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佐々木安美・新しい浮子 古い浮子 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

佐々木安美・新しい浮子 古い浮子のページです。

佐々木安美・新しい浮子 古い浮子

 
 
佐々木安美の詩風が
どのようなものかを定義することはたぶんできない。
というか、そのようなものとして差し出されるため
佐々木安美自身が細心の配慮をしているといえる。

とある不定形、とある風景描写、とある心象描写、とある音韻執着、
とある諧謔、とある省略、とある粘着、とある妙な加算――
そういったものが丁寧な組立て細工となりながら
どこまでも文学的な定着をこばんでいて
だからまたたくまに、読者の読みより先に詩篇がとおりすぎてしまい、
そこに奇妙な動物性の横切りのみを感知することが多かった。

「このひとはどこまで大人かわからない」
「このひとはどこまで怠惰な貧乏人かわからない」、
そういった畏怖によって
佐々木安美の「大人」「怠惰」が読者のなかにも反響してゆく。
詩中にえがかれた佐々木の痔を愉快がることと
そういったことはまったく別物とかんがえるべきだろう。

しかしそうした再帰的な「詩のおもしろさ」は本然的に
なにか確定性のない基底材のうえにのっている。
だから佐々木安美論は、
ばらばらとこぼれおちるものとの闘いの様相を呈してもゆくだろう。

それがはっきりとつかめたのが
今度の新詩集『新しい浮子 古い浮子』だった。

まずはぼくがもっている最も古い彼の詩集、
H氏賞を受けた『さるやんまだ』(87)から一篇を引こう。

そのまえに注記しておくと、
「さるやん」は佐々木が愛妻から頂戴した愛称で、
同題詩篇をみると「さるやん、まだ?」という
排水溝のつまりを掃除している情けない佐々木への妻の呼びかけが
そのまま「、」と「?」を割愛して
「さるやんまだ」という詩篇タイトルに変貌しているとしれるのだが、
この「さるやんまだ」は
たとえば「さまるかんど」みたいな異郷のひびきすらもっていて
佐々木自身が詩篇内で何の説明をしていなくても、
「音韻」の奇妙さに打ち興じている気配がつたわってくる。
こういう薄い、翅のようなものを
詩集名にしてしまう佐々木には、人を食ったズラシがあるのも自明だろう。



【かみなみと言った】(全篇)


川の
水のうえに
紙が
浮いてるんだよ
波にぴったり
はりついて
波の形に
浮いてるんだよ
妻を
抱き寄せ
ぶうやんと
言った
紙は
いつか
破れるんだろうな
ちぎれて
ばらばらになって
誰にもそれが
紙だっていうことが
わからなくなって
しまうんだろうな
ぶうやんと
言った
まだ
だいじょうぶだ
上になり
下になった
かみなみと
言った



転記打ちして気づくのだが、
この一行字数の少なさから「ライト」と印象される詩篇では
なにか独特の分節粘着力というか表面張力のようなものが働いていて、
「どこも割愛することができない」。
部分採取するだけで全体文脈が崩れてしまう。
水と紙が破裂してしまう。
ということは、手軽に書かれているとみえながら
手軽さへの彫琢が、気のとおくなるほどおこなわれていることになる。

最終的に詩篇では妻とのセックスの暗示がおこなわれるが、
妻=ぶうやんが「川」、詩の主体が「川面にうかぶ紙」と捉えても
その暗喩読解では読みの解決が何ももたらされていない感触がのこる。
あまるものがあって、その正体が場面展開と
それを刺し貫く、出所不明の音韻感覚、というべきなのだろう。
こういう佐々木特有の「詩像」の一旦とりこになると
佐々木詩がおもしろくてたまらないものになってゆく。

詩に視像というものが通常ともなうとすると
佐々木詩ではそれが曖昧化してよい内在法則があるかのようだ。
この移行をどういっていいかわからない。

単純な曖昧化への接近でもなく、
喩への過激な信頼でもない。
佐々木安美の音韻意識が何かを崩し、説明すべきものを剥落させ、
詩篇そのものを「ふしぎどうぶつ」に変える働きをする。

詩篇からは生気というか動物磁気が吐き出される景色ともなるが、
えがかれているものが規定できないまでに過激化すると
読者は咄嗟に「ぶちまけられたカフカ」をかんがえてしまうだろう。
『心のタカヒク』(90)に収録された以下の詩篇のように――



【どろりの皮だよ】(全篇)


