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自己確認メモ2 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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自己確認メモ2

 
 
個々のことばにはがんらい
ひかりの瀰漫にそれぞれむかう奥行きがあって
それはどの一語も歴史上、
生活のなかで磨かれ使用されてきた
ことばの来歴にこそかかわっている。

一語のなかに長いスパンの生があり
往来すらあって、
語はつらなるとかならず
フィルムのように歴史的時間を
たとえそれが小単位であっても上映するのだ。

むろん日本語の特質なら書式上は
漢字とかなの混用にもとめられるだろうが、
漢字におけるイメージの圧縮は
音素である「かな」の延引効果によってほぐされ
それらは「文」のなかに
つかみえない余剰として浸透されてゆく、
そんな二重性の経緯をどの場合もたどる。

とりわけ「助詞」には
構文の性質を規定してゆく微細な機能もそなわっている。
助詞が構文に生気をあたえる最小単位だと気づけば
日本語をあつかうよろこびも自然と倍化する。

ただしそれぞれの語のひかりは
諸語が説明伝達機能に特化して
機能的目詰まりを起こしてしまうとたちまち消える。
語はかなに代表される音素によって
相互距離をあけられ
構文のなかで一語の独立性の位置が
確保されなければそれじたい滲まない。

このとき語の奥行きに
ひかりのみならず
明視性を剥奪した物質的な影/謎をあたえる効果まである。
構文内の具体的進行(それそのものが時間だ)に
驚愕やズレや飛躍や逸脱や圧縮や消去などを
かなの音素を保持したまま打ち込むことがそれだ。

通常のことばの使用形態からはずれ
ことば自体にことばの効果を拡大させる発語の形式。
詩はたぶんそうしたことばの拡張にむけ
一種の幸福感のもとつねに書かれてゆく。
だから当面それは手近な魔法の位置にある。

しかしこの「手近な魔法」は
ことばのつらなりの多元性にこそ立脚しているのだから
それ自体が形式化されると
やがて魔法性が漸減してゆくことにもなる。
ひとりの詩作者がある「調子」を温存してゆけば
その者はたちまち個人性の枠組のなかで
自身にのみ給付する詩作をおこなっている擬制が生じる。

そうなると詩集なら詩集が
固有性のなかにのみ還元される不都合も付帯する。
結果できあがった詩集は
「よいものの箱」「わるいものの箱」
そのどちらかに分布されるだけの疎外を演じてしまう。
商品でもないのに消費されてしまうのだ。

むろん本当の詩は構文や詩行とともに
がんらいは生き生きと「うごいて」いるものだ。
それ自体が静態的結末に還元される
「出来の分布」などには馴染まない。
詩篇は、詩集は、一個から数個へといたる
「可算性」すら元来うばわれているといってもいい。
それは出来不出来の判断が失効する「作品」の外部で
「うごき」=ムーブメントとしてひろがる
算えられない動勢でなければならない。
そう、詩は「手仕事」の範疇を超える。

「作品の時代」そのものが変質をこうむり、
あるいはその失効にむけ
終焉までカウントダウンされているのがネット的現在だろう。
ダウンロードフリー横行のなかで
作品発表が対価化されない時代の新形式がすでに到来している。

そのなかでたぶん真の売買対象に付されているのは
作品の個別性ではなく
作品の個別化を脱色する「ムーブメント」のほうなのだ。
書籍単位で吟味すれば社会学系の本が隆盛を迎えているのも
その作品価値以上に
そこにムーブメントの不可算性が付随しているためだ。

前述したようにがんらい詩篇/詩集には
算定基準化に馴染まない「うごき」が底流している。
この「うごき」を倍増させたければ
現状は不定形の支持体、
すなわちネット空間が活用されるに越したことはない。
「おなじ調子」で作者が個人性にとどまっている詩集は
ネット空間のなかでみずからを外延できないだろう。

