中本道代のように ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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中本道代のように

 
 
●中本道代のように


【ごみ捨場の前】
鎌田菜穂


ひるまの間をきりさく
たかいクレーンに吊られて、
灰色の作業服が何人も
ごみを積んだリヤカーを運んでくる
建物のしかくい口に入り、また出て、
世界のきれはしを集めにゆく

おととい拾った長椅子に
寝転がって
わたしは靴を放る
むこうのまっしろな空の
クレーンはあたらしく何かをつくっている
または壊している

幾度目かのシャッターをあける音で
目がさめてもなお
腐ったひるまのにおいが漂う







【かえりみち】
高橋奈緒美


車輪を停める位置は
いつも決まっていた
少女は
振り向いては
手招きし
私たちを置きざりにする

車椅子と私の散歩は
そこで終わり
帰ろう
と車椅子の上から声がする
それを発したのは誰だったか

車輪を転がし
夕焼けを閉じ込めたままの身を探しては
少女の面影につぶやく

思えば私はどこに帰るのか

振り返っても少女は見えない
奪い取った帰り道
私の家は見つかるだろうか
ひとりの足音は
車椅子の上
祖母の耳には届かないだろう







【再生】
依田冬派


はばたいている灰色の鳥が
そらに貼り付いて
やがてあめとなっておちる
純白の雲は
幼児のあしもとまで押しつぶされ
(呼吸を維持できない)

激しい雨にかき消された声たちが
みずたまりを別人の貌で通過して
     (現在を正視できない)

下水に無名をとかしながら
混じる血のいろを確かめる

私たちはやがて門に入るだろう
そのさきの領土に主はいない

       用意サレタ空白ノ
      背面ヲナゾルヨウニ
            初夏ノ
花びらを含んだ絵筆を
たぎるままに 左右 前後へと…
(植物はいつも黙っている)







【罪】
二宮莉麻


聖書を水にひたす
人の罪のインクが
空に流れ出した
星が愛を満たすとき
あどけない前髪からのぞく眼は
わたしのうるみとなる
黒いものがより一層
鮮明になり
ばらいろのあの子の頬から
色を奪った
はんかちはただ漆黒に染まる







【あなたは走りだす】
三村京子


つよい風と風が拮抗し
地上の気圧が消えるとき
あなたの蹠が炎えだす
あなたは走りだす
踏みつけた葦も葭も
すべてが焦げついてゆく
光の中を

扁平に撓められた
うすい膜に覆われた
少女の体液がつねに
底ふかくに沈殿している
強欲と聖性とが破裂している







【深淵へむかうひとへ】
中村郁子


もえぎ色の千里のむこう
ゆげの立つにごった
エメラルドの液体
地底へと
あなたはもぐっていくの?

うごきつづける火の山には
近づくことはできない
毒を吸うから

あなたは山をつくる
熱におしながされている感覚はない

こげ茶色の口からもくもくと
沸く あれは
地球の真ん中へとむかったひとの
蒸発した
からだ
なのでしょう







【遭難】
中村郁子


ぼだい樹の上の
星がかがやいても
いちにちの終わりは
変わらない

その碧の光は
遠くへと流れていく

ぼだい樹の下の
かわいた土には
生きたいと思っている
アリが
運んでいく なにか

風と雪とが刃のように
この山に舞う

星となるため
ささげましょう







【手紙】
大永 歩


背からはらへ
一気につらぬいた
ボーリング試料に
八十円切手を貼った

すきとおる試験管のなかに
皮から脊椎から川から皮までの
生命活動の飛沫が
そのままチルドされていた
なまを知る呼吸だけ黄土だった

祈るひとらは
指と指のすきまをなくしたいから
手をあわせるのだろう

海のむこうのだれかが
ああ、血圧が高いですね

咳をした







【春の嵐】
大永 歩


真夜中の嵐は
街のすべてを飲みこんで
わたしは春の嵐になった

風のむこうに
むれがあった
何者かはわからなかった

座ろうとした椅子は
どこかにとんでいった

光だけ
宙をまっていた







【白日夢】
川名佳比古


手すりの向こうの空のそこ
窓ガラスがにじみ
白日夢とつながった
空のそこはもうすでに
海のそこであるので
わたしは溺れてしまうが
烏はじっと手すりにとまり
あおくすきとおる沈黙をながめ
そのこまかな震えに身を投げるとき
鈍色の叫びが
あなたの首によりそっている







