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三村京子の「ラララ」を突破口にして ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

三村京子の「ラララ」を突破口にしてのページです。

三村京子の「ラララ」を突破口にして

 
 
次回の「四囲」の特集は「歌詞」。
それで三村京子さんのつくった、
メロディと単純な演奏だけでつくられた音源五つ
(音声は「ラララ」で表現される)の、
その「ラララ」部分に対応する(を埋める)歌詞を
同人みんなと八柳李花さんとでつくろうということになった。

いわば競作並列形式ということになるが、
同じ素材からつくった歌詞が並ぶことで
それぞれの歌詞論の「偏差」もしめされる--
というのが、特集の意義という共通理解があっただろう
(ちなみにいうと、これはぼくの企画ではない)。

それでその音源の提供を地震前、三村さんから受けていた。
五曲でよいべきところ十曲、「ラララ音源」をつくったので
特集用にどれがいいかを示唆してほしい、ということだった。
ところがそれを二曲ていど残して(ただし多くの注文つき)、
跳ね除けてしまった
(判断が遅れてしまったのは、地震でぼくの日常が変化し、
三村さんの音源に向かう気持がよわくなってしまったためだ)。

跳ね除けたのはなぜか、というのがこの日記の話題で、
三村さんへの批判の意図はない。
以下の話は通用性のたかい、表現論になるとおもう。



三村さんの提出してきた「ラララ音源」は
いうなればマニエリスティックだった。
どれも曲想が際立っておらず、ぼんやりしている。
それなのにそこに「ラララ」が多言に載っている。

たとえば四小節単位の展開(コードとメロディ)に
定着力がない。
だから構成がAメロ、Bメロといった複層性をもっていたとしても、
層が加算されてゆくことに注意が向かわない。

総じていうなら、霧のように茫洋としている。
それはつくられたそれぞれに「創意」の痕跡がないということだ。
音的な「創意」を(翻訳して)言語的「創意」を対応させるのが
いわば先メロ作詞の骨法なのだから
三村さんのつくった「ラララ」の土台は
作詞を喚起する土台としてのテイをなしていないともいえる。

これを別言するとどうなるか。
メロディは記憶に作用する時間上の「形」だ。
形象とは人体をかんがえてみただけで自明なように、
「とどまらせる力」--つまり感覚への「遅さ」だ。
「遅さ」を「ふかさ」と交差させるのが歌の基本だとおもう。

三村さんのつくったものは
速さだけで構成されていて(多言性がその証拠)、
みずからの進行をみずからの身体に差し戻す
遅さがないのだった。

遅さとは「宿り」の場所だ。
下痢的な流出、流動が尊ばれてもいいのは
歌のない演奏やラップに類するもののみであって
「遅さ」のない歌は自らを疎外する

(ただしラップでは曲展開の反復性が必要になる
--むろんその反復性が「遅さ」を組織する--
いっぽう三村さんの「ラララ」は
空間恐怖的な「埋め尽くし」が時間軸上にあって
それが構成上はメロ分節の複層性に結実しているのだが、
あるはずの反復がほとんど反復とはみえないために、
言葉が介入する糸口まで消されているのだった--
まるで半端に消しゴムかけされた音楽、に聴える
--造型自覚がよわいのだともいえる)。

その「ラララ」にもし適確にことばが載ったとしても
ことばは適確なマニエラにしかならないから
それを唄う三村さん自身が消しゴムかけされてしまう。

遅さとは情感が宿る場所であって、
宿りの場は歌が現実化する段階では
当該性をもつ身体にしかならない。
唄うからだは、唄うさなかで唄うからだに歌を再帰させる。

その再帰性の運動が「遅さ」でもあって、
聴衆は曲/歌そのものを聴くまえに
そうした再帰性を聴いている。
注意すべきはこの再帰性は
けっして情感と分離できないということだ。
情感こそが再帰するからだ。

マニエリスティックというのは楽曲の要素にあった。
コードが複雑か否かというのは表面的なことで、
むしろ単純なコード展開に「ラララ」のメロディが載るときの
音発想の「決断」「飛躍」「伸び」がないのだった。
そこでは音程差のないメロがふるえるように組織され
多言化しているだけで
音程の飛躍がないからメロに感情を呼び込む、
つまり感情を吸引する「穴」がない。

