推敲完了
昨日丸一日と今朝は未明から
ずっと次の詩集の推敲に励んできた。
なにしろ二百篇収録予定で分量が多く
実質的に作業時間がかかったということだ。
まずは全体を四章に分けた。
一日に読者が読みうる分量を
目安として章別したつもり。
章ごとに作風の変遷もつたわるとおもう。
それから作成時期、出典などをおおまかにしるした
冒頭「(メモ)」をつくり、
さらに必要なところには簡単な自註をくわえていった。
詩篇をまとめたテキストは最初は横書きにしていたが
不思議なことに縦書きに組み替えて見直すと、
粗がくっきりとみえてくる。
書いているときは主題でも音律でも
すべての詩行に動機があるようにおもえるが、
あとで見直して削っても
意味も音律も不足しないと感じる場合は
その一連は要らない、バッサリ切ることだ--
と、ぼくはつねづね学生にいっていて、
その原則を自分にも適用した恰好だ。
繰り返すが、この作業は縦書き状態のときになぜか回転する。
今度の詩集は狂っている部分もあるが
全体にはしずかでかなしいなあとおもう。
まあ年齢と見合っているということだろうが、
もともと「老けはじめている自分と同調する」ために
中年になって詩を再開したようなものだから、
この感触もべつだんわるくない。
ただし自分の書いた詩篇をずっと読んでゆくと、酔う。
酩酊は心地よいが、わるくすると中(あた)る。
といって疲れるということはまったくない。
「自分」というものはそのように危険領域なのだ。
こうしてひと段落してみると、
減退感もやってくるんだろうなあ。
広瀬大志さんがどこかで書いていたけれど
詩集を出すと自分がなぜこんな詩が書けたのかわからない、
どんな奇蹟のなかにいたんだろうと驚愕する羽目になる、という。
この結果がスランプ。
スランプは半年くらいつづき、
また、なにか呪縛がとけて詩作が再開される、ともいう。
ぼくもきっとそうなるだろう。
今回のぼくの詩集は収録篇数が多いので、
だれかほかの中立的なひとに
取捨選択をしてもらったほうがいいのではないか、
という詩友の温かい意見もあった。
けれどもそれはやめにする。
吟味はどんな種類の本でも
ただ編集者と作者だけが真剣におこなうのが
筋なのだと改めて覚悟したのだった。
これから、編集者にデータを送付します
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以前の詩集刊行では
収録詩篇をしるしたミクシィ日記を
バッサリ削除してしまいましたが、
今回は詩篇だけ消して
代わりに但書を置こうかなあ。
ミクシィが衰退しているので
そういう措置が適切かと。
詩集編集は、もたれない、重すぎない、
流れをひかりに包むために
隙間をあけながら
最終的に大団円にもってゆく、
というのがぼくのやりかたです。
ま、時間性と空間性の構築ということでは
あまり映画などとも大差がない。
そのためにあらかじめ詩篇をテキストに貼り付けながら
流れを疎外している詩篇を捨てる、
という裏の事前作業も必須となります。
今回は物量感がとうぜんあるのだけど、
重さはない、流れている、というのがいまの判断です。
いま書いた裏の事前作業が奏効したのかもしれません。
いずれにせよ、「怪物呼ばわり」されるのは必至。
今回ばかりは編集者と徒党を組んで
こちらから明快化をすべきかもしれません。
詳しいことはまだ企業秘密ですが(笑)
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詩集は去年書いた詩篇が中心。
月曜から金曜までのウィークデイ、
朝ごとに詩を書くことを日課にしていて、
できあがった詩篇は
たぶん20%くらいは反故にしたけど
日課の連続性がひとつ際立った特徴になったかもしれません。
日課を自分にあたえてもいい、というのは
じつは自分への信頼を根拠にしています。
「自分」は連続しつつ、時に反対方向へも飛躍する。
そういう自分の「気散じ」こそが
じっさいは詩集にしたときの
隙間(空間性)をはらむ「流れ」をつくるのです。
日課、というときには
岡井隆さんの最近の歌作や
河津聖恵さんの『神は外さないイヤホンを』を想起しますが、
知力と体力が均衡的に飽和しているときは
「日課」をかんがえるべきなんじゃないかとおもいます。
まあ、ぼくは俳句や連句からの影響を
詩作に組み入れるタイプだとおもいますが、
詩作を「日課」化すると
とうぜん季節推移が自然と出てきます。
