成島出・八日目の蝉について ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

成島出・八日目の蝉についてのページです。

成島出・八日目の蝉について

 
 
 
 
昨日になってようやく成島出監督『八日目の蝉』を
シネリーブル池袋で観た。
傑作だった。メモ風に感想を書いておく。

●奥寺佐渡子の脚本が時制シャッフル=パズルに巧みなのは
細田守のアニメ『サマーウォーズ』『時をかける少女』、
さらには吉田大八監督『パーマネント野ばら』などでも明らかだが、
この時制シャッフルによって「母性」が相互照射した。
シーンの隣接関係がそのまま時間性の異なる役柄、
とりわけ永作博美と井上真央を
相似形彷徨者として相照らしだしたのだった。
しかしその「母性」の運動は『瞼の母』などの純系思慕とちがい複雑。
どういうことか。

●堕胎によって子宮癒着を起こし、以後、躯が不妊の空洞になった永作が
誘拐して比較的すぐ、宿の一室で泣き叫ぶ乳児「かおる」をなだめようと
不可能性にみちた授乳を試みるシーンがある。
永作の母性は空洞だが、空洞のその空間性を
じつは母性が聖なる光のように貫通してもいる。

●敵役にちかい「かおる」の実母・森口瑤子は
その四歳時に実娘を取り戻したが、実娘の最初の自己形成期に
彼女と離れていたことで生じた違和感が消えない。
つまり母性が空振りとなり、
行き場を失うことで焦燥に変貌してしまっている哀れな類型だ
(彼女が関係を新規構築できないのは
家事が苦手でいつも部屋を片付けていない様子に暗喩されている)。
問題は娘・井上真央の違和感が森口の
方向性のちがう母性から発しているのではなく、
永作を仮想敵にして夫・田中哲司の浮気の事実すら保留してしまったこと、
その手続きの底に膨れ上がった憎悪のすさまじさのほうだった。

●とうぜん憎悪が世代伝播(リング)するのではなく、
母性こそが世代伝播されなければならないというのが
原作者・角田光代の眼目だろうが
(このリング媒質を「不充足性」にすると現在の多くの「母娘物」となる
――『ユリイカ』08年12月の拙稿参照)、
そのためにたとえば田中哲司の浮気の卑劣さにまつわる描写が
思い切って省略されることにより、
永作の誘拐から「報復」の匂いをすべてとり、
誘拐の要因を永作の
「不在でありながら実在している母性」へと見事に定着してしまった。

●「女であること」という川端康成-川島雄三的テーマはふつう
「大人の女として異性を愛すること」にイデオロジカルに昇華されるが
ここでは「徹底的に母性的主体であること」へと折り返される。
つまり「異性愛<母性」がこの作品の図式で、
よってテーマ性からいって男優の存在が「薄く」ならなければならない。
井上真央の不倫相手にして井上の妊娠に気づくことのできない劇団ひとりは
まずその下手さによって「薄い」(成瀬映画における宝田明のようだ)。
永作のかつての不倫相手・田中哲司にあっては
娘・井上真央が不倫相手の子供を宿した、子供を産み自活すると宣言するときに
包丁を井上に向ける森口を捉えるためにフレームから外されてしまう。
次に永作と「かおる」の逃亡先「小豆島」では
そうめん工場の社長・平田満が久しぶりに悪役を解除されることで薄い。
最後に『セカチュー』の写真店主と似た役割を演ずることになる田中は
幽霊のように稀薄で、老いにより緩慢であることで薄い
(彼だけが「薄さの演技」の精髄に肉薄している)。

●「情」を迸らせる女優をぶつけあう演出政策は
「薄い」男優を点景として間歇的に置く政策の裏返しでもあるが、
この男優のよわさが希釈効果となって、
映画は「情」で観客を窒息化させない。
あるいは時制シャッフルもまた
情の冷却化=「鬱陶しい情の過熱化の拒否」に効果を発揮した。
これは演出の成果なのかキャスティングの成果なのか。

