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【DJ授業報告2】太田裕美から始まる・下 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

【DJ授業報告2】太田裕美から始まる・下のページです。

【DJ授業報告2】太田裕美から始まる・下

(承前)

⑤太田裕美「しあわせ未満」

筒美先生は、フォーク(ニューミュジック)隆盛のこの時代、
ご自分の煌びやかな作曲能力をどのように「縮減」なさるかで
数々のご苦労をなさったとおもう。
相手がナンセンスゆえになんでもアリの郷ひろみならいいのだ。
ハードロックメロも、お得意の和調メロも
意想外の文脈で、簡単に連接ができてしまう。
荒井由実などの例外はあるが(あ、小坂明子だっていた!)
ニューミュージック・メロは音符上の音の飛躍が小さく膠着的。
いかにも手許のギターやピアノで安直につくりました風の曲が多く、
ただしそのメロのチマチマが「味」だったりもする。
人は、お尻が痒いと嬉しい、という面があったりするのだ(笑)。

で、太田裕美プロジェクト班も、
「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」の連続ヒットののち、
太田裕美=フォーク調のイメージを磐石にするため
この「チマチマ」を一層強固にした。それがこの曲。
となれば、プロジェクト内の作詞家・松本隆も、
当然、当時の「同棲世代」の残り火を
灰かき混ぜて空気吹き込みふたたび熾んにしようとする。
で、実に破壊的な同棲男の造型をつくってしまった(笑)。

太田裕美にマニッシュな装いをさせると倒錯的エロが出現する、と、
とうに気づいていたプロジェクト班は、
この曲で太田裕美を完全な男歌(男が主体のまま、
その一人称の位置からのみで歌が終始してしまう)に挑ませた。
それが実にセコく情けない男だったから、いやんなっちゃう。
歌詞をちょいと引こう。

20才まえぼくに逢わなきゃ
君だって違った人生
(第一聯冒頭)

はにかみやさん ぼくの心の
あばら屋に住む君が哀しい
しあわせ未満 しあわせ未満
あー君は連[つ]いてくるんだね
(第二聯=サビメロ部分)

わあ、メチャメチャに70年代の匂いがしてくる。
こんなもん聴いていては人間がダメになってしまいそうだ(笑)。
「心の/あばら屋」が喩としても浮いていて笑えるのだが、
この同棲カップル、暮らし向きがじっさい安定していない。
《あどけない君の背中が/部屋代のノックに怯える》といった
嘉村礒多的(リアリズム)ディテールだってあるのだ。
いがらしゆみこ的「あたしってドジ♪」な「きゃわいい」キャラが
貧乏神、無精髭、先行き不安の男との「お手近愛」の毒牙にかかった。
ここでは実に70年代的な悲惨が唄われているとおもう。
君たちのパパママはどうですか?

歌の主体である男は恬然と恥じない。
コイツは人間を「ついている奴/いない奴」「陽のあたる人/かげの人」
と類型二分しているのだが、
自分こそを「ツキのない」「影おとこ」にたえず分類し、
生活向上の努力すらなおざりに、居直ってやがるのだ。
ああ、こんな男に裕美ちゃん、イカれちゃって・・
と紫がかった溜息まで出そうになる
(男歌の語る「君」の位置に女歌手が代入されてゆく二重構造)。
いったいフォーク風とはいえ、これほど情けない野郎が
歌の主体になっていいものだろうか、と義憤すら感じてしまうのだが、
それをシラッとやりのけている松本隆の歌詞も実に破壊的で
それゆえにすごく可笑的なのだ、とおもいなおす。
しっかし、太田裕美、えらくヘンな匂いをこすりつけられているなあ。

⑥レナード・コーエン「チェルシー・ホテル♯2」
(『名作集』より/三浦久訳)

「しあわせ未満」(ああ、実はこの「ひらがな+漢字」の表記が痒い
――「さとう珠緒」「さとう宗幸」とかロクなことがない)の最終聯に

はにかみやさん 面喰いなのに
もてないぼくを何故選んだの

というキモチ悪い「居直り歌詞」が出てきて、アッとなる。
愛の強調効果があるとはいえ
こりゃ、レナード・コーエンの畢生の名曲、
「チェルシー・ホテル♯2」歌詞細部からのズラシじゃないか。

