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自己確認メモ3 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

自己確認メモ3のページです。

自己確認メモ3

 
 
音素とはなにかを指摘するのはむずかしい。
そこには数量的に還元されるリズムに属するものがある一方で
音色やハーモニーに拡大されるものがある。
それはかならずしも頭韻などに限定されない。
というか、音素における数量と質は離反的で
数量を展引し拡散しべつの数量性への変成がなるとき
その音素も完成された音素となる、というべきなのかもしれない。

たとえば映画やTVドラマではたぶん開巻の数ショットで
これが観るに値する作品かどうかという「判断」が起きる。
その基準の最初はむろん対象がどのように対象化されているかだろうが、
ショット内の音素もそれに同時にかかわる。

それは劇伴的な音では決してない。
音は対象のうごきのなかにむしろ刻まれているのだが
そこに数値と、それを数値以外の識閾に伸ばす質を同時にみてしまうのだ。
編集されたものにかかわる、それは必然だとおもう。

詩においては「ゆっくり読ます」才能、というものがあるだろう。
たとえば昨日読んだ粕谷栄市『遠い川』では
記述の理路いがいに句読点と段落わけが有効に作用していた。

改行詩で出だしから「ゆっくり読ます」才能を感じるのは
たとえば高階杞一さんのものだろうか。
そうした時間の緩慢さのなかで
意味や把握の異変が起こるとき
高階型の詩篇の貴重性と再読誘惑性をおもう。
それ自体に遅れる何か--
高階詩においてはそれこそが官能的に読解される。

詩の音素は連打されて
アレグロになろうとする。
それを発語の刻々にリタルダントに引き止めるものがあって
意味上ならそれは「隙間」をつくることに集約されるだろうが、
同時にそこには音素のリズムに還元されないもうひとつの本質、
つまり音色がふかく機能している。

ぼくなどはそのアレグロとリタルダントの点滅によって
詩的時間を一行のさなかで延引しようという気味もあるが、
延引はとうぜん物理上は一定量の世界を
視覚イメージとはちがう領域へと現出させる。

その現出のない、息急ききった詩が読めない、ということであって、
息切れしないことの重要性は
対象化と音素を同時にもつ映画の「ショット」などからも
掘り当てられるものだ。

映画ではなにがうごいているかが問題となる。
風かひかりか、もっと微細なものなのか。
こうしたものが音素となるが、
それがショットの視覚性を阻害して、
そこに一種の混交体ができる。
矛盾撞着するようだが、
それこそが「観るに値するもの」なのだとおもう。

詩にはむろん音素が型として露出しているものがある。
短歌俳句などの定型がそれで、
たとえば口語短歌が黙読に親和的なのは、
個々の作品の皮膜に、その定型性をも読んでしまうためだろう。

むろんそれでは個々の短歌が個性化しない。
そこに次元のことなる音素が介在する必要がある。
それがじつは、短歌的構文における
意味と音による遅延効果だといえそうだ。

ゆっくりと響かせる何か。
それは不透明な物質性ともかかわっている。
つまりは「身体」とよぶべきものなのかもしれない。

ところでことばの連なりがもつ音素を
試練にかける手段がべつにある。
(先メロによる)歌詞創作だ。

そのような条件の歌詞創作は
メロディにあらかじめ成立している数量的音素性に
寄り添うことだけでは決して実現できない。
歌詞のなかに「自らの発声を遅らせるもの」、
つまり単純な時間性にあらがう空間性を組織して
それでことばのひびきの、新たな時間性が練磨されねばならない。

メロディの「感情」に
歌詞の「感情」を相即させる、というだけでは不充分だろう。

速まろうとするリズムと
遅れようとする「歌詞の音色」、
このふたつの葛藤があったうえで
そこに歌手の歌声、つまり身体が宿ることになる。

すごく抽象的な言い方だが、
実際はこの抽象性があるから
法則がフォーク系歌手にもラッパーにも適用できることになる。
 
 

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2011年02月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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