「ことばとともにある生」はことばの効果によって
多彩化されなければならない。
詩は作品特有の固定性から離れた
伸縮自在の「生の形式」であることによってこそ
「作品の時代」以降を生き延びるはずで、
だから詩集は拡散にむけて投擲される必要がある。

けれど詩はいつしか固定概念に置かれてしまった。
詩作者たちのみが詩を弁別するその集団的再帰性が悪因だ。
詩作発想の原資が詩にのみ置かれて
原資不足を発症しているとも傍からはみえるだろう。
「作品」を供出するだけで
詩そのものにムーブメントをつくりあげなかった
多くの怠慢がそこにある。

むろん詩は発想の自由と相即的で、
それが身体の自由をも喚起するから高度に受容される。
たとえば60年代末期のロック音楽は
実際は歴史的なムーブメントだったが
そこでは個別化をしようとしても
他をひきこんで個別化から逸脱してしまう対他性があった。
これこそがムーブメントの実質だった。

このばあいロックは
音楽(ロック)を発想の原資とすることから逸脱していた。
たとえば「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や
『アンクル・ミート』や『トラウト・マスク・レプリカ』は
俗にいう「アート」の自由形式を転位しなければ
成立しなかったもので
ロックの黄金時代の実際は
ロック自体を自己典拠にしなかった運動の逸脱によっている。

これを詩作シーンに置き換えよと書くと
佐藤雄一の「サイファー」の試みなどが
即座に連想されるだろうが
では「集団朗読」からはずれる詩集発表単位では
何がおこなわれるべきだろうか。

詩の本質の不定型性を顕揚したこれまでの文脈では
ここで規定的なことをいうとなにかの強圧になる。
ただし詩集の個人性固定を硬直と捉えるなら
詩を硬直にみちびく愚昧だけは除去し、
詩をひかりにむけてひらかなければならないとはいえる。

ではその愚昧とは具体的になにか。
詩に不要な価値(たとえば倫理性など)を強要する精神性、
詩に不要な目詰まりをもたらす散文化、
詩に詩集形式のみをうべなう
レイアウトに凝った過剰な(長篇)編集化
(そうなるとそれはネット空間に流布できない)、
さらには前言した「調子の固定」などが
それにあたるだろう。

これらから離れるために詩集には
単純に詩篇集であって
しかも個々の詩篇が同一作者によって書かれたことが
腑に落ちないほどの自由な組成がもとめられている。
その自由な組成とここに述べてきたムーブメントが
フェイズを変えれば同一化するためだ。

いずれにせよ詩の存続のために
「来るべき詩集」が先鋭にイメージ化されなければならない。
それはむろん作者「個人」のものでもない。

「ムーブメント」の語をもちいるとき
そこでは詩作の集団化がすでに含意されている。
自分は個人では書いていない、
だれかとともに書いている、という実感が
この「ムーブメント」の前提といえるかもしれない。
なにかの達成にむけて集団化が必須となったときは
すでにそこにムーブメントの萌芽があるが、
たんなる同人誌的なものではまだ要件がみたされない。

あるいはロラン・バルト的な「作者の死」とは
真のテキスト・クリティークに向けた
必然的な「方便」だったが、
ネット時代には集団性において
「作者の死」が到来する時代が自然にやってくるだろう。
現状、その適性を見分けるために
連詩などに従事しているかどうかが
やはりひとつの目安となる。

そういうことでいえば
「作者の来歴」が語られることは
実際は反動的だともいえる。

映画においてはすでに「作者の死」が
多面的に実現されてしまっているが、
そのうち最も戦略的・能産的なのは
松江哲明などが推進する「託し撮り」だろう。

そこでは俳優と監督の役割重複が
まずは現象されているが、
「映画」の作品成立性からすると
それは根幹をゆるがす激震部分なのだった。

音楽におけるコラボレーションなども
いまやこの文脈で推進されなければならないだろう。
 
 

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2011年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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