年用意
【年用意】
霜月とか十月とかの語は好きだが
師走とか十二月とかの語は
空を見あげるよう設えられていて
どうしても好きになれず
それで日めくりをやりすごしてゆくことが
一種の反語的な年用意だと気づいた
やらずの袋となって柚子を溜め
めぐってくる皿には果皮をことごとく散らして
ことしの棒、その輝度をたかめてゆく
そういうのが水底の感覚だが
なまずならもう日めくりの
ちくちくしない場所を掘りあてて
辞世までうごかないだろう
そんな薄明が身内になっている錯覚が
冬の無聊を規定しているのだから
舌を柚子のかおりにして
ときたま面倒な往来に行き混ざれば
いそがしい往来のうえのいそがしい空が
へんな水いろをしているのも当然か
わすれたことがおおすぎて
かまぼこのたぐいでかばんを一杯にしたら
板がなにかという難問に突き当たる
かみさまこれは何の割符
柚子顔をさらにでこぼこにして
ようやく一週分の日めくりをやぶると
日のうちに日があるのもわかった
竹ばやしさらさら
日の厚みのまま
そんなふうになまずと
たったふたり
世をもぐっている気がする
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昨日は賀状の宛名書きで昼すぎまでつぶれる。
ことしの賀状は校正ミスをしてしまった。
大体が「取る」「採る」「捕る」「獲る」「穫る」は
編集者なら校正上、要注意ポイントなのだが、
机のうえが乱雑で、
賀状の原稿控えが見つからないままにしていたので
問題点を把握しないまま日々が徒過していった。
そのうちあるとき酔っ払って帰宅したところ
印刷屋から校正ファックスが来ていると気づき
安直にOK返信をしてしまったのがたたった。
よって来年の年賀状は
訂正書き込みつきの恥ずかしさ。。。。
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火曜日、年内最後の授業のうち連詩連句演習では
一学生が
参加しているぼくの詩作に疑義を呈した。
とんでもない否定辞だったのだがそれは措くとして、
その論旨は「いつもおなじ」「難解」
「音韻によって多様なイメージが定立なく流れるままになる」
「詩篇の中心が掴みにくく付けにくい」
「連詩のコミュニケーション重視精神にもとる」
とでもいうものだった。
主観と自己客観のはざまというのは最終的に埋まらない。
それはあらゆる表現につきまとう難問だろう。
それは当然として、「だからこそ」
自己客観の保証はたぶん単純な客観から得る。
たとえば威張ることではないが
ぼくは年齢上その批判者よりも引き出しも多く、
典拠や方法についても可動的で、
それゆえ「いつもおなじ」というのは
その批判者の不注意によるものではないか、と一応は反論した。
それと音韻によってイメージが点滅してゆきつつ
その速度のなかでやはり意味生成が変形的に起こっていると
自分では判断している、ともつけくわえた。
ただし「わからない」といわれると、さすがにつらくなる。
「わかるはずだ」というつもりで詩を書いているのだから。
ぼくのそういう個性は
「ゆたかさ」と一応部分的には称賛されもするんだけど。
ともかくこないだの火曜日はヘンな日で、
詩の読解の齟齬、という問題は
その前の時限の演習にもあった。
石原吉郎の詩それぞれ一篇について
受講者に発表をやらせたのだが
「書かれていない」ことまで解釈をやり、
しかも石原の実人生については生齧りなので、
まったく「想像的な(奇)解釈」が次々に飛びだしてくる。
石原の詩が換喩詩、つまりその詩行は「部分」、
詩行の運びも「部分がスパークしてゆく物質的運動」だとして
詩が意味的に「ここまでしか書かれていない」という
その精確な把握によって
たとえば石原の身体観へと
詩の読解が反転してゆくことがおこらない。
代わりに詩行にたいし、奇怪な読みがただ充填されてゆくのだった。
ぼくはそうした恣意的な読みをとうぜん授業中正したが、
そうした読みこそが、自分の詩作をも正確にするもので、
だから詩を書くことと詩を読むことは
たえず並行しなければならない、ということになる。
ぼくの詩を「わからない」といった学生は
授業後、研究室に謝りと弁明をしにきた。
そこで彼が、偏った範囲でしか詩を読んでいないとわかる。
そういえば彼はぼくが「詩手帖」年鑑のアンソロジーで
どの詩篇に☆○△をつけたかも把握していて
そこでは詩の大御所が無視されているし、
多様な詩篇が対象になって偏向がないのには驚いていたと語った。
それと「先生の詩はもっといいものがあるのに、
アンソロジーに載った詩篇はつまらないのではないか」ともいう。
このように詩をすごく勉強している学生なのだが、
その「客観」が、ぼくの「自己客観」とことごとくちがう。
授業でもう三ヶ月付き合っていてもそうなのだ。
詩をどう教えるか、これはやはり難問だ。
精確な読みを提示しても、その伝播範囲には
まず疑念をもて、ということだろう。
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既報の岩波「日本映画は生きている」シリーズの第七巻、
『踏み越えるドキュメンタリー』がきのう届いた。
ぼくは「ドキュメンタリーとしてのアダルト・ビデオ」
という長稿を書いていて
今週末には書店にも並ぶとおもいます。
巻頭総論では旧知の石坂健治さんが
ぼくの書いた原稿の細部を数多く引用して
現状ドキュメンタリーの「変化」につき
意の籠った文章を展開されていました。多謝