おまえは美男子が好きだと何度も言った
でも僕には特別にしてくれたものだ

そう、僕の記憶でも、この「しあわせ未満」のちょっと前に
来日公演を機にしたレナード・コーエン・ブームがあったとおもう。
「(ニュー・)ミュージック・マガジン」が特集し、ライヴ評とともに、
来日同行記をたぶん訳詞の三浦久が書いていた記憶がある。

じゃ、「チェルシー・ホテル♯2」が
同棲カップルのチマチマ歌かというと全然ちがう。
《チェルシー・ホテルのおまえをよく憶えているよ》の唄いだし。
だんだんと「二人」が像を結び、関係性もわかってくる。
「おまえ」は歌を仕事にして有名だった。
「おまえ」は黒リムジンでチェルシー・ホテルに乗り付けていた。
「おまえ」は麻薬注射をし、「ぼく」とセックスをした。
だが「おまえ」は「群衆に背を向けて」「去った」・・

「おまえ」は決定的に憂鬱な言葉を放つ。
We are ugly, but we have the music
(私たちって醜い、でもいいじゃないの、音楽があるんだから)

この「おまえ」が誰かは
僕らの世代からその10歳上程度までは知っているだろう。
そう、ジャニス・ジョプリンだ
(荒井晴彦の映画『身も心も』でも言及されていた)。

歌のディテールの細部からジャニスの面影が揺曳してくる。
このジャニスが麻薬摂取過多の吐瀉事故で落命する「その後」を前提に
「かつてあった面影」が唄われ、聴き手がさらに沈鬱へと導かれる。
レナードのほうは「68年当時」なら、歌手デビューはしていたが
むしろ『嘆きの壁』のカナダ人小説家として著名だったろう。
むろんロック界のビッグネームなどとは釣り合いがとれない。
なのに二人は「寝た」――なぜそうなったのかといえば、
ジャニスは・誰とでも・寝た・からだ。

チェルシー・ホテルは、ニューヨークにある。
種別を問わないアーティストが泊まる、自由精神の場所で、
最終的にはシド&ナンシーの伝説までもが付随してくる。
晶文社から以前、ホテルそのものを主体にしたような
小説体の年代記、その名も『チェルシー・ホテル』が刊行されていた。

ともあれ、レナードのこの曲は僕にとっての沈鬱な曲ベスト3に入る。
スリーコードにマイナー中心コードが入るだけの作曲だが
レナードの低く沈鬱でダンディな声がよく、
フワーッと「遠くに」「薄く」入るホーン群も素晴らしい。
何よりも「像」の刻々みえだす歌詞が歌曲史上の最高峰だろう。

⑦太田裕美「九月の雨」

当然、フォーク的チマさを前面に押し出した「しあわせ未満」は
セールス的に逼塞してしまう。
とうとう柳の下に泥鰌が全匹いなくなってしまった。
ならここらで裕美ちゃんにフォーク圏から脱出してもらって
エレガントな「女」になってもらわなくちゃ。
きらびやかなニューミュージック圏への満を持した参入。
で、いきなり都会ギャルの悋気へと飛んでしまう(飛躍が過ぎるぜ)。

歌詞を引用しまくるのも気が引けるので
シチュエーションを砕いて書こう。

女には自分が恋仲だと信じている男がいる。
勤めがハネてラブコールをした(当時だから公衆電話だ)。
電話に出た男の背後で若い女の嬌声。気が気でない。
矢も楯もたまらなくなって、女はタクシー内の人となる。
運転手に男の住所を告げる。外は暮れて、九月の銀の雨。
雨は秋の完全到来を告げるようにひたすら冷たく、
女の躯も雨に濡れ震えている。バックミラーに女の蒼褪めた顔。
フロントグラスをせわしなく往還するワイパー。
街や対向車ライトからの光も乱反射し、女の苛立ちをつよめてゆく。
気を鎮めようとすれば、男との「よかった日々」の記憶が蘇るだけ。
ますます自分が追い込まれてゆくのに
タクシーはその律儀な走行をやめやしない――