どろりとしたようなもんが
死んだようなもんが
鎖につながって
ジャラ
首を回して
どぶみたいなもんの
底を見ている
それからジャラリ
底に沈んで
揺れている
いろんなものと一緒に映り
ジャラ
どろり
日が暮れるまで
首を回して考えた
死ぬのはまだまだ
まだどろり
バケの
皮をはぐところ
皮のぴくぴく
鎖が
ジャラリ



幽閉され、鎖につながれている自己感覚が唄われているのだろうか。
いや、犬の描写のようでもある。
しかし「底」がどこからみての「底」かは一向に要領をえないし、
皮も描写対象のものなのか、
その対象がさらに対象化したものにあるのかを判断しようとして
材料が決定的に不足していると気づく。

ただし「途方に暮れる」という態度こそ、この詩篇の拒むものだ。
たとえ双方の位置関係がわからなくても、
動物的な擬音「ジャラリ」「どろり」が
動物のように音を交響させていると知ると、
詩の主体は、もともとの主体が消去されたのちの
これら擬音のほうではないかとすらおもえてくる。

となって、詩篇は読者に「子供の読み」「白痴の読み」をも促してくるが
その促しのしずかなところが、佐々木詩の妙味と捨てがたさだといえる。

――このようにつらつら考察してみて、
佐々木詩を暗喩詩と捉えるのが前提の誤りだという中間結論にいたる。
「換喩詩」と捉えるべきなのだ。

暗喩とは比喩の謎であり、かたられたものと本来的実質のあいだに
ある直線的な解答関係を引くことができる。
いっぽう換喩とは全体を部分で暗示することと
通常捉えられているだろうが、
佐々木にあるのは構築されない全体のなかで
徐々に進行し、進行することで生気を得てゆく
各「部分」の成長にすぎない。

そういう意味では近藤弘文の指摘するような
「峻拒」が随所にみえてくる。
そして近藤のいうとおりその峻拒は「峻拒のための峻拒」ではなく
ことばがそれ自体になるための周囲文脈の峻拒というべきだろう。

全体の地のなかに、部分が図として置かれ、
しかもその部分集積も全体を解読するには材料不足で
結果的に部分の衝突だけがスリリングになる、というのは
本来なら石原吉郎のような疎外者の詩法というべきだろう
(佐々木は今回の『新しい浮子 古い浮子』で
嵯峨信之とともに石原の名を暗示的に出している)。
ただしそういった換喩が疎外態を形成しないのは
ぼくの知るかぎりではカフカの短篇に先例がある。

今回の『新しい浮子 古い浮子』は
フナ釣りの孤独と無聊に身をひたしている
佐々木自身とおぼしい主体が詩集最初に定着され
そのなかで釣りにもちいる「浮子(うき)」も
世界に下ろす垂鉛の水面最後のしるしといった感で定着されるが、
たとえば釣果が詩語、詩行の獲得となるような
暗喩構造は全体にない。

釣りはそのままの釣りであり、浮子もそのままの浮子であり、
だからそれは「世界」からアタリのお呼びがかかったときに
水面に一旦しずむ「そのままの動物」であるにすぎないとおもう。

ただし浮子によって釣り手、さらには世界、さらにはひかりと
世界像が同心円状にひろがるために
浮子は、一旦は世界の中心、臍に擬されるものであって、
その浮子にたいし主体が関与的ではなく受動的な点に
主体のポジションがまずあるとわかる。

そのことをいう詩中の一句が
《ゆるやかに浮子立ちながら底の春》だとすると、
逝去した「父」への思いのよすがとなるのも浮子だ。
浮子は「そのままの動物」だから変身可能性をあたえられている。
これも詩中の二句から引こう。
《父死んで雨降る川に浮木かな》《父というものしずまりて浮子ひとつ》。

表面(水面)をたゆたっている浮子の意味については
意外なところから照射をうける(詩集構成がじつに巧みなのだ)。
詩篇「浴室を仕切るカーテン」(この詩篇から次の「接近」、
さらに次の「児玉」までがテーマ的に近接した連作関係にみえる)に
以下のくだりがみえるのだった。

《三次元の世界は/〔…〕カーテンのようなものであり/
ちぃきゅうも たぁいようも ひぃとも/
そのカーテンに付着している滴のようなものなのよ/
〔…〕そのカーテンの表面は移動できても/
カーテンの表面から飛び出すことはできない〔…〕》。

詩篇には註記があって、以上の発想の基盤は
理論物理学者リサ・ランドールの次元空間論からの賜物としれるのだが、
詩篇の終わりでは佐々木とおぼしい主体が反逆する。

《浴室を仕切るカーテンなんか欲しくない/
だってそれだと からだを洗っている君が/
五次元世界のこちらから/ぜんぜんみえなくなってしまうから》

まず、詩は三次元世界にのって出現する。
通常の感覚であればその三次元性=限定性が詩の安定性につながるところ、
五次元生物の佐々木には逆にその限定性が
換喩を詩に呼び込む要因となり、つまりは不安定な可変要因となる。