【帰途】
柏谷久美子


家までの帰り道
誰かとだれかの話声のする方へ
それだけをたよりに歩いていった

水面を見つめた人達は
自分も他人も見えない
そこで
確かに死相を見たという
飛び降りた塔は長い影をつくりはじめていた
人々は波紋を広げて消えていき
死相だけがわたしといた

気がつくと
話声は風の音に変わり
そして
大音量の無音が聞こえた
わたしは水面を覗き込む







【まわる】
荻原永璃


午前十一時の白い電車にのって
あなたは空港へ行く
海はあまりに遠かった

行方をたずねても
背後には花吹雪のみ

梔子のかおりが
やや未来の方から漂う
雨のふる肌ざわりに包まれる

あなたはくるくるまわる
二百七十四回転すると
大人になる

トゥループ
雨粒と花びら
白い足に泥が散る

回転 展開 廻天

電車の外装は花びらと飛沫である
トンネルの向こうから海は逆流する
空港の翼は開花する

あなたは遠くに行く
空港も海も透過して
水を浴び
花びらをまとい
くるくると

あなたのいない電車が
みずのしたで
まだまわり続けている







【金平糖】
斎田尚佳


淡いとげがささって
ひろがるあまい痛みがつれてゆく

水にひそめた花はかわらず
手ですくえばさらさらとこぼれて
なにもなかったようにレースを装う
まるくなる肢体は輪郭をうしなって
やがて枯れると知りながら
わたしは砂糖水をやるのだろう

かりかりとひとつずつ砕きながら
金平糖をほおばった指先は
ひろがるあまい痛みをつれてくる







【波紋】
渡邊彩恵


赫い一滴が
もたれかかる腕を這いずり
わたしを止メドモナク貪りながら
堕ちて広がる

暗い新月の夜に
かき集めようとも
既に遅く
戻れないことは明白で
むしろ、
生温かい吐息のごとく
あなたを犯していく

苔の生えた岩は
この静かな森には似つかわしくない
生臭さを漂わせ
一筋の流れを産み出し
やがては淀んだ土に
沈んでいった







【むこうの家】
森川光樹


きしんだ音を回すうち
老婆が忘れた家への
車になっていた

夜風があるので
布をかぶせた
森を抜けても
道の端の木々が
先回りする
遠ざかるあの家へ
まっすぐにむかう

そのあいだずっと
布の下で
しあわせな一日が
回り続けていた







【ezoe】
長谷川 明


眠らずに歩くことがあり
歩くうちに雨も降ってくる
藤の森に水をさがすころ
そこに棲んでいるこえを海からよぼうとして
つらなりはezoe

大陸をめざしたまなざしは
さるの形になる
物を売る女の「ezoe ezoe」という震わせに
せなの夕焼けをみていた
 
老いをみている
 
机をまわっていたころは
あちこちに刺さっていたezoe

最近
寝なくなった







【火曜日】
山崎 翔


半紙には
食べやすい言葉ばかりが並べられて
そこらの街角で風に舞っている
行き交う人たちも
点や線の滲んだ半紙を貼り付けたような顔で
笑ったり腫れあがったりしている
そのなかでも
ひときわ半紙を貼り付けたような顔の
口元が
幼い子供のような信仰をふりかざしながら
戦争でもしようか
と言っているように見えた
先端をまた尖らせて