実際はこれが詩篇間の時間性をつくりあげる。
このタイプの時間性は、
じつは詩集編集の必殺要素だったりもします。
このごろ反省的にかんがえているのは、
吉本隆明が「ゼロ年代詩人は無だ」といったとき
その論拠として
彼(女)らが「神話」を創造せず、
しかも「自然」を描かない、とした点。
本当のところヘルダーリンの権能、みたいなものを
吉本はかんがえていたのではないか。
詩の権能が、稲川方人的に
政治学・歴史学的に拡張されるのはぼく自身シンドいですが、
ヘルダーリン的な守備範囲なら
詩の本堂、という感じがやはりあります。
たとえば前田英樹のような知性に、
保田与重郎から特定の詩作者に興味を移らせるような
そういう「根本的」な詩作が出てこないものか。
前田さんはそういえば、
全然かみ合わなかった吉田文憲さんとのジュンクでの対談で
現在の詩は「技術的」「難しすぎる」といってたなあ。
これは前田さんごのみの、剣士的間合いが
「世界」に発揮されていない、ということでもあるでしょう。
で、ぼくのおもう「詩作者の権能」とは
それほど遠景にあるものでもないかもしれません。
たとえば「詩作者の権能」と綴ったとき
条件反射的におもいうかぶのも
江代充さんだったり貞久秀紀さんだったりしかしない。
そういえば今回の詩集の後半は
このふたりに深甚な影響を受けたなあ。
葉月ホールハウスのイベントのおかげか。
あのときのぼくが発表したレジュメ、
いずれサイトアップでもしようか
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もう一個、大量詩篇収録の詩集というなら
石原吉郎の『サンチョ・パンサの帰郷』とか
生野幸吉の『飢火』とか
堀川正美の『太平洋』とか
つまりは現代詩の分野においては
溜めに溜められた処女詩集の出版に実例がみられます。
これは音楽でいうなら
「ブルース・インパルス」というやつです。
リロイ・ジョーンズだったかの理論ですが、
ぼくはこの語を高校のころ
オーティス・ラッシュの初の日本版で知りました。
ずっとムショ暮らしをしていたオーティスが
初めて出したアルバムだから「濃い」と。
ただしぼくのはネット時代特有、
ほぼ一年間を中心にして
200篇もの大量収録で、
ここが読者の判断のポイントになるとおもう。
田中宏輔さんのように
つぎつぎ詩集をだす資金があれば
大量詩篇を分冊化していいのだけど、
ぼくの場合はそうはゆかない。
となって、ある「方策」を利用するしかなかった。
ともあれその「方策」によって、
A5百頁400部二千円、という詩集の定型を
幅広い流通性にむけて
崩すことができるという判断もありました
(具体的には書かないけれども)。
ともあれ「自分のためだけに」詩集は出されてはならない。
「後進」が呼ばれる必要があるのです。
70年代にすぐれた詩人は潜在的に数多くいたけれども
マイナー化したひとも多かった。
なぜか。40頁詩集が出すぎたのだとおもいます。
じつは痛ましいことだとおもっています。
荒川洋治の紫陽社は名伯楽だったけど
詩集がミニマルすぎた。
それが今後は回避されるべきだとかんがえています
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ああ、そういえば
今度の詩集は
終結にちかづくにしたがって
いわゆる散文詩が連続してきます。
もともと「息だけで」書かれた散文詩を
退屈におもっていたぼくですが、
ネット詩誌「四囲」三号の「散文詩を」という課題は
すごくおおきな果実をむすぶ契機となりました。
側面で江代さんの詩を丁寧に再読したことも
認識の深化につながっています。
たとえば改行詩(行分け詩)の改行の動機は
身体的呼吸だ、とぼくはつねづね主張してきましたが
改行詩の現実も
まずは構文を正確につくったのち、
それを分節中心に改行しなければ
「呼吸まで生じない」ということがわかってきたのです。
つまり「呼吸の抑制」と「呼吸の前面化」が
相即するためには
構文意識がその前提となり、
その構文意識が単純か浅慮な改行詩は
呼吸性をもたない退屈なものになりさがるということ。
あるいは、そうした「詩の散文性」に意識的になったときは
見た目に散文詩であろうと改行詩であろうと
大過がないということ。
現在の詩は、「詩であるために」
散文精神が音韻化したり
散文精神が喩的に飛躍したりするしかないのではないか。
このときに、詩と散文を融合する
「普遍化」が生じるのかもしれません