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是枝裕和『奇跡』の簡単な感想 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

是枝裕和『奇跡』の簡単な感想のページです。

是枝裕和『奇跡』の簡単な感想

 
 
●是枝裕和の作家的特徴は
自信にあふれた「過剰な可視化」にあるだろう。
『ワンダフルライフ』での「人生で最大の幸福」の映像化、
『誰も知らない』でのYOUが育てるべきだった子供たちの
「追い詰め」によるドキュメンタリータッチ、
『空気人形』でのぺ・ドゥナの裸身の露呈・・・
さらにいえば『幻の光』の見えがたさでさえ
「見えがたさ」の「過剰な可視化」ということができる。

●今回の『奇跡』の「過剰な可視化」は
オダギリジョーと大塚寧々の夫婦不和を前提に
「まえだまえだ」の前田兄を鹿児島に
前田弟を福岡に分断し、
それぞれの日常をシーンバック(平行モンタージュ)で
えがきつづけた点にまず現れた。
いうまでもなく「シーンバック」は映画にほぼ特有の
映画的語り=「過剰な可視化」にほかならない。

●もうひとつ、前田兄と前田弟それぞれに
「みた夢の映像化」=「過剰な可視化」が用意されている。
是枝の脚本は達者で、兄弟の性格の描きわけも見事だが、
弟の夢が、兄こそが見そうな夢だった点に
交差と反射にかかわる仕掛けさえみてとれた。

●ただし「過剰な可視化」は
「映画が映画であること」の信頼であって
その自己再帰性は、映画外からは自己閉塞性として受理される。
この点に楽観的なのが是枝監督の個性だろう。

●この映画ではもうひとつ「過信」が現れている。
シーン進展によって映画は「語る」のだが、
その「語り」の駆動化にこそ「過信」が感じられるのだ。
もちろん是枝監督は達者だから、
子供たちの日常をえがくその傍らで
間接的に「物語」を進展させる。

●ただしいくら間接性に覆われているとはいえ
語りの駆動化に子供たちが過剰に参入させられているのも事実で
結果、子供がえがかれていても
すべてのシーンが「大人だけのシーン」にみえてしまう。
これは「子供だけのシーン」を残酷に連続させた、
『誰も知らない』からの反転と受けとるべきだろう。

●むろん子供が前面化し、中心化・物質化するシーンの進展では
それなりの「ぼやっとした」編集が必要だとおもうのだが。
編集もまた是枝裕和だった。

●ところで前田兄弟は、ならびに彼らの学友たちは
はたしてみな「子供」なのだろうか。
「子供」にしては喋りすぎている。
噴煙にはしゃぐことなく桜島の火山灰に暗澹となる
前田兄の感情は大人のものだし、
「子供手当」の件を「子供ながらに」
父・オダギリジョーに切り出す前田弟も
「大人びている」のではなく「大人」なのではないか。

●祖父・橋爪功がつくる
鹿児島銘菓「かるかん」の味の形容、「ぼんやりした」は
前田兄から大人たちに伝播しながらも
さらに「そのぼんやりが癖になる」と
大人めいた感慨を導くオチにまでいたるのだから、
じつはこの作品における子供/大人の倒錯は
意識的なものとみていいだろう。

●いずれにせよ、「過剰な可視化」と「語りの駆動化」が
両輪としてフルに回転する中盤まで
『奇跡』はいたずらに観客を疲弊させる。
なにか、「そのもの」をみせる「映像の余裕」を欠いているのだ。
むろんそれはケータイ電話で親に隠れて連絡をとりあう兄弟が
その中間地の熊本で出会うまでの作用的導入部と
捉えるべきなのかもしれない。

●事実、ふたりが再会して突然、画面が躍動しだす。
「まえだまえだ」が同一画面内に入ることは切望されていた。
とりわけ同行したひとりの少女の「機転」によって
舞台が高橋長英とりりィの老夫婦の家に移り、
その縁先に前田兄弟が並んで、
さらにはふたりが背中合わせに背比べをして
とつぜん画面の印象がふかくなるのだった。

●むろんここではふたりが同一画面にいるのだから
シーンバックも夢の映像化も不要で
つまりは過剰性の解除によって
画面が本来性を取り戻したのだといえる。

●説明しておかなければならないが、
福岡鹿児島間の九州新幹線全線開通にむけての
「企画映画」でもある本作は、
その始発から終点までではなく、
「途中」こそをリマインドするよう観客に促す、
その意味では「正しい」企画作品だ。

