たたずまい ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

たたずまいのページです。

たたずまい

 
 
【たたずまい】


ひとのたたずまいというときには、おもざしやすがたとともに、そ
のからだの輪郭からわずかにひろがる風景までもがふくまれ、とり
わけその風景のなかでのたたずみかたが、さみしさや夢のようすと
して愛着されるのだろう。そうでなければからだそのものが他人の
想起のなかでただ劣化にまかされるがままになって、ひとは紙切れ
のように集約され、おもいすらめくられることなくついには点にな
ってしまう。だから摘みとった花をかかげ、たずねてくるひとも、
その花をつうじ自分がそれまでどんな風景のなかにいたかをことば
によらずつげて、このときつぎなることばは花のゆれからうかぶ橋
をおもわせこちらへしずかにしろくのびてくるだけだ。たとえばお
はようというほどの単純なことばを手がかりに声の棲処をまぶしむ
ときに、むかえる夢想が対象にしているのは、ことばではなくその
ひとの外側、おもいからからだの輪郭をつきぬけてにじみだす色あ
る無人の風景で、それがたれにもひろがっているものなのかそのひ
と固有なものなのかへはじっさいに注意がむけられない。ことばは
通常みられずして聴かれるものだが、春ちかくにあってはひとを媒
介にかくもぼんやりとみられ、あるいは夢とも区別がつかなくなる。




たたずまいの重要さをおもうことがある。
逆をかんがえてみよう。

たたずまいを感じられない詩作者、
たたずまいを感じられない歌手などは
たぶん存在そのものから崇敬をうばわれて
商品にちかい位置に対象化されるだけになる。

やがてはそのことばの惨状に悪酔いするようになるか
あるいはその歌声からわかさの消えることを
深甚な欠陥のようにおもいなしてしまう。
テキストやからだだけに注視がおこなわれるためだ。

だからこそたたずまいの要件、
からだの周囲の風景のひろがりがうながされるべく
からだそのものがあらかじめ
世界をふくんでいなければならないのだろう。

そのように詩作者や歌手を、最近のぼくはかんがえだした。



近況:

最近聴いた七尾旅人の『billion voices』の音楽性があまりにもたかく
釣られて往年の「音楽脳」までもがもどってきてしまった。
それで昨日から立て続けに音楽を聴いている。

まずはスティーヴ・レイシーとロズウェル・ラッドの『Monk’s Dream』。
少人数でビッグバンド形態を貫徹するレイシーの漂泊性が
セロニアス・モンクの陽気で記号的にクールな音の分散をたどって
なにかやわらかい中間域が幸福にひろがってくるのをかんじた。

つぎはフランク・ザッパ。
ザッパは『シーク・ヤプーティ』『ジョーのガレージ』まではよく聴き
そのうえで『200モーテルズ』までがザッパの絶頂期だというのが
ぼくの学生時代いらいの一貫した持論だったが、
ミクシィのザッパ・コミュは大山甲日さんとは別地点で
ものすごく充実していて、
不知の癌を宣告されてなおザッパ・ミュージックの大輪を
ライヴで咲かそうとした90年ごろ以降のザッパへと
興味をかきたてられる内容がつづいている。

それで手にしたのが『ザ・ベスト・バンド』と
『メイク・ア・ジャズ・ノイズ・ヒア』の二部作(ともにライヴ)。

ロックやクラシックの定番のザッパ的カバー、
ザッパの過去の名曲のコラージュ、
そのうえに完成域に入ったザッパのギターが
意外に枯淡な歪形美学を発揮する。
ベーシストが途轍もなく音変化を読めていて、
その支えがあって演奏全体の自由が獲得されているとわかる。
ということは、第一期マザーズと似た
演奏の面白さがあるということにもなる。

タイトルを掲げたライヴ盤はどちらも二枚組CDで
通して聴くと四時間以上かかるとおもう。
そのなかで『メイク・ア・ジャズ…』のdisc1が異様な達成だ。
スタジオ録音でしか成立できないとおもわれた
往年の『アンクル・ミート』的な複雑音楽が、
おどろくべき余裕で祝祭的に延々、演奏されているのだった。
こんなに高度で嬉しい音楽など、滅多に体験できないだろう。

晩年のザッパ、網羅的に聴かなくちゃ、だなあ。

と書いたところで次に聴こうとしているのがマーク・リボット。
気に入れば、また感想を書くかもしれない
 
 

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2011年01月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

 
マーク・リボットは
『Alive at Tonic』と『The Prosthetic Cubans』を
立て続けに聴いた。

経歴抜きに彼の個性を総括すると、
ジャズ、フリージャズ、ロック、パンクの諸ジャンルを
エフェクターを噛ませたギターで
脱分節的に展覧してゆく、といえるかもしれない。

ジャズギター奏法でいうなら
オクターブ奏法などは完全に自家薬籠中にしながら
それを構成的・引用的・コラージュ的に前面に出すだけで
むしろ彼は「融合」そのものをかなでる。

ギターでつくりうる音連関、音色を
「自体的に」組織するその手つきからは
音がエフェクターで歪んでいるのに
たとえばロックやパンクやフリージャズの大音性が
精確に減算されている。

結果、前者のアルバムでは
一種、ギター教則用演奏のような余剰のなさが生まれ、
それが最小限度の伴奏(ドラムorパーカッション)と相俟って、
一曲をミニマルに小宇宙化する作用が生まれている。
一曲が7、8分の長きにわたってもそうなのだ。
これと類縁する音楽形態は何か、というなら答はすぐに出る。
音響系音楽、がそれだ

(だから彼はフュージョンギタリストにはまったく似ていない。
あるいはフュージョンの意味が
今日的に個別性のなかに転位されている)。

彼は音色を、音連関を裸にする。
ギターの奏法可能性のもっている「それ自体」性を
存在論的にとらえなければ
あやうくイージーリスニングに接触する危うさまでもっているが
たぶんこの危うさが今日的なのだろう。
つまり90年代末期以降の、
メタレベルがつねに問題となるギタリスト、という感触がある。

アルバム後者ではベースやホーン
(しかしそれらは打ち込みのように聴こえるほど簡略的だ)が入り、
ギターの単音メロがつくりだす、
カリプソにつうじる暗い情熱の明るさ(Dark Bright)が
ときにキューバンリズムも交え展覧される
(一曲、歌ものが入るが
このときの唄い方も減算的・簡易で素晴らしい)。

ギター奏法の中心にあるのはジャズだが、
問題は彼がキューバ音楽を転位するのではなく
音楽の「キューバ性」を最小の材料でつくりあげる際の
音楽の自己再帰的な抽象性のほうだろう。
これもまた、90年代末期以降のエレキギターの
とりうるべき位相を精確につたえてくるものだ。

ともあれ、マーク・リボットが
「頭脳派」なのはいうまでもないが、
それでも原型的な複雑さ(形容矛盾だが)をもって提示されてくる
そのギター音楽にはエレガンスがある。
情念を差引かれたそれは、
あるいはサイボーグ・エレガンスとでもいうべきかもしれない。

自分の話になって恐縮だが、
ぼくの詩作は
ギタリスト、音の統括者としてのザッパと
ギタリストとしてのマーク・リボット、
どちらに似ているのかなあ、とぼんやりおもった。

むろん音楽と詩の類推は、
それが印象論ではなく構造論になっていれば有効だろう
 

2011年01月25日 阿部嘉昭 URL 編集

 
マーク・リボットは
マーク・リボーと発音するのが正しいようです。
訂正
 

2011年01月26日 阿部嘉昭 URL 編集












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