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バンちゃんについて ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

バンちゃんについてのページです。

バンちゃんについて

 
  
4月1日海上保安庁が救出した東日本大震災の津波で宮城県気仙沼市の沖合約1.8キロを漂流していた犬が、4日飼い主さんと再会することができました。
名前はバンちゃん♀2歳。
津波に襲われ住宅の屋根の残骸の上で3週間漂流して生き延びることができ飼い主さんに再会できて本当によかったです。



とまあ、こういう「心温まる」ニュースがあって
これが寓喩となるのはどんな点からだろうか。

1)孤立の意義

バンちゃんは「たった一匹」で漂流をつづけた。

いっぽう犬にかんしてはもうひとつ、
東日本大震災で大きなニュースがあった。
福島第一原発の半径30キロ内の「同心円」地域で
避難のために泣く泣く飼い主たちが手放した犬たちが
次第に「群れ」をなして野犬化し、
当地にまだ居住する人たちを噛むなど、
狼藉を働きだしたというニュースだ。

狼が起源である犬の本質は群れをなすこと。
この「群れであること」で本来の血が呼びもどされると
犬は多様体の意志となって
みずからを脱領土化させ、
大地という平滑空間に自在に逃走線を引き始めることになる。

野犬たちのボスが何者かという問いは成立しない。
犬の群れ全体がボスで、
犬は群れであることで多様性をはらむ全体になる。
そこにあるのはひたすら動物的な命脈だ
(これは被災地の人びとの
地縁をもとにした相互扶助的「群集」性とはまったく別だ)。

このときに「活力」は群れの成分の相互反射によって生まれ
大地には犬の集団のかたちをしたつむじ風ができる。
となればペット化されたことで犬の何が縮減されていたか、
それを悟らせるこのニュースは「畏怖」の文脈で捉えられる。

他方、ふりかえると「バンちゃん」は
ずっと海上に孤立し、群れとなる機会を清潔に奪われていた。
だから人間にたいする郷愁と憧憬を保持しつづけた。
海上保安庁の船員が「バンちゃん」を
瓦礫から引き上げた際の映像にも
「バンちゃん」の人間にたいする親和性がみてとれ
そこからは「人間化したもの」、「人間の顔貌をもつもの」のもつ
本質的な融和力が感じられた。

2)転用の意義

「バンちゃん」の生物的叡智は、
おそらく引き波、押し波という複雑なうごきをもつ津波に対抗して
瓦礫の浮遊物という、身を置くべき回避場所を見出し、
それを舟、あるいは自分の住居とまでした転用力にあらわで、
しかも住居に住まう方法は
第一には身体バランスの保持にしかなかっただろう。
生存神経はたぶん生じていた睡眠の時間でも発動された。

瓦礫は文字通り瓦礫だ。それはマイナス物の集積にすぎない。
被災地報道は瓦礫がアスベストを中心とした粉塵、
さらに病原菌腐敗によっていかに屍毒化し、
それが新たな脅威となりつつあるかをいま告げている。

つまり「バンちゃん」の海上の宿は害毒で構成されながらも
それが逆転的に命を保持する場所として「転用」された、
という図式が顧みられなければならない。

最も厳しい想像は「バンちゃん」がなぜ
三週間もの海上浮遊を生き延びたのかという点を
問い詰めることから招来される。

まず海水はあまり呑まなかったろう。
それは実際には飢えを招く。
そう判断したのは動物的本能によるかもしれない。

つまり「バンちゃん」は1でしめしたように、
孤立をつうじ野犬化する道を防がれながら
しかも動物性を保持する、という二重性を生きつづけたわけだ。

驚くべきことだろうか。
ちがう。それはよく考えるとペットの通常性にすぎない。
ペットはもともと孤立状態であることでペットなのだ。

バンちゃんはむろん人間ではないのだから
「ひかりごけ」『野火』の問題系など生じない。
つまり何によって栄養補給をしたのかと問えば、
浮遊する人間の死体もその対象になっただろうという
想像が自然に頭をもたげてくるが、
その内容はむしろ暗部をもつ動物性の奥行きとして
尊厳化されなければならない。

動物にはその動物特有の「生存系」が奥深く印刷されていて
それは人間と同型でありつつ同型でない。
こういう多様性の突出が、動物への畏怖と愛着を生じさせる。
そう、この点こそが、この寓喩の産物として捉えられなければならない。

3)「物語に似たもの」の意義

カフカ的寓喩ならば物語は存在しないか
あるいは謎を最終産出するための方便にしかすぎない。
カフカだけが物語を外在化させる「線」を物語にもちいず
すべてを閉域へと内化して
そのなかの動物的生成を脈動としてつたえる。

それは構成素が他の構成素とむすびつくだけの運動だ。
そこでは余剰が遮断されて、
それ自体の構成素の瞬間的現前しか問題にならない。
経緯、推移だけが対象化されるという点では純粋音楽に似ているし、
教訓、要約可能性などのメタレベルが成立しない点では
それは小説の形式が借用されながらも小説から遠いものだ。

漂流犬の発見という第一報段階では
たぶん飼い主は津波に流されて行方不明なのではないか
という悲観論が取り巻いたが、
バンちゃんはそれに風穴をあけた。
飼い主がTVで飼い犬の生存の姿を確認したのだった。

結果、飼い主との再会という次段階も呼び出されたのだが、
それははたして「物語」だろうか。
むしろこれも、無調にさまよっていた楽音連鎖が
転調をほどこされメインテーマ復帰した、というような
音楽上の「運動」にすぎないのではないだろうか。

動物に、その生気からの「音楽」を聴かなければならない。

飼い主が現れて「バンちゃん」は悦びのあまり
尻尾をちぎれるばかりに振り、
中腰の飼い主の顔あたりに跳びあがってその顔を舐める。
その振舞い(あの柴犬を基盤としたミックスという血脈がしめす
垂れた耳や口のまわりの黒さの風情!)は
たしかに「メインテーマ復帰」として感動的だが
決してそれを擬人化の文脈で捉えてはならないだろう。

みてきたとおり、
「バンちゃん」は人間的顔貌化という「作用」を分泌しつつ
たえずそれを動物性に裏打ちされた
崇高な二重性を生きているにすぎない。
そしてその二重性にこそ音楽が宿っているにすぎない。

ただしこのときに中心性が欠落しつづけるはずの寓喩に
たしかに中心性が灯り、
それが物語機能の近傍に位置づけられることになる。

「バンちゃん」はこのようにして物語に似たものの効用を告げたのだが、
注意しよう、それはけっしてことばによるものではなく、
あくまでも「仕種」によるものだった。

ともあれあれは「仕種」のもつ音的な波のうつくしさだった。

それを結末としたゆえにこそ
「バンちゃん」の漂流も称えられる。
しかしその漂流もまた、「苦難にみちた」という形容をかぶせると
ただ人間化するだけで、
「バンちゃん」から本当の尊厳が失われる点には
注意しなければならない。
  
 

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2011年04月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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