むろん五次元など実現できないが、
換喩による、ねじれの位置での「部分のちりばめ」は
詩の心情を五次元化するだろう。

ただし糸口がいつでも三次元なのも自明で、
その三次元表面にある浮子こそが、
五次元のフナの食いつきを告知するのではないか。
釣果は佐々木にとって暗喩ではないと前言したが、
もともと五次元の魚は釣果にはならないし、だいいち釣れないだろう。
そうかんがえたとき佐々木の心情は他人に忖度できない外部性をもつ。
そこが怖い。

いずれにせよ、この五次元内、というありえない知覚が
時空をたぐりよせ、空間を変貌させ
佐々木詩の奇妙さを釣りあげてくる。
それがドサッとした「現物」なのにうつくしさにかがやいているとき
『心のタカヒク』から20年経って佐々木に兆した
変貌あるいは加算の意味がつたわってくる。
異貌なのに、そこに肯定性が横たわることで
詩の物質性がしずかにきわまりだしたのだ。

圧倒的な詩作である「恍惚の人」を引用したかったが、長いので、
同等の透明な世界同調性、世界没入性を印象させる詩篇をまずは引く。
時空が変貌しながら、それが契機になって空間を単純変転させているようすを
この引用から汲みとっていただければ――



【春あるいは無題】(全篇)


ああ
あんなに高い空の上に
はだしの
大きな足裏が見える
そう思ってぼんやり見あげる
顔の表情のゆるんだところから
春は始まる
じっさい
目を凝らしてみれば
はだしの大きな足裏の近くには
二羽のヒバリが豆粒みたいになって見えるはずなんだ
どうして
あんなに遠いのに
すぐ近くで鳴いてるように聞こえるの
説明なんてつかない
春の遠近法というしかない
子どものころの雪どけ水にも
あの足裏が映っている
雪の
ダムを壊す
快感で顔が熱くなってくる
雪水は
あたり一面に広がり
胸にじわじわと
光のようなものが柔らかく満ちてくる



春季の到来を農耕的時間のなかで捉えた
西脇的祝言とみえそうだが、内実はちがう。
時空の飛躍や比喩の飛躍(「足裏」を春の女神のものとしたり、
花雲としたりもできそうだが)によって
「詩の自由」がメタ詩的に、
しかも自己説明要素を峻拒して、清冽かつ無駄なく書かれ、
ことばの物質性のうつくしさだけがここに際立っているとおもう。

「二羽のヒバリが…」からはじまる一行の長さについては
別の詩篇「車輪」に間歇的な自註フレーズがある。
《一行の長い詩を読む人の/
身体が途中でひしゃげているのはずいぶん前からわかっていた》
《一行の長い詩を読む人の中でわたしは詩を書いているはずだが》。

ふたつめに引用した行の摩訶不思議なひびきを味到してほしい。
詩は書くもののなかではなく、読むもののなかで書かれる。
没入が詩の宿命なのだ。
その身体は、詩行が長くあれば物理的にひしゃげる、とも
佐々木は語っている。
ぼくなどはそこに「詩の本来的なかなしさ」を感じてしまう。

最後に佐々木の、「世界没入」哲学が
これまた説明を峻拒して綴られたうつくしい詩篇を引用しておこう
(論はこれで終わるが、以上が多元的な佐々木詩の
一面しか述べていないことにはご留意をねがう)。



【山毛欅〔ぶな〕の考え】(全篇)


あるかないかもわからない わたしらの考えの中に
みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす
すこし前に かすかな風の前触れがあったはずだが 気づかなかった
それでよけいに 若葉を鳴らす山毛欅の音が鮮やかだ
山毛欅の大木は あるかないかもわからない
わたしらの考えというものを見つけだして
わたしらの中に もうひとつ別の考えがあることを
告げようとしているのか
ひとつの考えの中にもうひとつ別の考えを並べておくこと
そうすることで わたしらは世界を立体的に把握できる
そう告げようとしているのか
山毛欅の大木はわたしらの考えの中で 小さな光の短冊をいっせいに鳴らす
わたしらは山毛欅の考えの中で 大気をいっぱいに吸いこんで
細い枝の先まで光を浴びている



詩集の申し込み先は以下の「栗売社」へ――

kuriurisya@gmail.com
 
 

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2010年12月10日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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