●キャスティングの範例となった映画やTVドラマの
幾つかを想定することができる。
まずは菅野美穂と小池栄子が共演した『パーマネント野ばら』。
小池はたぶんそこで知った天才・菅野の「猫背」演技を今回の役柄に生かした。
ただし菅野の地面へのふわったとした立ち方は物理的にできなかったが。
つぎに菅野美穂と永作博美が共演した『曲げられない女』。
そこでの腹をつかった天才・菅野の「情の持続」「情の絞り」を
永作はこの作品でさらに増幅してみせた。
TV版『八日目の蝉』での檀れいの底の浅い「お嬢さん芸」にたいし
永作は画面に出た瞬間から「情」の分量がもうちがう。
いずれにせよ、映画で小池と永作の「出会わない」ことがつくる空間に
菅野美穂の不在、という不可思議な印象が加味されてゆく。

●もうひとつ、小池栄子は万田邦敏『接吻』から
その「左利き」を召喚されたが、
その万田のつながりで
『UNLOVED』の森口瑤子も召喚されたのだろう。
さらに田中哲司と市川実和子は園子温『夢の中へ』の共演者だが、
このふたりは時間ではなく場所がちがっていて
ともに出演していながら『八日目の蝉』では出会わない。
ゆかりの役者を時空で分断させ、そこに生ずる不在者のおもかげまで
映画が分泌しだすというのが『八日目の蝉』のキャスティング政策だった。

●いずれにせよ「女の王国」の映画だ。
これまでのその最大例は成瀬巳喜男の『流れる』だろう。
ただし近年ではより小ぶりな王国だが、前述した『パーマネント野ばら』もある。
『流れる』の火打石、『パーマネント野ばら』の大仏パーマのように
「女の王国」ではどこかに神性=仏性が必要だが、
今回は母娘をかくまうカルト教団「エンジェルホーム」
(見事に女だけの集団
=大島弓子マンガにおける、少女による単性生殖王国を想わせる)に神性が
次の母娘の逃亡先となる小豆島のお遍路さんに仏性が仕込まれている。

●その「エンジェルホーム」についてはオウムの類推が出てくるが、
信者奪還運動にたいしては「イエスの方舟」事件のディテールが盛られ、
その生活様式にかんしては農牧加工品生産の自給自足ユートピア、
つまり「ヤマギシ会」との類縁をおもわせる
(TV版では「エンジェルホーム」については
運用資金着服など余計なディテールがドラマ召喚されていて
そのぶんだけ「ヤマギシ会」との類縁が描かれていなかった)。
女が単性生殖し女児「だけ」を産んで世代継承がおこなわれてゆく
まぼろしのそうした「自足性」そのものが
農牧一体の自己円環ユートピアと喩的関係を形成するのだから
ヤマギシ会との類似は省略されてはならない。

●取材が入ると知って永作が「かおる」とともに
「エンジェルホーム」を逃げ出すとき
市川実和子が資金と逃亡先住所を入れた紙包みを永作に渡す。
このとき市川は永作にではなく「かおる」=子役のほうに
「お母さんとずっと一緒にいるのよ」という。
つまり同世代間ではなく世代継承的なメッセージをいうことで
ここでの市川が「思想的感涙」に値する。

●角田光代の原作がどうなのかは確認していないが、
井上真央に過去確認の旅を促すルポライターの卵の役が小池栄子で
TV版ではその役柄はたんなる女性ルポライターにすぎなかったが
この映画版では、小池は幼児時代、「エンジェルホーム」で
幼児時代の井上真央と一心同体のように育った一種の「同窓生」、
という「負荷」をあたえられていた。
「女の園」=「エンジェルホーム」で育ったことが原因で
以後、小池は男性恐怖症となり、処女のまま、という設定。
井上が小池の取材旅行に利用されているのではないかと疑義を表明したとき
小池は如上の告白をし、その悲痛さで泣かせる。
しかも尾鰭がつく。「わたしたち出来損ないの母親ふたりで」
井上から産まれてくる赤ん坊を「一緒に」育てよう、と
「エンジェルホーム」から(世代)継承した理念を
「正しく」表明したのだった。

