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星に聴く・金石稔 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

星に聴く・金石稔のページです。

星に聴く・金石稔

ここ数日、書肆山田からこの9月に出た
金石稔さんの『星に聴く』という詩集を
ひまにあかせて紐解いている。

この詩人について知るところは少ない。
帷子耀や阿久津靖夫や芝山幹郎、
支路遺耕治や山本陽子などとともに
「68年」に言葉を沸騰させた詩人群のひとりだったろう
――そのような「類推」がやっと効く程度にしか
その詩業全体の把握もできていない。
詩集のかたちでようやく詩を知ることができたのだった
(廿楽順治さんなら何かをご存じだろうか)。

もうその言葉に「68年」性などほぼ残っていない
(巻末の長い散文詩を別にして)。
各詩行では何かが美しく消尽していて、
残骸の枠組のようになったそこを
代わりに星の瞬きの無言や風音の無魂が
ゆるやかに、濡れるようにひたしてゆく。
天体と自然、わずかに小規模のまちが詩の空間から察知されるだけ
――そういう「詩体」も多い。

たぶん世間では「北方詩人」という分類が
有効視されているだろうが(鷲巣繁男も当初はそうだった)、
金石さんもそういう磁極にいま静かに身を置いている。
その、置いている身が、かすかにみえる――

この「像」の曖昧も畏怖に値するのだった。

読解にあたっては、他の詩人とまったく別の感慨が湧く。
言葉を組み立てる原理が即効性ではなく、
次行にいたって当該行が姿を現すような
遅効性によってつながっているのだ。
読解線には戻り筋もしいられる。
一篇を読んで、即座にその一篇を再読すらしてしまう。

存在しているのは――
大仰でない意想外。わずかに周囲に渦を発する自然原理の語。
句読点が各詩行末尾では廃されていて、
読解はだから詩に「想像参加」して、
消尽してしまった句読点を補填してゆく試みにも似てしまう。
このとき、金石さんが言葉の運びに装填している静かな律動に
読み手の躯がゆっくりと浸されてゆくことになる。

反映。移り。「その」無名性に「この」無名性が反応すること。
消尽を補って新たに消尽に出会うこと、
つまり消尽にも奥行があると直観すること。何かの「去り」。
聴えないものに耳を澄まし、世界や動物たちの秘密に触れること。
こういうのはかつて詩の読解の基本軸に置かれていたものだが、
現在ではその効果を軽視されてもいるだろう。

どういうか――金石さんのこの詩集後半では
僕には理解を超えたアイヌ語も頻出してくるのだが、
似た経験を、かつてショーン・ペンの映画
『インディアン・ランナー』で感じたことがあった。
兄弟の葛藤物語に、ふとネイティヴ・アメリカンの言葉が
「原型」で混入してくる。
鹿は直角に走り、それを追う犬は藪を抜き最短の斜めで走る。
だから犬は鹿を馳走にすることができる。
森林にはそのようにいくつかの「道」があって、
動物の運命もまたその「道」の種類別になっている。
「道」はメッセージだ――だが他種には読めない。
メッセージはいわば動物のかたちとなって
走るだけだ――それは「捕まらない」
(『インディアン・ランナー』の「メッセージ」は
いま僕の記憶のなかで上のように変型している)。

徹底的にヤラれてしまった巻頭詩を引こう。



【岸辺に輝くもの】(全篇)

風が生まれるところまで
坂道をのぼり
そこに星を一つ飾った
記憶は忘れられる
沸騰してひとかたまりになって
岸辺に輝くもの
それは何でもない
上昇と下降を繰り返すだけなら
この底なしのわが身までも
雨粒だとか草の匂いだとか
寄り添うもののすべてだとか書ける
色や形を飽きずに
見つめてきた
あいさつは省略し
出会いは黙殺し
そのようにか
そのようにしか
音色かぐわしい道の上では
うねりはやまない
岸のへりをつまみ胸にしまって
たとえようもない
まぼろしに
風に
なる



語同士の関係性を確定するために
読みが自らを緩慢化する機微がわかっていただけるとおもう。
句読点を詩行末尾に自ら補うことで
行の関係が意外に晦渋だという認知の生ずる一方で
律動が静謐で、いつしかそれを
抗しがたい魅力と捉えているとも気づく。

一旦《この[…]わが身》の語で
詩の主体の位置が再帰的に定着されるが
僕が一文と捉えた冒頭三行や
同じく一文と捉えた途中の《色や形を飽きずに/見つめてきた》、
さらには最後の4行では
主体を示す節、「わたしは」が省略されているとおもう。
この省略によって読者は
詩の主体の位置に自らを代入するのだ。
だから読者がするのは観察ではなく
「寄り添い」や「ともに歩くこと」。
すると最後、一行あたりの字数が少なくなる過程を
没入した身体までもが共有することとなり、
実は読み手そのものも美しい「消尽」へと導かれてしまう。