●このとき「都市伝説」がもちこまれる。
九州新幹線の上りと下りの列車が
すれちがうとき「奇跡」が起こる――
その光景そのものに願をかければ
願いはかならず実現する――という俗信だった。

●高橋長英の家を早朝に出てトラックの荷台にのせてもらい、
新幹線の線路が間近にみえる
(片側がトンネルだ)高台の山地まで子供たちはゆく。
ここまでの流れも申し分ない。
そしてついに新幹線がすれちがうとき、
子供たちはそれぞれの「願い」を
轟音に掻き消されながらも叫ぶ。
感涙的なシーンだ。
それが「女優になりたい」「死んだ犬を生き返らせて」など
「子供っぽいもの」であればなおさら。

●是枝監督の呼吸は、
一旦「過剰」をつくりだしたあと「抑制」をおこなう
「転回」にその特徴があるともいえる。
前田兄の本来の願いは「家族をふたたびひとつにしてくれ」だったが
その願いは画面進行と音声処理のなかに「潜った」。
再浮上したとき「家族」に関わる願いは
「世界」に関わる願いに変化していたとわかる
(みながきらう教師阿部寛のことばが影響していた――
兄は弟に、やがてふたりが別方向に帰るローカル駅で
仲間たちから離れて、そっとそれを語ったのだった)。
とうぜんここでは「おまえと世界の闘いでは
世界を支援せよ」というカフカの箴言もおもいだされる。

●しかし新幹線の「すれちがい」が気を呼んで
「奇跡」を起こす、と語られるなら、
この映画にどうして印象的な
「人と人のすれちがいシーン」がないのだろう。
すれちがいと「奇跡」との関係に
人同士をもちいるほうがより不可視的で、
したがって真の意味で映画的なはずなのに。

●なにか錯誤のように
子供を中心にした人物はたえず同一方向を進み、
徒競走をしたり、追い越しをしたりを繰り返すだけで、
「すれちがい」を呼ぶ逆方向の移動を
身体的に発明しないのだった。
これは奇異だし、
人の人のすれちがいをドラマに欠いてしまったのも
脚本=監督である是枝裕和の手痛い失点と呼べるのではないか。

●意図的にだろう、カール・ドライヤーの神秘的傑作
(しかしあっけらかんとしている)『奇跡』と同題の作品だ。
だから新幹線のすれちがいに
「願い」を成功裡に呼びかけたあと
前田兄と学友たちが降り立った
ラストちかくの鹿児島中央駅のロングショットのシーンでは
学友のひとりが鞄に隠していた「死んだ犬」が
復活の吠え声をあげるのではないかと身構えていた。
それは惜しくもなかった。
犬の復活は神経質な過剰性の発露ではない。
単純に映画性の発露と呼ばれるべきものだろう。

●作品がかかえるある種の「神経質」は
つなぎのフラッシュ編集的な場面で
かならず、くるりの音楽がつかわれている点にも明白だった。
もっともエンドロールにながれる
くるり「奇跡」はものすごく名曲だったし、
冒頭ちかくでながれるアコギのアルペジオから始まる曲は
遮断機の警報音/電車の通過音とギター音との「調性」が
何と一致してもいたのだった。
 
 

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2011年06月23日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

大好きな映画の一つになりました。

実際に子供と接している人ならば
この映画の子供たちが大人びているとは思わないし
映画やドラマの物語感がなく
超現実的なシーンの連続でここまで感動させることができると感心しました。

最後のシーンでは犬が生き返るかもとふと思わせましたがやっぱり生き返りませんでした。
子供たちが奇跡と感じた事、奇跡が起きなかった事、すべて客観的に見れば奇跡でも何もない事だった。
でもそこには感動がありました。

2012年05月01日 おみ URL 編集

人と人とのすれ違いは有りましたよ。
それこそそもそも兄と弟の願いが噛み合わなかったり、夢から見てとれる元の家族での生活に対する印象の違いだったり。
その理想とはかけ離れた色々な距離を埋めようと兄は奮闘するわけだけど、最後には現実(世界)を受け止めて少し大人になってしまうという切なさがこの作品の良さだと思います。
子役の会話や演技も、この程度なら結構リアルですよ。
まぁ大人達の対応とかはさすがにご都合主義な気はしましたけど、フィクションですし気にはなりませんでした。
期待を遥かに越える良作でした、映画を好きで良かったと思える作品でした

2018年03月25日 のーねーむ URL 編集












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