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久谷雉・ふたつの祝婚歌の ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

久谷雉・ふたつの祝婚歌ののページです。

久谷雉・ふたつの祝婚歌の

『昼も夜も』で天才少年詩人の称号をほしいままにした久谷雉は
以後その真摯さゆえに「詩の状況」にからげられながら、
「現在の詩にないもの」を、自作をもって検証しようとしていた。
それはなにか――「抒情」だ。
「きみ」に語りかける詩。そこに恋情の屈曲をも潜ませる詩。
この「抒情」をめぐり
同世代の中尾太一と陣地争奪が起こっているといった詩壇の内部事情は、
いつもながら僕にとって興味の対象とならないので整理を割愛する。

久谷がやろうとしていることは誤解を招く筋合のものかもしれない。
まずは、「新しい抒情」成立のため、ひかりを詩篇に招こうとする。
もっというと、ひかりによって詩行の流れを希釈させようとする。
うすくなること。かろやかになること。
それは詩の女性化、あるいはJポップ化という印象も付帯させてしまう
(「ね」「かな」「――なんだ」「――なのさ」という語尾を
久谷は屈託なく、というより確信犯的に、用いている。
その「うすあまさ」をどう処理するかで、読み手の立場も決まってしまう。
むろんそれは単純に詩の読者獲得のために貢献するともいえるが)。

ひかりの増大は、詩語をとうぜん「ひらがな」へとも傾斜させてゆく。

ここまでなら、戦略は無謀か浅慮といわれるかもしれない。
たぶん、そこに久谷のもうひとつの資質「不決断」がからむ。
久谷はそれを自覚している。
そう、久谷詩の美点のひとつは、屈折した文を行わけしてゆくことで
行の運び(文節連関)に新規感と意外性とを相盛り、
詩の技術を「喩」に集約させまい、とする意志を感じさせることだ。
ところがそれは彼が文尾を動詞終止形でズバリと切れずに
新たな節を一文の前後に呼び込んでしまうことと表裏だともいえる。
そうした逡巡の身体性がじつは僕にはおもしろい。
その実際のたたずまいを知っている、という点もあるだろうが。

ただしこの点は彼の詩の理解で大きくものをいうのかもしれない。
たとえば彼の詩には
「市場」「ふるさと」「馬小屋」「むらまつり」といった
「農民詩人」的語彙がふと混入してくる。
これは、彼の実家が北埼玉でプチトマトを生産していると知らなければ
一種、策謀的な「語彙の演技」と現在では捉えられてしまうかもしれない。
そういった「困難」を、彼は自分の真実を犠牲にすることで回避しない。
ここにはたしかな決断性がある。
それでも彼の詩行は、不決断によって屈折してゆく。ややこしい(笑)。
まあ、二重性の詩作者ということなのだろう。



可愛い彼のたたずまいをおもいえがくことで、少し悪戯をしてみるか。
詩集にはタイトルどおり巻頭・巻末の「ふたつの祝婚歌」に挟まれて
二十四の抒情詩が8×3の構成で端正に収録されているのだが
(『ふたつの祝婚歌のあいだに書かれた二十四の詩』というタイトルは
構成についての表示であって、内容についてのそれではない――
それで第一義的には久谷の「非説明」が感じられ、
第二義的には久谷の上述のような「不決断」が印象されるだろう)、
その23番目の詩は、久谷の「不決断」を捌き、僕なりに枝葉をとれば
以下のように集約されてしまう(元詩は詩集82-83頁を参照して下さい)。

●「ある愉しみ」

数をうごかす淋しさを
恋とは呼ぶまい

あなたは静かにばらばらになる
あたたかな蜜で
ありつづけるだろう

あいさつが形へもどる



僕がここでした6行の試みは男性性を決断力によって付与することだが
久谷の実際の詩はこの元枠に枝葉がついて総計20行となった。
お喋りな現代的「語調」が詩想の静かさを壊しているとおもう。
同時に「あなた」の性質を形容するための「虫」への詩想も
この試みで僕はバッサリと切ってしまった。
それでも詩の根幹が伝わるとおもったからだ。

不決断により、付属物がついてしまうという例を
もう一篇、「おとむらい」の終結聯からしめしてみよう。

通夜があけた朝は
ひまわりの林にみんなで集まって
時間をかけて歯をみがいた
みがき粉の泡であふりかえりそうな口をあけたまま
わたしはおびえた
ひまわりの種のかたまりの上で
みごもったやもりが後足をあげるけはいに



