三角みづ紀ユニットライヴ
当夜の三角みづ紀ユニットは
みづ紀のほかに岩見継吾(b)と井谷享志(ds)。
アルバム『悪いことしたでしょうか』のレギュラーだ。
まずみづ紀を舞台に迎えるためのプレリュードが奏でられる。
だんだん激しくなる好戦的なフリージャズ。
とりわけ丸顔、鬚面の岩見は
コントラバスをはじく指の力がつよく、
スラーでフレーズを「太く唄う」。
演奏が沸騰してくると
フレット上の左指が(下に)のぼりつめていって
その指とはじく指、双方が混乱を演ずるように
弦とボディをパーカッヴに叩きだす。
そこからものすごく細分的・散乱的なフレーズが出る。
その奏法の迫力を
最初は抑制的に叩いていたドラムスが倍化する。
丹田に音が浸み込んでゆく。
その音がぐしゃぐしゃ眼前で炸裂する。
全体が「帯」になって白熱のうちに演奏が終わり、いきなり大拍手。
その拍手に乗じて
舞台手前のどこかに待機し、
気配を消していた三角みづ紀が
ステージの高台にフッと跳びのぼった。
それでステージの向かって右端という彼女の位置がキープされる。
ぼくの位置からはみづ紀は横顔。髪は後ろに束ねられている。
一枚の黒い布を全身に巻きつけたようにみえるロングドレスだ。
むろん巫女的ないでたちだが、
みづ紀はやや猫背に上体をかがめ、
からだをあたかも演奏音の目盛りを大きく見積もったように
スローモーションを感じさせるうごきでゆらしている。
ずっと瞑目。左手にマイクをもち
右手を最晩年の大野一雄のように前方上に浮かばせて
こちらは全身とはちがい、
伴奏音の目盛りを小さく見積もったようにゆらされている。
音の粒にあふれた空中からなにかの信号をつかもうと
手がそれ自身を踊っているのだ。
その手になぜか盲目性の印象をかんじる。
全体的にその存在感が浮遊的。
しかし声が飛び出すと、アルバム『悪いことしたでしょうか』中の
「恩寵」「ヘモグロビンが降ってくる」などは
一種、最短距離で「時代の符牒」を帯びることにもなる。
「大人の女」のように丸め込まれた声がひらひら浮遊し、
歌詞のもつ逼迫した不吉さにたいして自己統御を果たす。
声から女だけのもつ懐かしい世間知があふれだす。
イントネーションとスラーのかるさが共通するな、と
浅川マキをおもった途端、最短距離でみづ紀は
60年代アングラの圏域とのスパークで、文化記号的に輝きだす。
不安定のようで、そうでない。これがまず当夜の第一の発見。
演奏はほぼ40分になるだろう長丁場のあいだ
ほぼノンストップだった。
岩見も井谷も楽譜台を置き折々はコードや小節数など
演奏パターンの確認をしていたようだが、
みづ紀の各楽曲をいきなり接合するのではなく、
その間奏までも楽曲の一部として完全構築している。
そういう土台があって瞑目で手を踊らせているみづ紀が
間歇的に歌唱者のポジションに参入してくる。
このとき当夜の対バン者がみづ紀のリスペクトしてやまない
遠藤ミチロウだったことがあって
ミチロウ作のポップな抒情曲がこのユニットなりにカバーされた。
「Just like a woman」ならぬ「Just like a boy」。
青空の下、もう失われたかもしれない少年の純真が
ノスタルジーを伴った晴朗な歌詞で唄われる。
歌のなかで瞑目的浮遊のまま、みづ紀は「少年になる」。
「少年になる」ということはみづ紀の場合、
「少女の声になる」ということだ。
声のゆらめきの位相が変わる。
存在の多元性の位置が一挙に確保されて、
みづ紀は要約できない瞬間のつながりになってゆく。
「不安定のようで、そうではない」という直前におぼえた印象が
「このよわさはかぎりなくつよい」というさらなる反転性をくわえる。
そういう不穏な肉体が、それでも「瞑目的浮遊」を保っていて
それは暴発を抑圧する「体の檻」にあえいでいるようにも見え出す。
この二重性による自己緊縛が「少女精神」なのだが
かんがえてみるとそれは、ステージ上のあらゆる音が
みづ紀の脳髄を一旦経由して現前化されている二重性でもある。
コントラバスとドラムスの肉体のつよさと、
みづ紀の脳髄内の音のひそけさとが
互角に釣り合っていると捉えた途端、
このユニットの「音の発語の秘密」が
理解にいたったようにもおもえた。
いずれにせよ、ミチロウに領導された
