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ネット上に文書はどう蓄積するか ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ネット上に文書はどう蓄積するかのページです。

ネット上に文書はどう蓄積するか

 
 
あるとき心血を注いで書いたものにも、
のちのち恥しいとおもう文があるだろう。
現在時の判断は往年の熱情を通常はわらう。

ましてやそれが未熟な世界観に貫かれていたり
部分的に認識の誤謬があったり
さらには書いた当時に気づかなかった
記述上のミスが存在している場合には、
その文書を消したいとおもうことも
あるかもしれない。

それでもその文書には
作者こそがわかる「心血の痕跡」のようなものがあって、
大方はそれが精神集中の証左ともみなされる。

書いた経緯の細部を忘却し、逆に
いまは「こうは書けない」という判断も生じて、
それが自己の持続を別方向から照らし出し、
そうして結局は曖昧に自己が「存続」されることになる。
多くは自分の書いたものがそのように
自己充填的に処理されているだろう。

つまり曖昧さのなかにいる自分が肯定されるのだが、
その曖昧さとは自己注視の視線の方向が
論理的に「どの方向か」思い描けない点にこそ
起因しているのではないか。
私が私を見やる方向とは方向ではなく空気なのだ。

ところが最近、松下育男さんの「詩のブログ」で
松下さんは過去の素晴らしい文章群を
ばっさり削除してしまっていた。
きっと「自己査定」がぼくの測り知れないところで厳しいのだ。
これにはかなりの衝撃を受けている。
どういうことなのだろう、と。

ネット上の文書の蓄積を
ぼくなどは普段さほど意識しない。

たださっき久しぶりに自分の名でググってみると、
外部ブログに書いた文書にも
単独のコンテンツになっているものが多いと気づく。

それは誰かのブログなどに
リンクを貼られた文書、ということなのだろう。
必然的に「追悼記事」が多くなっていて、
それらはぼくの外部ブログ自体を入口にするのではなく
ネット上の二次使用後に流通したらしい。

結果、朝倉喬司さんや佐藤真さんの追悼記事などは
ぼくがいまみて吃驚するくらいの拍手数を獲得している。
最近では「地震後におもったこと」などが
結構、アップ時から日数が経過しても読まれているようだ。

それでネット上の文書の流通が
書いた当人にとっても不測的だという事態におもいいたる。
それは「ぼくを知ること」ではなく「検索」によってこそ
不特定者に読まれているのだ。
むろんそれがのちのち「恥しい文書」に映っても、
文書そのものが未知の読者に触れることは
「書き手冥利」に尽きる、と通常はおもわれるだろう。

しかしたぶん松下さんはそう考えなかった。
文書は理解者の心のなかに温存され、
もしかして忘れられることでこそ
本源性を獲得するのではないか。
それがネット特性にもたれかかって
半永久的にピックアップされることに
心情的に耐え切れない、ということなのだろう。

文書はもともと読む者がつくるものだ。
その外形も内容も読者の恣意性によって変化する。
この変化の可能幅をあらかじめ測定する義務のある者、
それは当然、作者だ。

そういえば松下さんは杉本真維子さんの述懐を
エピソード的に拾っていた。

自分(杉本さん)は、詩篇を書き終わって間を置き、
それを再読(音読)する。
そのとき自分の詩篇が恣意性によって読まれても
地上の誰もを傷つけないか、それを測定して、
自分の意識外でも攻撃性を発散する余地のある詩篇は
すべて捨て去ることにしている。

そのように述懐した杉本さんの態度を
松下さんは「詩手帖」の時評で絶賛していたのだった。
倫理的、と絶賛したのではないだろう。

詩篇が文書として自立性をもつためには
他者と野合してはならず、その「野合」の一環に、
無意識の攻撃性すらある、とみたのではないか
(むろんここでは悪意で書いた詩篇などは
もともと問題になっていない)

一見識だとはおもう。
しかしそれでは文書が潜在的にもっている
無方向(多方向)への連接能力が奪われてしまう。
「野合」と「連接」は、
たぶんその文書(詩篇)を書いた者が
特有的に見分けられない差異区分なのだ。

めぐりめぐってその詩篇が不測的に
特定他者を傷つけてしまったときには
作者は潔く責任を負い、
それによってその特定他者との連接を図ればいい、
ぼくなどはそうおもってしまうのだが、
それはたぶん松下さんの考える「清潔」とはちがうのだろう。
松下さんの「清潔」は「孤立」と似ているかもしれない。

ネット上に文書はどう蓄積するか。
その可能態的範囲は本当はまだわからない。
誰かがコピペして特定作者の文書を律儀にファイル化して
その思考変遷をリアルに凝視しているかもしれない。

この「まだわからない」に向けて曖昧にものを書くことと
自己注視の視線の方向的曖昧さが
それ自体似ているような気がするが、
この類似はとうぜん野合的ともいえる。
そこでは能産的な野合かどうか、
「程度」だけが問題になるということだ
 
 

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2011年04月20日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

 
【その後の書き込みから】

ネット特有の無方向連接を
松下さんなどはきらうのだとおもいます。

松下さんのブログに書かれたものの多くは
シリーズ詩篇と身辺雑記ですが、
ぼくが自分自身そうであるように
松下さんもそのふたつに弁別を設けていなかったとおもいます。

となると身辺雑記が経年劣化して
耐用日数を徒過した、だから消去する、というふうな
決意も起こらなかったとおもいます。

何か「自分の掃除」をなさったはずなのですが、
その掃除方法が残余なし、峻厳すぎて怖くなったのでした。

ネット上に文書を蓄積して
その文書に無方向の連接を曖昧に促すということは
自己運営の「積極的な曖昧性」に基づくとおもいます。

ところが、松下さんのように
一定期間でブログ中の文書すべてを消してしまうことも
もしかすると自己運営の「積極的な曖昧性」を
目指しているのかもしれません。

おなじ根から出て、
片方は文書の温存、片方は文書の全削除というふうに
なぜ方向のちがう枝が伸びるのかといえば、
ネットのアーカイヴ性にたいする信頼のちがいかとおもいます。

ぼくのほうはそれに曖昧な信頼を捧げている。
松下さんのほうは曖昧な不信任を突きつけている、ということかな。

でも松下さんもネットへ完全に不信任表明しているわけでもない。
また「詩のプログ」で近況を書き始めているのですから。

松下育男さん、不思議なひとです。
詩の達人とみなが名指すけど、
熟考ののちやわらかいことばをつむぐその製作経緯からは
還暦年齢になっても「努力のひと」だという点がわかります
 

2011年04月21日 阿部嘉昭 URL 編集












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