ひまわりの群生地に「林」という形容が相応しいのかという留保はあるが、
三行目までの詩行の流れは素晴らしい。
僕の大好きな「みんな」の用例があるのだ。
その「みんな」を定着するため通常の詩人の生理なら
四行目以下をバッサリ切ってしまうだろう。

ちなみにいうと、終結聯にいたる「*」分割前の詩篇本体では
「おとむらい」の光景が民俗的な記述で峻厳に炙りだされている。
生者-死者の合間をさらなる死者が訪問する呼吸が感じられ
だから民俗的な「恐怖」もすでに充分、活写されている。
それでいうと、終結聯が3行目で終われば
その忌み明けの振舞に普遍的なユーモアが漂っただろう。
ところが残り四行を付けたことで
久谷は現代的・実存的恐怖まで接木してしまったのではないか。
「詩の添削教室」なら「蛇足」と指弾される瑕といえる。
あなたは・不決断に・すぎる・のよ。



とまあ、小言爺さんみたいな物言いを繰り広げてしまった。
最初に悪癖をつけば、あとに良癖をいったとき
文勢がぐわん、と跳ねあがる、とおもったためだ(暴言多謝)。

たとえばひかりがあふれ、しかもそれが沈みだす時間を
田園の景物とともに叙した「あめあがり」には
極上の空気が流れている。その「空気」自体が抒情なのだ。
抒情と叙景の弁別が消えること。
それは、喩的修辞と、彼の心のなかに現れた光景の順序との
弁別が消えることとも等価だとおもう。
したがってこの詩に「技術誇示」を見て取る感性は誤っている。
この「あめあがり」は久谷自身の脳裡に訪れた恩寵だということだ。

【あめあがり】(全篇引用)

きのうの雨風で
梅もつばきもあらかた散って
市場へのみちは
ほんのりと あかるくなった

草木の檻にまぎれて
煙草をのまされている動物の
あまい呼吸も
でんしんばしらにこうべをあてて
地下水のゆらぎを測っている
男の背骨ののびちぢみも

あっというまに平等に
まぶしい網となって
ぼくの時間を未来から
まるめてゆく

あたまを切り落とされた鶏や
掘りたてのねぎのたぐいを
うばぐるまにどっさり積んで
市場のほうからあるいてくる誰かが

うずくまるかたちのまま
もとにもどれなくなった時間に
なんべんも
つまづきそうになっている
地球のふくらみに
足をとられたような歓びを
顔いっぱいに
うかべて



最終聯2行目「時間」に
重たくなるはずの形容節が「ほぐされて」ついていて
時間はそのように立派な冠をかむっている。
最終聯の隠された主語は「ぼく」ということでいいだろう。
つまり「誰か」とは「ぼく」なのだ。
土地=地球のふくらみと一体化する主体が幸福というのは普遍真理。
一見「屈曲」を感じさせても、それが直截に唄われ清清しい。
その最終聯に現れている時間が「ひかりのまぶしい網」の時間から
すでに黄昏へと傾斜していると僕は取ったのだが。
ならば、この詩の主語は、「農村部を一日歩いた時間」でもあるだろう。

「煙草をのむ」「こうべ」など古風な語彙が眼を奪う。
典拠は西脇かもしれない。
「掘りたてのねぎ」の白さが目を打つ。深谷葱だろう。
《夢の世に葱をつくりて寂しさよ》(永田耕衣)。
ただ「あたまを切り落とされた鶏」では
僕はジュネ脚本の映画『マドモアゼル』の冒頭を聯想した。
となれば、ここがアンダルシアの僻村であってもいいのだ。
というか、世界は周縁部によってこそ「平等に」つながっている。



ひらがなで詩に光のみちる端的な例は
冒頭に飾られたu夫妻に捧げる第一祝婚歌に現れている
(この詩篇が詩集全体にあたえる印象浸潤の効果は大きい)。
ただ、ひらがなによって「肉のひかり」を表してしまった
もっと意欲的な作品に読者が出会うこともできる。
この詩で僕は涙ぐんでしまった。
なぜこんな女の夜明けの、
同衾者への感慨が「僕のように」久谷にわかるんだろう。
読まれるとおり、感慨はちいさい。ちいさいゆえにそれが致死的なのだ
(この詩は久谷の詩が女性化したときの最大振幅をしめしている)。

【ふくらみ】(全篇)

