自己確認メモ4 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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自己確認メモ4

 
 
詩行詩句内に意味結節上の「単位」があるとするなら
それは畢竟、「AはBである」の認識連鎖、
ということになるのかもしれない。

それらは上にしるした構文で単純にしるされるほか
直喩、暗喩でもしめされるだろうし、
あるいは短い結節であれば「同格」提示だってある。

さらには短歌的喩でもまた
断裂によって併置された2パートをスパークさせるときに
「AはBである」が内在されている、といえる。

《灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ》
(岡井隆『斉唱』)。

この歌ではBパートが「亡びんとする」以下となるが、
「恋愛」をひっくりかえした「愛恋」も
「哀憐」と音がおなじで
じつはここにも隠れた「イコール」があるのではないか。

短歌的喩をこのように
吉本隆明的に断裂前後パートのスパークとかんがえるなら
それこそが「換喩」とも換言できるだろう。

つまりAパートもBパートもスパークを予定されるかぎり
あきらかにそれぞれが「部分」なのだが
上の岡井の歌のように形のうえでは
AとBとの足し算で「全体」が招来されているようにみえても
そこでは部分の総和が全体になっていない齟齬も
かんじられるためだ。

それでおもう。
けっきょくフレーズとは「部分の露出」で、
それは全体の影を志向しつつも
「部分」が眼前をとおりすぎる際の速度だけを現出させるのだと。
詩の不可知性とは詩の構造上の問題なのだ。

部分の総和が全体にいたらない齟齬とは
そこに一種の磁力が露出されているということでもあるだろう。
この磁力の原因がけっきょく
フレーズ自体の物質性に帰されるという判断が生ずるなら
詩はまさにその瞬時性と齟齬感によってこそ詩性を獲得するのだ。

このことは難解な散文詩でも人口に膾炙しやすい改行詩でもおなじで、
巧拙が判断されるポイントも
そうした「部分の露出性」にあるといえるが
肝要なのはそうなるためには
詩篇全体が「構造化」されている必要がある、ということだ。
つまり「構造化」とはまずは部分に分布をほどこす空間化であって
しかもその分布は詩である以上
声によってつなげられなければならない。

つまり詩が表現形式として高度なのは、
構造化にたいしさらに強圧をかんじさせる
上部があるということだ。
そうした上部こそが「詩魂」とか「声」とか「身体」とかとよばれる。

銘記されなければならないのは、
詩行詩句が換喩上の「部分」となっている構造の詩篇においては
それら「部分」が齟齬的な同格性を保持しつづけたまま
奔流をくりかえすということだろう。

そうした構造となって
「AはBである」が
発語構造のみえない部分をささえる梁になる。
それで或る声の空間性が認識論的構築物を形づくる転位が生ずる。

ということは詩は、二重性の細部が、
つぎつぎ多重的に到来してくる、
そのありようそのものを指す、と結語できるかもしれない。

そうなったとき詩であることの同定範囲も拡張される。
たとえば音楽にも、映画にも。
 
 

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2011年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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