「少女の声」が契機だったのだろう、
この日、最も音群の塊が大きい朗読パートでも
「少女の声」がキープされた。
コントラバスとドラムスの演奏音がミニマルになるなかで
朗読というか、ちいさな、放浪的な朗誦がはじまる。
《母はウサギでした/父はウサギでした》――
ぼくの虚弱な記憶力をたどると出だしはこうだった。
「父も」ではなく「父は」がポイント。
つまり語られる家族は連絡文脈を欠いた峻厳な個別性で語られる。
つづく「妹は」「弟は」(だったかな)もおなじ。
そのなかで祖母からもたらされた水滴を受ける
奇怪なニンジンがみづ紀自身に擬されてゆく。
あきらかに民話的語りなのだが、
民話的な因果が破砕・減殺されている。
民話に寄ろうとする心根が
自己疎外を受けてそこから受苦がうまれる。
みづ紀の場合、唄う悦びと受苦は不即不離で、
そこから男性客も女性客もエロスを感じるだろうが、
それはいわば構造的な
「何物かへの」「接近不能」から規定されている。
これを簡単な体感形容に還元すれば「切ない」ということになる。
詩の朗誦は演奏音の下支えを受けて、
間歇を挟みつつどこまでも続く。
おそらく聯単位にルフランもなされイメージの流産が防がれる。
朗誦された詩篇はみづ紀の既存詩集には見当たらなかった。
もしかすると「詩手帖」連載の連詩の一回分かもしれないが
「詩手帖」は散在状態で平積みになっていて、いま探しだせない。
音がミニマルになっていって、みづ紀の朗誦のほんの一部に
明らかにメロディが伴われるような変化が生じ「アッ」となる。
もうとうに、音程の指針をしめすベース音が消えていて、
そこから詩をメロディに乗せるみづ紀には
絶対音感があるのではないか。
その証拠に、コントラバスが演奏復帰したとき
調性には狂いや段差がなかった。
ユニットの音全体をみづ紀自身が「脳髄化」している、
その真髄のみえた小さな一瞬だった。
この朗読パートの演奏には暴力的な沸騰が起こった一連があった。
ドラムを叩くのをやめていた井谷がドラムセット前にうずくまっている。
背後に薄い大判の金属箔というか金属板のようなものがあって
やがてこれを彼はくしゃくしゃにし、踏みしめ、叩きつけはじめた。
おそろしいノイズ。しかも制御性を剥奪されたノイズ。
全体がみづ紀によって「脳髄化」されているユニットだと前述したが
この瞬間に起こっていたのは
そういうみづ紀の脳髄への、愛着にみちた破壊だろう。
詩の朗誦の伴奏が自然に『悪いことしたでしょうか』必殺の名曲、
「カナシヤル」の前奏に移行してゆく。
そのすこし前あたりから
瞑目を保っていたみづ紀の眼がひらかれていたとおもう。
脳髄に金属音をあふれさせてポセイドンが目覚めた、という感慨。
みず紀はいわば音場の「正中線」に
自分の歌唱を、今度は覚醒感覚をもって押し出してゆく。
その「押し出し」はやがて自己内の斥力に複雑に包まれてゆく。
「一様ではないこと」がみづ紀の法則なのだから当然だ。
結果生まれだしたのが、「情」「情のつよさ」。
ラスト、《カナシヤル しゃくやくの花/とても死ぬ きれいね》という
バラードの転調後のうつくしいメロディと歌詞を
みづ紀の「少女の声」が絞り出すように繰り返すとき
なにか「女性性の諸段階の抹消=宇宙化」につうじる事態が
起こっているようにもおもえた。
そういう境地へこそみづ紀はおのれを賭けようとしている。
次元のちがうものを眼前にしている感動。
みづ紀の「情」にも促され、目頭がどんどん熱くなってゆく。
曲が終了して、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
ミチロウさん目当てで来ただろう客をもみづ紀は完全にさらった。
三角みづ紀は歌がうまくなった。
声に多彩がともりだし、それで情が伝わりやすくなった。
彼女に眠っていた絶対音感が、伴奏者の音によって訓育され
歌唱がより精密になってきたということだろう。
生きにくさの痕跡をしめしていたR音の弱点ももう消えていた。
素晴らしいライヴだった。下北沢three、2011.3.8。
それをつよくつたえるため
対バン相手だった見汐麻衣(埋火)、遠藤ミチロウの素晴らしさの言及は
ここでは割愛することにする。
みづ紀さん、素晴らしい「言葉と音」をどうもありがとう。