メロは、一音がつぎの一音を呼び込む予定性、
もしくは通過性のなかにいつもあって
だからそれが連節状態では幸福なのに
一音状態では孤立性の不幸だという
メロの単純な二重性を呼び込む。

二重性はむろん軋みとなるのだが、
その軋みが今回の三村さんの「ラララ」にはないのだった。

つるりとすること。平滑さ。
穴のあいていないこと。つまり女ではないこと。
これらが何の現象かというと、
「遅さ」が予定するあらゆるもの、
再帰、穴、飛躍抵抗、反復、宿り、とどまり、身体、形象、
これらが流出してしまっている、ということだろう。

その証拠に小節連鎖を分節化するブレスが
「ラララ」作曲のなかに作曲要素として組み込まれていない。
ジョン・レノンやルー・リードならありえないことだ。
それは俳句にいう「切れ」のことで
「切れ」があって音粒の、イメージ形象の定着が生ずる。
「呼吸の呼吸性が弱い」三村さんの不安定さ、身体的不明性、乱脈が
まるまる露出してしまっている。

ぼくは三村さんにいま陥っている困難を打開するために、
コード進行が単純でも
その土台にメロが創意的に載ったことでメロの飛躍が起こり、
その飛躍部分に情感が載る曲を聞きなおせ、といった。

例をあげればディランの「アイ・スルー・イット・オール・アウェイ」や
岡林の「愛する人へ」など。
マイナー/メジャーの3コードの
定番ではなく創意ある単純交錯だけがこれらにあるが、
問題はメロの飛躍があったときに感情の濃厚化が生じている点だ。
そういう土台、「ラララ」が作曲されなければならない。

コードは単純でいい。反復のあったほうが形象もつかみやすい。
その例として出したのはUAの「ミルクティ」と
ザ・バンドの「ホーボー・ジャングル」だった。
後者はCを主調にすればC→Em→Am→Fmの反復しかなく、
その作曲能力もFm使用に哀悼的情感が籠められる点にしかない。

前者の基本はF→C→D→Fm→Cの反復。
これは「眠たさの抒情性」のコード進行だ(とぼくは捉える)。
作曲能力はコード変化のタイミングが歌とギターでずれる点と
Bメロが微熱だったAメロの体温上昇として出てくる点だろう。

三村さんが誤ったのは
マニエリスティックな曲調(冴えていることが必要だ)に
マニエラの歌詞が載っていいのは
ギター奏法などを誇る自分の小曲だけであって
「他者」の歌詞介入がある場合は
メロディを伸ばし、音程差を歌詞感情のよりどころにするような
「他者へのひらき」が必要だということを忘れた点だった。

他者配慮がうすい、ということだ。
つまり自分が非人称的な媒質となること、
力の源泉となることが忘れられたのだった。

それらのことを三村さんにつたえた。
彼女は閉塞を打開することだろう。
じつはこの課題は大した難題ではない。
彼女自身が「岸辺のうた」や「空の茜」を
調子のいいときどう唄っていたかを
おもいだせばいいことだからだ。

さて、じつは三村さんの今回の「ラララ」の弱点は
多くの現代詩の弱点とそっくりだという点、お気づきだろうか。

「ラララ」音源は作詞者のことばを呼び込む。
詩は読者のこころに反響を呼び込む。
歌唱も詩作も再帰性の段階が精髄で、
その再帰性の秘密にふれるために
作者(歌手/詩作者)の声や手のなか、
つまり身体へと入ってゆくしかない。

身体のない詩は、社会のない詩だ。
そうなるとたとえば「震災詩」の立証も
社会性をもつことのまえに
「からだがある」、ということに現れる。

からだとこころがここでは重視されているが
情緒論なり心情論なりの必要が説かれているわけではない。
むしろからだとこころを作用域にした
反響的唯物論、もしくは唯物論的反響が視野に入っているだけだ。
それ自体は「機械」的なもの。

いまは空回りがそそのかされている時間だが、
打開策はいつも自己身体の再帰的注視にあるだろう、
むろんナルシズムではなく。
ナルシズムならそれは精確な視線をもたない。
ナルシスの女なら自分の陰毛の雑草性も把握できない。
 
 

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2011年04月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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