最近の映像の問題 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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最近の映像の問題

 
 
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是枝裕和監督『奇跡』を観る前に、
前作『空気人形』をいま鑑賞。

「命」や「こころ」につき再考を迫る
後味の淋しい作品だが、
人形愛の哲学化という点では、
押井アニメが成立している現在、
退行の印象を受けた。

ホフマン『砂男』でもリラダン『未来のイヴ』でも
何でも良いが、
「人形」に不安や奇怪な信念が取り巻いてこそ、
人形と人間のあいだに狂的な領域ができ、
人間性までもが変貌する。

そういう強度を欠いているため、
ファンタジーとこの世の平仄の未整理という、
寓意にはありえない澱も出てしまった。

富司純子以下の人間類型が、
『ワンダフルライフ』以来の「並列型」なのも、
人形愛者・板尾創路から崇高を奪ったのも、残念だった。

ぺ・ドゥナの裸身は美しく、
リー・ビンビンの撮影も流麗なものの、
それらが近隣国からの富の奪取なのも、
ポール・サイモンのかつてのアルバムをおもわせ
気にかかった。



このごろ気になるのは、
作品の前提がふかく吟味されないままに、
映画が丁寧に撮られ、俳優の名演技も呼び込み、
さらに寂寥や疎外や慙愧などまで打ち出して、
結果、一般的な「佳作」の域に綺麗に収まってしまうことだ。
それで内実と枠組のズレが印象されてしまう。

行定勲の『今度は愛妻家』についても
じつは同様のことをおもった。

日本映画の現在の衰退は、日本の文学性の衰退と、
ある一面では要約できるだろう。



行定勲『今度は愛妻家』は
じつは最近の既存映画が奇妙な同一性を組織している。

行定勲『世界の中心で、愛をさけぶ』、
成島出『八日目の蝉』、
青山真治『東京公園』(以上は喪失と写真現像のテーマ)、

黒木和雄『父と暮せば』
(『今度は』との類似点は死者が現前化する舞台劇的構造
--淵源は『あなただけ今晩は』など)。

かつて蓮実重彦が
『小説から遠く離れて』で摘出した小説の主題磁圏問題と、
共通するものをかんじるが、
最近の映画評論でそのことが指摘されているのだろうか。



死者が生者として画面に登場しまくる設定は、
青山真治『東京公園』にもあった。
三浦春馬の親友にして、
榮倉奈々の恋人だった染谷将太の扱いがそう。

それと現像と死者のテーマなら『八月のクリスマス』にもあった。
こっちは韓国版と日本版リメイクのおまけつき。

似た細部のヴァリエーションで
これほど色んな映画ができていいものか、といえば
「柳の下の二匹めの泥鰌」を狙う映画界だから
悪いともいえないのだが、
これほどウェットな設定ばかりが横行しても・・・とおもう。



『空気人形』について女房に話したら、
ぼくのいっていることがわかりにくかったようなので補足を。

要するに、ぺ・ドゥナの「人形」を
観客が観ているとおりに、
たとえばビデオ屋の岩松了やARATAも視ているのか
(そうであればじつは作劇自体がありえなくなってしまう)
という問題が惹起され、
それが「認識の差異は超えられない」という
哲学問題まで呼び入れてくる、ということだ。

そういう「不問性」をファンタジーにしてしまうことで、
実際はファンタジーにたいする
傲慢な強圧が起こっているとおもうのだが。

この問題はじつは『ワンダフルライフ』にもあった。



いうまでもないことだが、
「可視化」の局面において、
映画での写真現像のテーマと、
死者がみえることは表裏を形成する。

しかしこの映像への権力付与は
「見えないものは見えないままに消える」という
通常の現世法則をも凌駕してしまうし、
同時にその権力付与がギミックに似すぎて
逼塞感をもたらす。
 


もちろん際立った「可視化」というなら、
「人形」という性格を付加されて
映画であらわになるぺ・ドゥナの裸身を
あげなくてはならない。

「人形の人間化」という幼児的想像力に馴染むものが
「裸体の顕示」という大人の欲望と混淆され
結果、観客に潜んでいる「大人の欲望の幼児性」が
複雑な手続きで「赦免」されてゆく。
その意味では『空気人形』は高度な政治映画なのだった。

可視化された途端にイデオロギッシュになるものには
「ノスタルジー」や「カタストロフ」があるだろうが、
「赦免」もまたそうなのだった。
これらはすべて本来的には「みえない」。
 
 

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2011年06月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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