そうだった――自分を消すことにしか
詩の読解の歓びなど、あらかじめなかったではないか。
不要な「意識」を呼び覚まされ、
生じた雑念によって詩の読解自体が困難になる経験の煩さなど
あらかじめ詩には関わりのないものだったのだ。

たたずまいの静けさのなか滲みあがってくる詩行。
屈曲は読み手を意識しての武装などではなく、
それ自体が自らを内側にくるみこもうとする
語の本能に忠実な点によっている――そうもおもう。
たとえば、



それらを思い出すというのが記憶の色であり
たとえば飛び交う蜂や甲虫類の羽音は
まぶたに映る海岸線のように
青い
だからなのか
空中に巨大な円錐の形に
掘り出されている静けさを
見た気がするのは
闇の水について考え
その思いを一個の語句にするたびに
     (「(夜のひかりについて」最終部分)



雷鳴はつかめるのに
身体のない獣たちには
耳元にささやかれる意味のあることばも
ただ点滅する永遠のまぼろし
寝返りうつことはうつ
そう思うことは思う
これらに相応しいことばの鋳型を
いつも書いている
     (「点滅」最終部分)



まばたきの間に消えていく季節
陳腐だ
訪れた岸辺が
寝入る前のシーツみたいに白く
めくれるなどと
文字にしてみると
崩れ墜ちる
からだの回復のために
枯渇とか希望がほしい
濃い水の中の頭脳
それをいつも待っている
ゆるやかな一歩だけの
ピクニック
     (「ピクニック」最終部分)



洪水の中で
声のあざは
うねりを増す
     (「星に聴く」2、最終部分)



――こうして抜書き(転記打ち)してみると
もうひとつ、金石詩の特質に気づかされることになる。
僕はつまり、各詩篇の「最終部分」ばかりを抜いたのだった。
それは、どの詩も終わるために――
「終わりをしるすために」決意をもって書かれていたことの反映だ。
これほど詩篇の結末が見事な詩人など滅多にいない。
「終わり」とはむろん「たんに終わること」などではない。
それはたえず「いったん終わること」にしか過ぎず、
余韻の存在を考えればむしろ「けっして終わらないこと」なのだ。
金石詩篇の終わりの見事さは
「終わり」のそうした多重性をかならず分泌し、
「終わり」に魔法をかけているからだ。
読者はこのことにより、ときに愁殺されてしまう。
「終わり」を泣くのだ。
ただこのこともまた、多くが忘れがちな「詩の原理」にすぎない。

『星に聴く』はそうして感傷を静けさによって腐食され、
読者の心が美しくなる代わりに
ぼろぼろになってゆく体験にも似てしまう。
正しい詩は、
たんに読者を賦活するなどといった一義機能を負うだけではない。
「正しく」読者を「疲弊」させるのだ。

僕自身の体験をいうなら
この詩集では巻末に近づくにしたがい疲弊をつのらせていって、
だから詩集の終わりのほうに並ぶ作品の
全貌を掴んだという自信を授けてくれない。
たぶん詩集冒頭から末尾までを読む経験を何度も繰り返し、
前半詩篇が完全に透明になり無重力となって
それで初めて末尾の詩篇群への焦点が合いだすのではないか。
そうなるまで僕は繰り返し、思い出したようにこの詩集を
掌上に乗せるだろう。

なぜそうするのか――この詩集が一個の「星」だからだ。
僕は天にゆくために、そうする。

最後にもう一篇だけ引いて、この小稿を閉じよう、
(僕の眼に涙が滲んだ箇所だ)――



【河口にて】(その中途から最終行まで)

たとえ風が雨に押しつぶされて
だまるけものたちのように夜の底に
静まりかえったとしても
ここの植物たちが交わし合っている谺することばは
流れにゆだねられたまま凍る
春を待つ岸辺にそって
立ち去る者も立ち行かぬ者もともに
刈り取られるのは痛いことだ
あらかじめ失われた昨日や
どこにでも書き付けられる落首なら
やむをえず微笑でかわせるが
手触りや虹彩や痛点がまばらに思い出せるだけなら
この身体はどこに返したらよいのか
覚束ない足取りで夜のへりを歩き
あてもない点滅を繰り返すほかなにができるかと
仮に書きしるして眼をあげると
視野が風に揺れひかりもまた揺れて
背景の緑野はそっくり消えている
そこでは銀河が音もなく
一回転している

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2007年11月13日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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