●小池栄子に「エンジェルホーム」在籍という
(回想によると彼女はホームの崩壊時までいて保護されたらしい)
負荷があたえられハッとする。
ユートピア集団(=ヤマギシ会)に在籍したトラウマを自己検証し、
そのなかに幸福のかけらを探すというテーマが
小野さやかのセルフドキュメンタリー『アヒルの子』と共通するからだ。
自己告白の瞬間の小池は、『アヒルの子』の小野自身にみえた。
実際に演技設計で『アヒルの子』が参照されたのではないか。

●「母性をもつこと」は「世界のうつくしい多様性を子につたえること」と
角田光代は象徴的に表現する。
星(そこから「星の歌」は「見上げてごらん夜の星を」に規定される)が
数多くきらきらひかっていることが許容されれば
「水が多すぎて海が怖いこと」も
「海には光のきらきらがたくさんあること」へと捉え返される。
つまり「母性」とは「見立て替え」の駆動要因でもあるのだろう。

●そういうことを記憶のベールに隠されてしまっているが
幼年期の「かおる」は「育ての母」永作から教示されていた
(むろん観客は描写されたすべてを知る位置にあって
自己優位性から井上を見守りながら井上の自己不充足に「憧れる」という
いわば倒錯性を如実に体現することになる)。

●「かおる」長じて井上真央が実際に同じ風光に接して
記憶を蘇らせてゆくくだりの演出は説明科白がないためにこそ感動的だった。
それで井上の躯に「同調」して観客の記憶すらもが蘇ってゆくような
一種の「転移」が起こる。
つまり蔵原惟繕『銀座の恋の物語』での浅丘ルリ子の「記憶の蘇り」は
それが劇的すぎることで信憑性を失っていたのだった。
記憶再獲得にとって必要な美徳は「緩徐性」。
だからそこで「緩徐性の幽霊」となった田中が
井上の喪失記憶再生のための重要な媒質となる。

●メロドラマにメロドラマの呼吸をあたえないこと。
これが映画『八日目の蝉』の眼目だった。
だからTV版にあったように、
小豆島行きの遊覧船が出る岡山側の港の売店に
檀れいがいて、育てた北乃きいの来訪をむなしく待ち、
ついに北乃の小豆島行きの帰りでふたりがニアミスになって
檀が育てた幼児の成長したのちを知るというディテールがなくなる。
さて、こうしたメロドラマ的ラストシーンは原作由来なのだろうか。

●映画版では永作の現状は
五年前に写真店を訪れ、写真を引き取っていったという
田中の緩やかな科白の伝聞性のみに置き換わる。
田中はネガを残していて、井上を引き入れた暗室のなかで
その写真が「徐々に」結像してゆく。
突如、その写真像にいたった過去のわずかな時間の厚みが復元される。
こぶしで握った空気を「かおる」にうけわたす永作。
永作が涙目を、被写体の眼になんとか変えてゆき、
ようやく写真の画柄と映画の画柄が合致する。

●むろん「写真化=遺影化」とはメロドラマの定則だ。
ホ・ジノ『八月のクリスマス』でのハン・ソッキュの遺影化が典型だろう。
あれは急激な遺影化の衝撃が涙を誘ったのにたいし、
ここでは写真化は想像の範囲内で「緩やかに」おこなわれ、
しかも永作の映像が宿しているのは死者の断絶ではなく
この世のどこかにいる生者の外延的連続性のほうで
つまり「遺影化」は二重に脱臼されていたのだった。

