最近、Facebookに書き込んだこと
●5月2日
「詩手帖」今号(特集・東日本大震災と向き合うために)を読了。
和合亮一さんがツイッターで展開した
「詩の礫」が一挙掲載されていて、
朝日新聞に部分紹介されたときは散文だとおもっていたが、
やはり爆発的な詩の連打だった。
《明けない夜は無い》などの
ベタなルフランが成立し許容される理由は何か。
1)当事者性(つまりは事実性)。
2)140字という制約のあるツイッター基底材を睨んだ
疲労と悲哀と怒りの切迫した連打リズム。
3)1ツイートを現在的なダウンサイズ(縮減)の方法として
完全に使いきっていること。
つまり書かれたものは震災詩である以上に
ツイッター属性に忠実なことでこそ
変成的な断章詩篇集となっていたのだった。
加藤智大が秋葉原事件の前に投稿サイトに書き込んだ
自己実況と全体が似ている。
それがじつは今日的な詩の栄誉だともおもう
●5月2日
政府が運営する震災復興会議では、
津波被災地にたいし「一律に」
津波の届かない高台を宅地造成し、
港へは住民の「通勤」を促す、
という暴論方針がいまだまかりとおっている。
「現代思想」今号によれば
スマトラ沖地震のときスリランカでは
沿岸の住宅再建を禁止した結果、零細漁民は四散、
代わりに大資本のリゾートホテルが乱立して
風景が一変してしまったという。
逆にタイの津波被災地では
漁民が政府の退去命令に服さず、
自力で元来の地域コミュニティを復活させ、
それがニューオーリンズのカトリーナ惨禍での
復興目標となったという。
費用的な面はわからないが、
元の町並みと居住を復活させつつ、
各住居に津波用の地下シェルターをつくらせるなどの
「反・高台造成」策が
建築家から出てこないものなのか。
安藤忠雄の参加、いかにもマズい
●5月3日
「つまらない」と「わからない」は
本来的には非対称的評価なのに、
評価者のなかで不気味に融合し、
対象物を疎外へと落とし込む。
けれども本当は
「つまらない」は自分の感性への評価、
「わからない」は自分の能力への評価であって、
往々にしてそういう雑駁な感想のときは
評価者のほうが
対象から疎外されていることのほうが多い。
自分自身への殺伐としたディスコミュニケーション。
そうなると「つまらない」「わからない」を
決して融合させず、
「わかるけどつまらない」か
「わからないけどおもしろい」を
まず評価の癖として立ち上げて
「わかるしおもしろい」を待望しなければならない。
さてこれらは能力についての問題なのだろうか。
ちがう。
他者についての精神の傾斜、
あるいは速度を諌めること、
ただそれだけの問題にすぎない。
自分に忙しいときは、
じつは自分が自分の敵になっていると知るべきだ
●5月3日
履修者数が多く、
配布プリントが嵩張らないよう、詩の転記打ちをした。
まずは支倉隆子さんの5詩集から精選した19詩篇を。
手に入らない詩集からのものなので、
プリントは詩の好きな学生には宝物となるだろう。
詩の勉強はいま転記打ちが基本だとおもう。
作者固有のリズム、用語、語法が身体的に伝わってくる。
同時に、この転記打ちによって、
その詩作者の良し悪しそのものまでわかってしまう。
支倉さんの転記打ちは異様に気持ちよかった。
そういえば「現代」詩は散文稀用語彙系など、
転記打ちを憚らせるものも多いなあ。
午後からは松下育男さんの転記打ち。
これも気持良さは必定
●5月4日
今クールのTVドラマでは
『犬を飼うということ』(テレ朝/金曜11:15~)と
『鈴木先生』(テレ東/月曜10:00~)の二本を
全番組精査の結果、観ている。
前者は松竹の本木克英、後者は若手の河合勇人と、
どちらも映画畑の人材がメイン演出。
結局はTVドラマでも映画と同様、
俳優にたいするカメラ位置、
1ショットの適確な単位性(別に手持ち長回しでも可)を
作品の是非判断にした、ということになる。
『犬~』は見事な古典主義、
『鈴木~』はTVという基底材にたいし批評的な創造性が何かを
それぞれ体現している
●5月5日
表現のエレガンスとは、
自らの執着している範囲や対象を、
小出しに(緩やかに)開陳してゆくことかもしれない。
好きなものの不偏向(所属領域、外観、内実もろともに)、
意外な連接、
対照をえがくものへの類推的架橋などは、
その表現者の存在している風土自体の
可塑性をも証ししてゆくが、
問題になるのは常に
好きなものが具体的に何なのかではなく、
可塑性の及ぶ範囲の大きさのほうだろう。
表現の民主制が風土と関連するのはこの地点で、
それは分割分節を旨とする
既得権益主義とは全く姿を異にする。
●5月5日
朝、ゴミ出しに下まで行ったら、
郵便受に郵送物がザクザク。
1)ネット注文していた春日武彦の集英社新書
『奇妙な情熱にかられて --ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』。
2)支倉隆子さんから「西へ。」20号。
3)潮田文(南原四郎)さんから写真集『風に吹かれて』。
4)野村喜和夫さんから詩論集『移動と律動と眩暈と』(書肆山田)。
5)小川三郎さんから「ル・ピュール」12号。
6)海埜今日子さんから「すぴんくす」14号と「hotel第2章」27号。
大賑わいで嬉しい。
「すぴんくす」は次号の原稿依頼付きだった
(当然、快諾のメールを送付しました)
※
以上、Facebookに書いた最近の記事の幾つかを
試しにミクシィ用に貼ってみました。
Facabookは近況報告、ミクシィは作品か評論の発表、
というふうに使い分けたいのだけれど、
マイミクさんにみせたい記事を
Facebookで避けることができず、
結局、ソーシャルネットワークの使い分けができていない。
これには自分の執着の多さと
媒体戦略の煮え切らなさが起因しているとはおもう。
Facebookは現在は「招待」なしに加入できる。
ぼくの名前を検索すれば、
すぐにぼくとFacebookでの「友達」になれるのでぜひ。
いずれは、ミクシィとFacebookは書き分けるつもり。
Facebookの利点はブーム到来によってか
「友達」の広がりが加速的だということだ。
しかもツイッターより多い字数が許容され、
閉鎖性にも守られている