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まなポンさんのミクシィ日記に書き込んだ文 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

まなポンさんのミクシィ日記に書き込んだ文のページです。

まなポンさんのミクシィ日記に書き込んだ文

 
 
>家を流された年寄り達はそれでもまた以前と同じ場所に家を建てようと言いはじめています。
随分非合理なと思われるでしょう。しかしそれはそこが先祖代々の土地だからです。こういう場所のひとびとにとってはそれが全てだからです。

この一節にとくに感銘しました。

スッカラ菅が二度目に被災地訪問したときだったかに
官僚の言い草そのまんまで
被災地の壊滅的になった平地には漁業関連施設をつくりなおし
住宅地は高台を削って大規模な宅地化をおこなうべきだ、
とか、のたまわっていました。

これは今後は20メートルの大堤防をつくれ、同様の空論です。
一律性のみに依拠した、ブルドーザー発想だからです。
「市民運動家出身」も「国難」にたいしては想像力が乏しいから、
ただ土建屋の仕事をおもいえがいてしまう。

被災地の復興にさいして、やるべきことのあまりの多さから
(多事性のみならず、多層性、広域性もそこにかかわる)、
被災地全体を一時期国有化しろ、という暴論もありますが、
それもまた賠償額支払い不能の、東電国有化とは話の次元がちがいます。

まずは県に予算をあずけ、市町村にそれを下ろし、
市町村単位で復興デザインをおこなえるような多様性を確保すること。
往年の町並み復興論がそこで出るかもしれない。
そのとき津波対策がどうなるのか、と問われるかもしれないが、
もしかすると「わたしたちは千年ごとにほろび、
千年ごとに復興する権利がある」といった
政治性とはべつの権利意識までもがもちあがるかもしれない。

風景を喪失した痛みは当事者にしかわからない。
それを土建屋発想で一律に均すなんて、もってのほかだとおもいます。
このとき、いつもながら道路幅と消防法が悪用される。

震災復興の予算化は国の問題ですが、
復興デザインの多様性は地方自治の問題で、
東北の復興が今後何かのモデルになるとすれば、
地縁復活(マンションなど建てられてはならない)、
風景復活、質実化復活(反奢侈性)などの
国家政治とはちがう「哲学」が樹立されるときだとおもいます。

そういう「哲学」こそが応援されるべきで、
「つながろう」「あなたたちは孤立していない」などの
AC広告-芸能人-スポーツマン的な「掛け声」は
ただむなしいだけですね。それらは実際「上から目線」だし。

まなポンさんが書くように、
今回の震災では三陸などの津波被災地域と、
福島浜通りを中心にした、原発被害が如実に加わった地域が
峻別されるべきだとおもいます。

浜通りと周辺の幾つかの山村、さらに海は
百年単位で立ち入り禁止になり、
農業・林業・漁業・牧畜等が廃絶されるかもしれない。
チェルノブイリ周辺は実際いまではそのようになっていて、
そこにこそ「国有化」(避難者救済のために国が土地を買い上げ、
生業途絶を補償する)をかんがえる余地が生まれる。

「画一性」イメージが不当に蔓延したこの国ですが、
むろんそれは「中央」とTVの
傲慢な画策によるものにしかすぎませんでした。
けれども広域の立ち入り禁止地区が出現せざるをえないことで
日本の「画一性」神話が「実際に」崩れてゆく。
このときも脱中心性の政治哲学が機能をはじめなければならない。

復興をデザインすること=地域ごとの多元性をデザインすること
=「中央」の横暴を切り返すこと。

これはものすごい難題だとおもいます。
けれども克服する意義のある難題。

おもえば原発事故の処理、首相交代と大連立、被災地ごとの復興、
風評被害の停止、原発依存からの長期的転換、
増税と国債との選択困難、近隣諸国からの非難、国内外国人の流出など、
「ちょっとやそっとでたちゆかない」膠着的事態に
これほどこの国が一挙に包まれたこともなかった。

ぼくは若いひとの生き方にも変更が迫られるとおもう。
とくに自分の欲望を縮減する方向に。

で、ぼくらのような中年は
もう死んでもいい、という自意識を
いかに哲学化・行動化させるかに
今後、自分の存在意義が賭けられることになってゆく。

まあぼくは、それでこのごろ書くものが変わったんだけど。

あとは学校で話しましょう
 
 

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2011年04月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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