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松下育男のように ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松下育男のようにのページです。

松下育男のように

 
 
●松下育男のように

【目】
大永 歩


おばけが
こわい

薄緑色の奇怪な顔が
窓の向こうから
こちらを
見て
いるのではないかと
ぼくは何度もふり返ってしまう

こわい
のに
見て
しまう

もし それが顔でなくて
胴だったら
脚だったら
手だったら
こんなに怯えることがあっただろうか

もし その顔が
犬だとしても
友だとしても
親だとしても
きっとぼくは肩を震わせておののくだろう

だから
ぼくも
見る







【蛇】
長谷川 明


蛇が現れて
僕の寝床をかむ
それで目を覚まして
メールを見る
君のこと好きと
書いてある
僕は
僕の金庫を見る
がっしりとした
とても立派な金庫を見る
ためいきが
出る
目を覚まして
電話に出る
君のこと好きと
言っている
見る
見る
出る
蛇が現れる







【わからなくなってきた】
荻原永璃


ただ
くもばかりながめて
くらしたかったのだけど
おもっていたより
くちはひらかなきゃあ
ならないし
みみをとじれば
おこられるし で
せけん はとっても
うるさい
はえがぶんぶんうなってる
くちからはえをだし
みみにはえをいれ
みみにはえをつっこまれ
たまらずに
くちからはえをはく
ぶんぶん
ぶんぶん
ひっきりなしに
とんでいる

あたまのうえのあれは
くもだろうか
はえだろうか
そろそろ
わからなくなってきた







【あしたのあさ】
森川光樹


ねむくなると
昼に
わらいすぎたことがわかる
ひとが多くて
やすめなかったから

ねむいぶんが
ぬすまれたぶん

それはかえらないから
次の日
みんながみんなから
「おはよう」を
ぬすむ







【満員電車】
斎田尚佳


黒いスーツの波の中
乗り込んで
呑まれる

押せば跳ね返される
人に 人

誰かがおいていった
折り目のついた
網棚の週刊少年誌
感動なんて
むわっとした湿気に
とける

ドアが開いて波がうごく
流される間際で
漫画を
網棚に放る
ぼくらが漫画をまた
読むことができるように







【ピアス】
渡邊彩恵


ひとつ
空洞をつくってみる。

始めは
わざわざ
気持ち悪いのは ごめんだった。

ふたつめ。

今じゃあ
そこかしこに
ある。

なんだか
空洞に叫んでみたくなった。
それで今
ふさがっている。







【髪】
山崎 翔


季節にあわせ
久しぶりに
自分で髪を切ることにした

鋏を
ざくり
と入れるたびに
黒くてやや脂っぽい髪の毛の
無数の
束が
床に敷かれた新聞紙へと
ぼんやりと
落ちる
落ちる
そいつらは
確かにさきほどまで
自分の

であったけれども
顔をかき集め
黒くつややかな
ひとまとまりにして
捨てる
ことには何のためらいもいらない
そんなことはもう
どうでもよくなった

ひとり
顔を洗っているとき
この手が触れているものについて
ひどく
怖れた
のはいつのことだったか





つづけて「松下育男のように」。

「支倉隆子のように」と較べ
掲出詩篇がすくなくなったのは
本質的に松下育男の詩が
やわらかく、簡単そうにみえて
「むずかしい」からだろう。

松下詩の無駄のなさは、
じつはヴィトゲンシュタインの哲学などに似ていて、
認識の本質性は
「語りえないことを削る」
思考の厳しさと境を接している。

それでいて、詩行では
「呼吸」とともに「最小の物語」も生じている。

こういうものへの参照が、学生世代にはまだ難しい。
それでも松下詩の奥底にひめられている
ゾッとするような「怜悧」が
出現している佳作が多かった。

松下育男や高階杞一の模倣は
簡単そうで難しく、
ほとんどが恥しい結果になる、とは
以前、廿楽順治さんの日記の話題にあったが、
掲出詩篇群は、そんな愚をまぬかれている。

ちなみに今朝ぼくのアップした詩篇は
支倉詩と松下詩とを
無理無理に融合する、という心意気だった
(まあ、これは蛇足)
 
 

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2011年05月12日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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