てらすためにあるもの ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

てらすためにあるもののページです。

てらすためにあるもの

 
 
【てらすためにあるもの】


まばたきをすると
まぶたにはちいさな
つつみができ
水とともに
おりてきた拍数で
視界がいっぱいになる
みると出窓からも
なきひとのしろい腕や星が
たくさんひるがえって
みな間奏のようだ
 
 


そういえば、ポール・ヴィリリオは
『アクシデント/事故と文明』で次のように書いていた。



実際、事故は、共有世界の実体を押しのけて、
突如として居住可能なものとなった……。
これこそ、「全面的事故」、つまり、
われわれを全体的に包含し、
ときには物理的に解体しさえする事故なのである。



上の引用のあとには次のような箇所もある。



そうした住環境からは、
「外的なもの」が突然姿を消してしまって、
「内的なもの」だけが残っている。
この内的なものとは、
ヴィクトル・ユゴーが
「外界は、自己の内側でみるべきだ」
--窒息状態の強烈な証明だ--
と説いたとき、
強く求めていたものだ。



時代は変わる。
それ以上に「視覚が変わる」。

上の詩篇はその確認だが、
語彙そのものは
ドゥルーズ+クレール・バルネ『対話』の一節から
ほぼ借用した。
 


「視覚の変貌」は
現状をおおっているのに
予感的な事態へといつも変位する。

端的にいえば、
視覚をつかさどる器官が
もはや眼ではなくなり、
完全に脳になった、
ということなのだが、

こういう極限をかんがえてみる。

自分の首が刎ねられ、宙を舞う。
そのとき頭のなくなった首の切り口が視られる。

視たのは眼か。
いや頭、
つまり脳、と直感する者が多いのではないか。

「視覚の変貌」はそんな極限性の手前にある現象だ。
手前にあるかぎりはつねに「上映」されている。
 
 

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2011年04月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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