【夢心地】
斎藤風花


息のつかいかたをおぼえたころ
彼女は骨になる

都会へでれば田舎をのぞみ
田舎へかえれば都会をのぞみ
みたされないおんなの
虚空もやはり みたされなかった

慣れ親しんだ部屋で
ヒステリックを妄想する

埃だらけのバルコニーからは
あたらしい風は入らない

できない、できる、が、できなくて
ふう、と放ったさいごの時間を
一本の灰で愛おしみ
彼女は朝もやにつつまれ
よどんだバルコニーのふもと
わかさを永遠のものとした

のこされたぬけがらは
いくらでも綺麗になれた

それでも彼女ののぞむ綺麗さには
及ばないのだろうが







【背負う名】
中川達矢


名が与えられてからは
生かされることになり
ひとらしさを求められた

すれ違う人の目から
こぼれ落ちてくる情報として
名が見当たらずに
うつむいては
うろうろしている

名札をつけないでいいと
教えてくれた先生は
存在を失った

神の模倣として
命名の快感を知るために
こどもを産む機能を
わざわざ神が
ご用意してくださった

背中で汗を吸い
はがれることを知らない
名札があることに
気がついてしまった





前回の「井坂洋子のように」につづいては
「中本道代のように」。

井坂さんが詩的手法を絢爛と合流させたメジャー詩の作者だとすると
中本さんの詩は単線で語彙を絞りこんだ清潔な峻厳さに特色がある。
ドゥルーズのいう「マイナー文学」とはちがった意味だが
(それは要約的にいえば国語のなかに別の国語をつくる文学だ)、
しずかなマイナーコードで奏でられる。

「井坂洋子のように」は井坂さんの「詩の力」に身を預ければ成立するが、
「中本道代のように」は中本的な「書かないこと」「書けないこと」を
みずからに組み込んで、
その詩作を「懐疑」することなしには到来しない。

中本さんの詩はその初期には「暗い」といわれたが
いまはその評言のみではちがう、という実感がある。
まずは「少ない」のであり、
次に、その「少なさによって淋しい」のだ。

その「淋しさ」は傍観者的な淋しさだから
井坂さんのような主体創造性からは距離がある。
ただし中本さんの「少なさ」「淋しさ」は
その凛冽さによって極上だから
「まねぶ者」は「淋しさ」を自身に装填するほかなくなる。

以上が精神上の模倣点だが
では詩法上どう「まねぶ」かというと
まずは散文性が極小幅で招致され
それが「書かないこと」で余韻を放つように
詩を設計しなければならないだろう。
そのうえで「湖=水」や「まわる」や「貌」といった
中本的語彙への参照もでてくる。

「力をもらって書け」と受講生を励起するのはたやすい。
逆に、「力の制御装置をもらい受け、自己を縮減しろ」といわれれば
「詩を書く自我」をひび割ることにもつながってゆく。
中本さんはその意味で危険な模倣対象なのだ。
だいいち学生にとっては「足りなさ」を放置するなど
からだに隙間風を入れるような不安だろう。

ところが今回も学生はぼくの意図を汲み、よく奮闘した。
まずしさを怖れなかった。
かといって江代充さんのような「透明な凝縮」によって
まずしさを代補しようともしなかった。
その「物欲しげでない」自己管理能力とは何なのだろう。

むろん男子学生には「中本道代のように」はより難題だ。
中本的「少なさ」「少なさの淋しさ」は
女性性領域に接続しているという「常識」が働くはずで、
ならば書く主体を女性化しようかという迷いも生じるだろう。

ネカマ詩の失敗は異様に恥しい。
貧弱な、もしくは驕慢な女性観までもが透けてしまうからだ。
男子学生は賢明にもそれを回避しながら
「妙な圧縮性」のなかにしずんだ。

今回も評点を--

最高点はまたもふたつ。
中村郁子さんの「深淵へむかうひとへ」と
大永歩さんの「春の嵐」。
どちらもシンプルな着想でシンプルに書き切り、
その際の「足らない」という自意識を清潔に制圧している。
そういう手つきはじつはぼくも苦手だったりする。

中村さんの詩篇は
「あなた」「火山」「マグマ」の弁別をあやうくし、
それらをすべて「あなた」と呼ぶことで
じつは「あなた」が脱臼し、
ひいては一人称も脱臼してゆく。
シンプルな構成だが、そこに伏在する「脱臼連鎖」が
「崩れ」の光景のように「淋しい」。

大永さんの詩篇は
飛翔した椅子と、その空間的顛末をしるした
措辞がさらにシンプルだ。

たとえば中本さんの「湖」の詩が印象的なら、
さらに「空」がそこに加わらなければならない、
しかもそれは「わたし」の飛翔ではなく
「わたし」を代補するものや「痕跡」の飛翔を
かたどらなければならない。
そうして椅子が飛んだ。
じつはぼくも「中本道代のように」に参加してみて
そうした大永さんの直観の正しさがよくわかる。

文法的に、中本さんの詩に最も接近し
詩的な成果をあげたのは
鎌田菜穂さんの「ごみ捨場の前」で、
これを次点としよう。

次々点は列挙的に。
高橋奈緒美「かえりみち」、
荻原永璃「まわる」、
斎田尚佳「金平糖」
 
 

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2011年06月16日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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