●永作の授乳試行シーンなどとともに
物語効率の高さのなかに「緩やかさ」を仕込み
演出に音楽的な緩急をつけた成島出の手腕は讃えられてよいだろう。

●藤沢順一の撮影は、俳優の芝居をナチュラルに捉えながらも
ロングショットの構図の斬新さで息を飲ませる。
そういえば田中哲司-森口瑤子の家庭のある場所は
坂下から分譲地の大「斜面」を捉える構図でしめされ、
その構図のなかに往年の永作と現在の井上がいることで
ふたりの同質性もしめされた。

●しかしなぜ「斜面」なのか、という問題がのこったとおもう。
それがこの作品で最もうつくしい「風光」場面で解決される。
かつて小豆島の棚田斜面で
子供をかりだしての「火まつり」がおこなわれた。
その同じ「斜面」に立って、
現在の井上の幼年記憶復活のうごきが加速してゆく。
このとき斜面がつくりだす「上位」の意味が変わる。
田中哲司-森口瑤子の家が斜面の「上位」にあり、
それを成長した井上真央が疎ましくおもっても
もともと井上は永作とともに幼児期、
斜面の上位=「プラトー(高原)」にいたのだということ。
過去は存在しないのではなく、意志が否定してきたものにすぎない。
しかも憎しみの源泉とおもわれたものの正体も愛着と郷愁だった。
その反転の軸線を、まさに「斜面」が図像的につくりだしていたのだった。

●タイトル「八日目の蝉」は
井上真央と小池栄子の「対話」から招来されている。
地中から出てきた蝉が七日間を鳴いて生き抜いて
七日目に一斉に死ぬならその「一斉性」に幸福があるが
万一、取り残された「八日目の蝉」がいるなら
それは孤独で最も哀しい――最初の井上の認識はそうだった。

●ところが「八日目の蝉」は同属がすべて死滅したあとの世界を
いわば「絶景」としてみることができる、と視座が変化する。
ここでこの作品の哲学的主張がすべて合流する。
永作/森口がつくりだしていた母性と葛藤する旧世界はすべて死滅し、
「八日目の蝉」となった井上・小池の世代が
世界の破滅後を、その荒蕪さえも見立て替えで「絶景」と見、
そうして「世界を見ること」をつたえてゆくことが母性だ、と。
つまり「3.11」以後の「母性」が映画『八日目の蝉』ではいわれていたのだった。

●永作博美や小池栄子や市川実和子が、
あるいは「エンジェルホーム」の教祖・余貴美子が
「情」のつよい演技をするのはとうぜん想定内だったが、
井上真央の演技力にはびっくりした。
科白が薄い感情による棒読みのような劇団ひとりにたいしての濡れ場で
井上は劇団ひとりとの別れを決意するのだが、
「親密」を劇団ひとりにはあたえながら
その親密を藤沢のカメラの手前直前、気配で裏返してみせる。

●その井上は乳首がみえないものの
諸肌脱ぎで、地黒の肌と貧弱なプロポーションを露呈させている。
「露呈」はたぶんこの映画ででてくる「情」系列の女優たちすべての特質で
じつはそこでは「(造型)美」など何ひとつもちいられていない。
というか、「美」ではないものが「露呈」して「情」になることが
女優にはもとめられていて、井上真央もその一群に加わったのだった。
見事なのは顔の左右対称が微妙に崩れていることによって
視線対象がときに不分明になる点を
井上の演技が自覚的に利用していることだろう。

●そういう身体的「措辞」があって、
井上は身ごもっている子供を、
まだ未知の存在ながら愛してゆける確信を小池に語る。
科白をいったその瞬間に溶暗してそのままエンドロールになるという
劇性を欠く、反メロドラマ的なその終わりも見事だった。
 
 

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2011年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

 
上記につき一箇所、訂正。
映画版の小池栄子の役は
TV版でも「エンジェルホーム」の出身者だと
規定されていたそうです。
記憶が飛んでいました。

この指摘はぼくの高校時代の同級生で
いまバリバリの哲学者のひとからいただきました。
名前はあえて書きませんが
わかるひとには誰だかわかりますよね
 

2011年06月12日 阿部嘉昭 URL 編集












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