ハイ、ここでクイズを出しました(笑)。
女の職業は何で、男の住所はどこでしょう? と。
ヒントはタクシーが途中通った「公園通り」(歌詞中にある)だけ。
僕は自信満々に正答を述べた。

「公園通り」といえば渋谷です。
ならば女の職業も世間的に「尻軽」で通っているデパガに決まっている。
たぶん西武系デパート。
大卒で最初は店の「販促」に配属されたが、のち、靴売場に配転された。
クリエイティヴではなかったからだ。
男とは販促時代、知り合った。カッコつけた美大系野郎。
ならば、男の職業はモチ、商業デザイナーだ。
店内装飾、チラシデザイン、なんでもござれの全方位イケイケ業界人。
この男、女がちょっと可愛かったので、「食べた」んだねえ

当然、男の職業がデザイナーであれば住所も代々木上原と相場が決まる。
これは女がおもわずタクシーを拾ってしまったことからも読める。
女は一刻も早く男のマンションに行き、男の浮気の真偽を確かめたい。
なら普通は時間に狂いのない電車を使う。雨の日の交通渋滞もある。
それを押してでもタクシー利用しかない「もどかしい場所」――
それが渋谷にとっての代々木上原ではないか。ハイ、もう明らかですね。
なぜなら渋谷から下北沢乗換えでも新宿乗換えでも
上原への電車経路は三角形の二辺を辿らざるをえない。
その「三角の二辺」が三角関係イメージとバッティングするから
女はとりわけ癪なのだ(笑)。
タクシーは当時の料金で1000円程度だったろう。
大した散財ではないはずだが、雨天渋滞でタクシーのメーターは
もう1400円程度まで上がっている。この赤い数字すら憎い。
ここまで「見えてて」当然ですね、この「九月の雨」は――

「太田裕美=フォーク路線売り」の縛りが解けて
もう筒美先生、水を得た魚のように持ち前の作曲能力を
フルオープンになさった。
自ら「九月の雨」を浴びられて、御「水光り」なさった。
あとは「神」の道を歩むのみ。Aメロの、先生的な和調。
そして「September rain rain」以下Bメロの鮮やかすぎる展開。
もう「掴むの」「泣けるの」なんのって(笑)。
Bメロの収束のさせかたなど先生の鬼神ぶりが100%開示でした。

問題はこの歌が太田裕美のキャラに合っているかどうかだが、
そんなこたぁどうでもよろしい(笑)。
びんびんに「九月の雨」が聴き手の肌を濡らし、
嬉しいほどに体温が下がってきちゃうのだから。
ともあれ、70年代の「雨」ソングのなかでは
三善英史「雨」、八神純子「Purple Rain」と三璧、でしょう。

⑧宇多田ヒカル「Automatic」(『FIRST LOVE』より)

詳細な「Automatic」論は
拙著『椎名林檎vsJポップ』に収録されている。
なのでここでは割愛。
一応、ポイントだけ押さえておこう。
要はコンピュータ世代の「恋する身体」の変貌が唄われている。
電話のコールで、きみの微笑みで、
「オートマティックに」(自動的に)恋情が点火されてしまうわたし。
わたしは愛のロボット。カタカタ。
得恋の歓びよりもロボット的身体の哀しみが前面化するから
この歌は90年代後半、国民的なヒットとなったのだ。

で、驚くべきは冒頭からの紫色のファンキィを突き破る、
《It’s automatic》以降=サビメロの、
まったく筒美先生ゆずりのマイナーメロ展開力だろう。
最初に聴いたとき俺は、わーん筒美先生だようと
もう泣けて泣けて(笑)。
つまり⑦-⑧は「筒美先生つながり」。
講義では曲をうやむやにかけ、ここらあたりを強調してみせた。

