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自己確認メモ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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自己確認メモ

 
 
散文性のなかへ
散文性のまま
散文性の可変要素をくわえること。

その作業は
欠落や過剰を
「文」にあたえることでもあるが、
これが実際は
音韻(身体性)の導入と相即している。

たぶんこの部分が
散文性とともに
詩を二重に普遍化する要因となる。

したがって矛盾撞着的ないいかたになるが
散文精神のよわい詩篇は
結果的に無惨なものともなる。

詩篇集の要諦となれば
さらにべつの水準がある。
詩篇間にヴァリエーションが生じていなければ
実際に読者には詩篇集が親和的に映らない。
それは単純に、「一にして全」に
まつわる法則だろう。

ヴァリエーションは
生の本質的な偶然性から転位される。
そのもっとも単純な変化単位は
ただ「歩行」から見出され
ここにこそ時間性と空間性が
綯混ぜに織られてゆく。

現在の詩はそれ以上ではないだろう。
心情も哲学も
ただそのなかに組み込まれるだけだ。

むろん詩作者は
「心情の専門家」「哲学の専門家」ではない。
卑小な「文学の専門家」でもないように。
なにかもっと茫漠とした
ことばへの参与者だ。

ゆえに言語状況を変革できる。
 


詩の啓蒙はむろん独善的であってはならない。
往年、数学の難問を自ら黒板に解いて
「簡単でしょ?」と振り返るのが癖の教師がいたが、
そういうのがもっとも
啓蒙から離れた態度だということだ。

むしろ詩の定義は個々の詩作のなかでゆれ
そのゆれを玩味することが
詩の読解の本質ともいえるくらいだ。
だから詩篇間にはヴァリエーションが要る。
それは「確信」とは正反対のものだろう。
詩作に「確信」の語を当てる無恥は
回避されなければならない。

読者は詩と作者のあいだに何をみるか。
「自己給付」「自己運営」--
いずれにせよ詩作によって
二重性のなかに延長されてゆく
作者身体の再帰的なありようだろう。

それらこそが表現の「秘訣」とよばれ
じっさい詩の内容や形式ではなく
その秘訣こそが
ミメーシスの対象ともなる。

そうでなければ詩は
幸福な媒質の座から外れてしまう。
 

 
「わたしが詩を書く」のではない、
「詩がわたしに書かれる」。

このことを原理化してゆくと
やがては自分の詩作と
他人の詩の読解が
液体どうしのように溶けあってしまう。

このような共同性もまた
詩の幸福だろう。
 
 

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2011年02月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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