どうやら
あたしのちぶさよりも
ひとまわりちいさななにかを
さがしているらしい

おのれのちぶさに
おのれのくびをうずめるようにして
ねむるふりにいそしむあたしを
かたほうのうでで
かくまいながら

おとこは
あいているほうのうでで
ねむりのひきだしをあけて
あたしにはみえない
あけがたのふくらみと
おうせをしようとこころみる

おふろばでひとりきり
うすべにいろにひかるまたぐらを
からだをむりやりおりまげて
のぞきこもうとした
おさないひの
しずけさのようなものが

おうせのさなかの
おとこのきんにくから
しとしとしぼりだされて
ああ
うすくひらいたあたしのまなこを
すすいでゆく



ここでは「肉」はひらがなによって白くひかりつつ
肉本体の闇のひかりもまた同時に分泌されている。
「あたし」の股間の亀裂の、うすい鮭肉色。
その亀裂が最後には「まなこ」に移る。
この経緯-移行に、治癒不能の死がある。
死の例証として、現在に、過去の自己身体記憶が混入してくる。
傍らで「眠る男」は、そのしずかで戦慄的な葛藤を一切知らない。

詩集にはふたつ、散文体の詩篇も収録されていて、
どちらもが素晴らしい。

「もすくわ」では「オリガ」と表記されるべきところ
「(折り、が)」と書かれる何物かがモスクワ近郊の家庭内を
意地悪に、悪戯っぽく跳梁する。
それは一家の娘によって「オリガ」と名づけられた人形か
ペットの類いだとおもうのだが、結局、結論が出ない。
このことによって、(折り、が)がカフカのオドラテクに似てしまう。

「浅倉」は「浅倉」という男の実名が現れる、
日記体、日別の、女の告白体詩篇。構成的。
むろん「浅倉」という文字が無媒介に跳梁することに驚愕する。
このうち十月十三日の日記部分のみ、全体が括弧くくりになっている。
この部分、太宰「女生徒」の文体模写じゃないだろうか。
ひととひとの躯の位置関係を幾何学的罠によって描写する作法は
上述「ふくらみ」と実は相似関係にある――詩篇が放つ哀しみも。



久谷雉はいずれにせよ、要約に適さない「混合体」だ。
ただ彼は技巧派だの「じじむさい」だのと乱暴な要約を受けるだろう。
僕はけれどもその「混合」の一部には同世代から下の世代に向けて
「情」の質そのものを発信しようとする鋭気をみる。
ここで最良のかたちで久谷の詩がありうべきJポップ詞に似るのだ。
ただ、そこには意外に友部正人の現在的ずらしがあるのかもしれない。
最後にそうしたフレーズを列挙的に抜き出し、転記打ちして、
この「あかるく」「しずかに」「かなしい」詩集への評言を終えよう。

《はだかの女のかたわらで/性器でも こころでもないものに/
なることだって/むずかしくはない》(「返事」)

《旅先のちいさな市場で/ふるい帽子をぬすまれてから/
ぼくはなぜか 晩年というものについて/考えるようになった》(「晩年」)

《にんげんが/からだだけで歩けてしまうことが/
けさはなんだか無性にかなしい》(「泡かもしれない」)

《たましいを/しまっておくには/すこしふくらみすぎて/
いやしないか》(「あくび」)

《ぼくのひふにもはらわたにも/加速してゆくところなんて/
どこにもみあたらないのにね》(「地下鉄を降りてから」)

《ぼくたちがこの町じゅうの草花や/こおろぎたちをまきぞえにして/
ようやく棄てることのできた尻尾のおおきさに/
かれらもいつかはおびえるのだろう》(「ほのかに明るくなるほかに」)

《ひかりとためいきのまざりものを/どっしりと実らせた枝の下で/
顔を洗っているうちに/一日が終わってしまうようなことさえも/
かんたんに起こるようになった》(「誕生日」)

《ぼくが今日書かなかった詩が/紫かがった雲のむこうに/
透けてみえる/こんぶのように/ふがいなくゆらいで》
(「今日は一日靴を磨いていた」)

これらはみな、行儀の悪さを矯められ、音数を揃えられて
Jポップの歌詞になることを希求する孤独なフレーズ群だとおもう。
こういう詩を書く久谷がいちばん久谷なのではないか。
ならば彼は、松本秀文のような「サブカル詩人」なのだ、端正だけど。
僕は集中「大人になれば」が最もJポップ的な詩だとおもった。
これは詩集を実際に買われる読者のため、出し惜しみをしておこう。

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2007年11月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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