⑨太田裕美「ドール」

太田裕美のテクノ歌謡。イントロがピコピコしている。
ドール=(愛の)ロボット、という見切り。
そう、⑧-⑨は「ロボットつながり」だった。
ただ、メロの感覚は、
「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」時代に戻っている。
太田裕美のセールスがこの時期、ますます翳ってきて、
「初心復帰」がたぶんコンセプトだった。
だから「赤いハイヒール」由来の「童謡」イメージも盛られる。
曲は短調。

まずは歌詞を砕いたシチュエーション説明から。

男と女は横浜暮らし。中古マンション程度ではないか。
結婚を望まないまま同棲を長くつづけてもう倦怠期。
口喧嘩のひとつもすれば、男は出ていって一晩帰ってこない。
女は飾り窓風にした窓にもたせかけている人形を見る。
小さな頃はあんな人形によく話しかけたものだわ。
人形が訊くの、「大きくなったら何になる?」って。「花嫁よ」。
純真だった頃の自分を思い返すと、もう涙がとまらない。
いつしかその「人形」に「私」の位置が仮託される――

ままごと遊びの日は帰らない
横浜生まれのセルロイド
心が無いからセルロイド
名字も変えずに暮らした部屋で
涙で瞳が青く染まった
Doll Doll Doll よこはま・どーる

「よこはま・どーる」という表記にかなりの問題があるが、
ここはまあ不問にしておこう(笑)。

舌津智之さんも『どうにもとまらない歌謡曲』で指摘しているが、
当然、歌の下地は童謡(題名忘れた)。唄いだしは以下だった。
《青い目をしたお人形は/アメリカ生まれのセルロイド》。
アメリカ→横浜、の転換があって
この人形が歌の主体に移り(映り)、その歌の主体にも異変が訪れる。
《涙で瞳が青く染まった》。
この「青」の一字が心を凍らせる。松本隆、手練だなあ。

この歌、2番以降は歌詞の着想が尽きてしまった感がある。
恋の幸福だった頃を、「フォーク用語」で回想し、
湿潤に歌世界が浸りすぎる感があって、取れないのだ。
「横浜」という舞台をもっと真摯に追いつめるべきだった。

女は本牧あたりに暮らしているのではないか。
港町=水兵の歓楽地なら、娼婦の居住率も高いだろう。
ただし女は「高級」の部類に入るのではないか。
男はむろん下っ端のスジ者。管轄するバーを定期的に見てゆくだけ。
いまでいえば、「黒服」だ。この男が女と相手を橋渡ししている。
――とでもいうような設定を加算すれば、
かたちだけの美男、心のない男に「性搾取」される女の、
「階級的」悲哀がそこに現れたはずだ。
「港町の女」がたんなるOLであっては歌もつまらないものね。

⑩ダミア「人の気も知らないで」
(『シャンソン・コレクション1500 ダミア』より)

これも聴けば最大限の憂鬱に陥る歌。
ヨーロッパ的短調メロに語りかけ、朗誦するような
ダミアの「演劇的」唱法が乗っている。

あんたはある夜、私に体を与えた
そう、けれどあんたの心はくれない

唄いだしはこのようにはじまる。
むくわれない恋を呪われて唄う女。
快楽だけしか求めない相手の男についに女は内心で呟く。
「あんたは愛するすべを知らない」
「春と一緒に行っておしまい」。
訣別。だがそこにいたる前の次の一節が肺腑を抉ってしまう――

私は魂を求めている
あんたの大きな眼の底に。
魂だ、それなのに、青い色しか見えないのだ

そう、ここで松本隆が太田裕美「ドール」に配した、
《涙で瞳が青く染まった》と「青」が自他の合わせ鏡のように一致し
憂鬱が凍結状に確定してしまう。

なるほど「人の気も知らないで」ではその歌詞世界に
港町をしるす縁語が一切出てこない。
それでも僕はここでの女が港(マルセイユ)の娼婦で、
絶縁を誓われる美丈夫が若い水夫だと直観してしまう。
その瞳が青で、その青も地中海の水面を移し(映し)、
変貌が停まってしまったからだとおもうためだ。

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2007年11月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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