自粛ムードについて ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

自粛ムードについてのページです。

自粛ムードについて

 
 
いまあたりをおおいはじめた、自粛ムードにたいし
賛同するか反意をしめすかといった論議を目にするにつき
ふとおもいだされるのが、
ベンヤミン『ゲーテの『親和力』について』の最後にしるされた、
うつくしい、しかも謎にみちた次の一文だ。

《ただ希望なき人びとのためにのみ、
希望はぼくらにあたえられている。》

この文が「謎」を発散するのは、
限定辞と主文の関係にみられるようにズレがあるためだ。 
しかもどこかに気風継続の気概も籠められている。

現在、東京で過ごすひとの眼前には
計画停電の不安や一部商品の不足以外は、
ただ平穏な徴候があふれているとおもう
(液状化被災地は別にして)。

ところがその「眼前」には距離を保証されたかたちとはいえ
TVで見聞できる映像もあって、
それらが具体的災厄から避難生活の苦難へと大勢をすりかえても
そこでは「哀悼」にただうながされる徴候もみちあふれている。

人間は悲劇的対象をミメーシス(模倣)するときに
宗教的経験にしたがえば
本来なら自己縮減にではなく自己拡張に向かうものだが、
その動きが自他(彼我)の落差の冷静な自覚のために
どうしようもなく疎外されているというのが
高度情報化社会の必然というべきなのかもしれない。

「彼ら」をおもう(哀悼する)という心情を保持したまま
被災の渦中にいなければ仕事なり何なり
とりあえず(たとえば節電努力をしたまま)
自分の「日常」を貫徹するのが通常の当為だ、という言い方がある。
あるいは自粛が蔓延すると経済的沈滞が加速し、
被災地復興に向けての活力も結果的にそがれる、という言い方もある。

むろんこれらの言い方は一面の真理を言い当てているだろうが、
ここでの自己拡張の主張は功利主義的な次元を出ていない気もする。
彼我のズレが計測されていても、
そのズレが「我」の側にのみ回収されすぎていて、
〈「我」と「彼」のズレ〉そのものを哀悼し
その哀悼を希望にもふれさせることで、
さらに〈「我」と「彼」〉をまるごと拡張させる、といった、
先に引用したベンヤミン的な信念を
欠落させているようにみえるのだ。

すごく難しい「差異」をもちだした気もする。
ならばここで視点をさらに付加してみよう。
そのときチラリと話題に持ち出したなかでは
「ミメーシス」にさらに照準が当てられることになる。

はじまった復興報道のなかで感動にみちびかれるものがあるとすれば、
そこに「複合性のしるし」があるものが多いと気づくはずだ。

たとえば姉妹都市の関係にあるものが独自の努力で
被災地に救援物資を移送した。
これは機能不全を繰り返している国にたいし
局所と局所が複雑な線でつながれてゆく「複合」といえる。

避難所そのものがただの受難や疎外の場所ではなく
被災対策の司令部、避難所、自主講座的学校の「複合的」機能を備え、
限定空間なのにそれが町と見分けがつかなくなったという報道もある。

あるいは壊滅的になった港に最低限の浚渫作業が施されるや
関東を中心とした漁業従事者がその港に自分たちの船を入れ、
そこから救援物資を運んだというときには
平滑空間である海に複合的な海路が開かれだしたことを意味する。

さらには壊滅した町は次は被災対策を講じて復興されるだろうが、
そのデザインと写真にのこされた往年の町並みが
一律的な行政指導に従うことなく「複合」されるべきだという
議論もすでに生じつつある。

そのときに、地方格差に塗りこめられ
高齢化にもぬりこめられていたたとえば往年の三陸に
新しい是正が「複合」されなければならない、
というのも当然だろう。

要するに、あたらしい幸福のかたちが
復興を機に「複合」されるわけだが、
となると物質的欲望に彩られただけの旧来の幸福も
複合的な変化をもとめられているということになる。

哀悼を保持したまま被災地の動性への模倣がおこなわるとき
もとめられているのは哀悼を模倣する、という再帰性ではなく、
兆し始めた複合性を模倣するという発展性のほうではないか。
この発展性には、
自粛/脱自粛の二元論を超える運動性がデザインされている。

被災地に救援物資がわずかながら行きわたりはじめたとき
風呂も満足に入れず、温かい食事も満足にとれない段階の被災者が
家人や隣人の喪失についての気持をようやく建て直し、
それで缶ビールを被災後はじめて手にして、
ようやくビールを呑める気持になってきたとにこやかに笑ったのが
ぼくにはつよく印象にのこっている。

被災地のひとがビールを飲みだす、
心情の複合性を獲得しだしたのだ。
彼らを哀悼するなら、
その最新形の心情が模倣されなければならない。
被災地のひとのなかで、
そのような自己拡張の契機をつかんだひとが
すでに(部分的かもしれないが)いるのだから。

被災地の復興開始、というニュースの通奏低音をなしているのは
彼らには濃厚な地縁社会がのこっていて
その社会が特有にもつ弾力性が復興の潤滑剤になっている点だ。
これもまた「模倣」されなければならない。

自粛/脱自粛の二元論がどこか空疎なのは、
自粛派が被災地を悲劇と疎外の地とのみ見なし、
非弾力的な視線を注ぎつづける一方で、
脱自粛派が自粛派への反発からのみ自己を定位していて
結局は「何を思い込むのか」というだけの
硬直した認識の対立になっているためではないだろうか。
被災地にではじめた「弾力性」を自分たちにも組織するなら、
自粛/脱自粛のどちらかに
自分たちを塗りこめることなどできない。

一見、脱自粛に傾いている意見ととられそうだが、そうではない。
つまり幸福の型と地縁性の、
自分たちにおいての見直しも要請されている、という点では
物質性を謳歌するような脱自粛行為も到底できない、ということだ。

むろん被災地のひとは不便をしいられていて、
その不便を模倣することも当為に近い場所に位置づけられる。
今年、東京で夜桜見物できない不便など
被災地のひとの不便に較べれば何ほどのことだろう。

同時に被災地も桜の季節になれば
人びとは復興作業のなかで桜をふと見やるはずだ。
そのように時々で変化する人間の行為を
「弾力的に」模倣すべきだということだろう。
そうした弾力性の実現のためには
被災地報道の一元性を批判し、
それを具体相へと想像しかえるようなリテラシーが必要になる。

結果的にいうと試されているのはリテラシーなのだ。
このときにズレと複合の、
ふたつの異なる圏域があきらかになり、
ズレの意義、複合の意義もあきらかになる。
ベンヤミンの一文はそういう意義のうえに立っている。

そうなってたとえばAC広告の画一性・抽象性などが
まず批判されなければならないだろう。
あれは民主党と代理店の共同作業だろうが、
AC広告のメッセージは、被災地に自分の身を代入するだけで
単純すぎるとすぐにわかるはずだ。

とりあえずあのAC広告が自粛を拡大する元凶で、
しかも民主党の震災復興失政の実質を隠蔽するものだ。

だから地縁を生かしながら都民などは
自粛ムードにあらがい、しかも「しずしずと」
民主党批判の飲み屋談義をして
売り上げ減に悲鳴をあげている飲み屋さんを救済すべきだろう。

そのときに反原発談義もするといい。
それが弾力的に、自己拡張的に生きることだ。そうおもう

始めのほうの文脈にもどると
非被災者は「日常」を貫徹するのではない。
むしろ「変化」を呼び込むための次の一歩を
これを機会につくりあげるようなことが
考えられてもいいのではないか
 
 

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2011年04月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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