光クラブの山崎晃嗣についても
三島由紀夫『青の時代』を論拠とはしなかった。
すべて自前調査をとおした。
たとえば「水と女」の小説、広津柳浪『今戸心中』を
近代心理の不可解な成立もふくめ
朝倉さんはこよなく愛した。
そのとき明治小説に由来し、固められた
独特の小説観があったのだとおもう。
一方で三島は山崎と同列にみていたはずだ。
むろん朝倉さんには、
ルポとして小説を書いた気概もあったはずだから
「書割」小説には態度が厳しかったのかもしれない。
ここでも還元主義への嫌悪がみえる。
台湾バナナの帰趨を、金波銀波の波にのりつつ
香具師の口上ともども分析した朝倉さんは
自身が憑依媒介だったから
そのときはバナナそのものへと昇華したが、
「身の近代」を照射の対象にしたとき
バナナのような無頼な漂泊性をうしない
その存在を書斎にまずは純化させたのではないか。
近作ではブッキッシュな引用が多くなり(筋金入りだったが)、
歩きによって景観がひらけてゆく開放性は後回しになった。
たぶん明治から大東亜戦時までに
なにか独自の線を引こうとしていたのだとおもう。
そのプランが中途で終わったのかどうかは
もういちどその膨大な著作を検証してみるしかない。
――合掌。
2010年12月13日 URL 編集
ぼくもそうおもいます。
冥土で平岡さんと
仲直りしてもいるでしょう
2010年12月14日 阿部嘉昭 URL 編集
朝倉さんが着目していた「身の近代」は
フーコーゆずりの「ディシプリン」、
つまり規律化された軍人的身体の負性だったと
いまになってはおもいます。
その延長線上には光クラブ・山崎晃嗣や
それに同調した三島の身体などもあった。
それにはんして
チェイチェイと奇怪な叫びをあげる
西南戦争の蜂起軍の群像たち、
あるいは朝倉さんが日記を掘りおこした無告の農婦、
さらには犯罪者たち、
あるいは酔うと観音のように踊る朝倉さんには
図式的な言い方ですが、「身の前近代」があった。
ものすごく豊饒な身体なのです。
無告の農婦の、教養に毒されていない日記が
文体的に凄いような、そういう場所を朝倉さんは目指し、
その文を、その論理の奥底を
「踊らせよう」としたのではないか。
平岡さんの文体が
ジャズのインプロヴィゼーションを経過しているとは
よくいわれますが、
朝倉さんは「身の近代」と「身の前近代」がきしむ場所を
花田とはちがってアウフヘーベンすることなしに
霊位として風景内に掘削していったのではないか。
感知できない奥行き、それを朝倉さんは
感知できないまま白日に晒した。
だから平岡さんの本質がミュージシャンなのにたいし
朝倉さんの本質は霊媒だったのだという気がします。
たとえば朝倉さんは「高橋お伝伝説」で
北関東から横浜に下りてくる「絹の道」に加え、
中世説経節の残存として「ちゃんと」
らい病にたいし少女の生肝が特効薬となるという
民間伝承にもわけいってくる。
その手つきは、分析家のようでありながら
説経節のように「踊ることば」をともなわざるをえない。
中上健次を正面から分析してほしかったなあ。
「マージナル」では、中上紀と接触していたはずだけども
2010年12月16日 阿部嘉昭 URL 編集