古澤健・アベックパンチ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

古澤健・アベックパンチのページです。

古澤健・アベックパンチ

 
 
●古澤健監督『アベックパンチ』は
いきなり男が男を殴るショットからはじまる。
「殴るショットから開始される映画」といえば
とうぜんサミュエル・フラー『裸のキッス』を想起させるが、
殴打とそれによる鬘の脱落が衝撃だったフラー作品にたいし、
古澤作品では殴る男・鈴之助の
殴りつつ殴るのが嬉しくてしょうがない「微笑」が
スローモーションで捉えられ、それが衝撃になる。

●殺しの渦中に顔がわらってみえたのは
かつては中村錦之助だった。
殺陣で刀をふるい返り血を凄惨に浴びながらも
ひらく口許から食いしばっている歯がみえ、
それがなぜかマゾヒスティックな笑顔まで錯視させた。
加藤泰の『沓掛時次郎・遊侠一匹』がその白眉だろう。

●むろん「笑い」はスローモーション化されると
それが笑いとは異なった微妙なものへと変化する。
つまり「笑っていないのではないか」との
疑念がつきまとうようになるのだ。
少女をスローモーションで捉えると
少女ではないものが分泌される、と述懐したのはゴダールだが、
笑いも少女も似たように曖昧な「中間体」だから
分析的なショットでは「それ以外」を指標してしまうのだろう。

●ところが冒頭、スローモーションで捉えられる
殴打しながらの鈴之助の笑いは
その目が聡明な笑い特有の涼しさをもっていて、
冷静さのなかでこみあげてくる笑いとみてとれた。
スローモーションでも疑義に付されない笑い――
この事実こそがじつは衝撃をあたえたのだった。

●チンピラを圧倒的な攻撃力で駆逐したあと、
鈴之助は牧田哲也と歩く。そこでも戦慄した。
鈴之助はかつてのヘビー級ボクサー、ジョージ・フォアマンの顔の地に、
東洋的な鋭角性を掛け合わせ、なおかつ黒人彫刻的な物質感をもつ
素晴らしい色白の顔の持ち主なのだが、
頭部から首の筋肉、さらには背筋に
豹のような瞬発力の気配が籠められていて、
そうした運動神経の持ち主特有の歩き方をする。
やさぐれていない「大股」。足の蹴りがつよく優雅。
それなのに、地面への体重を感じさせない。移動のかるさと粘り。
おなじ歩き方をする俳優がかつてふたりいた。
『トカレフ』当時の大和武士、『ジャンクフード』当時の鬼丸だ。

●以上のような書き方をすると
ハードボイルドな男性アクション映画と誤解されそうだが、
内実は、荒唐無稽の要素をふくんだ、
感動必至の男女混合スポーツ映画なのだった。
歩道橋で意気揚々の鈴之助と牧田哲也が
品行方正、傍若無人、かつ甘ったるい雰囲気のカップルに出くわす。
肩がぶつかったあとの謝罪の有る無しでバカな喧嘩になるが、
なんと開巻早々から「最強」の雰囲気を漂わせていた鈴之助が
カップル男女の
「握りあわせた手による一撃」でぶちのめされてしまう。

●強弱ヒエラルキーの交代が格闘スポーツ参加の動機になる、
というのは北野武『キッズリターン』にも前例があるが、
前例がないのは、その高飛車カップルのやっていたスポーツだった。
それが「アベックパンチ」だった。

●説明が複雑になるので、チラシから
この荒唐無稽な格闘技についての説明を転記してしまおう。

●アベックパンチとは――
《手を繋いだ男女二組がリング上で戦う格闘技。
攻撃方法は打撃・投げ技・関節技と多彩。
ルール上ダウンの概念が存在せず、
アベック間で繋ぎ合った手が
相手アベックの攻撃によって切り離されるか、
もしくは自ら切り離すことによって敗北となる。
アベックパンチとはもっともシンプルな男女の合体攻撃なのだ。》

●男女がともにおこなうものは性愛と考えがちだが、
共通の敵にたいする連携だってある。
その場合、アクションの物質性に、信頼や恋情といった潤いが加味され、
一連の動作が性技以上に優雅になることがある。
映画はそれを近似値的に描いてきた。
有名な例を出せば、ハワード・ホークス『リオ・ブラボー』で
酒場の女のアンジー・ディキンソンが
敵が間近に迫ってしかも丸腰のジョン・ウェインの「利き腕」に
とおくから見事に拳銃を投げ、
受け取った手でそのままウェインが相手を撃つ名シーンがある。
つまりそこでは「利き腕」、左右の弁別こそが
俳優の身体の具体性に依拠せざるをえないという意味で映画的だった。

●手をつなぎあう男女が相対し、
残りの手、つなぎあう手、
さらには両脚を駆使して闘いあうと単純にイメージすると、
何か手をバタバタさせながらのラインダンスが
正面対正面の構図で向き合っているだけでしかないようにおもえる。
それがそうではないとわかったとき
この格闘技はバレエ舞台のように優雅で
かつ「連携」への信頼と、パートナーの身体の物質化、という
相反するものが合体した複雑なものだと理解が生じてくる。

●パートナー同士の恋愛に似つつ、
パートナーが他方向へと格闘する。
精神と肉体を架橋し、
その架橋自体が相手カップルへの攻撃ともなる格闘技。
こんな動悸を覚える格闘技を映画が発明しなかったのは
「発明精神」に富むべき映画の失点といえるだろう
(発明したのは「コミックビーム」に連載されたタイム亮介のマンガだった)。

●スポーツ映画の巨匠といえば
『ロンゲスト・ヤード』『カリフォルニア・ドールズ』の
ロバート・アルドリッチをまずおもいだすが、
『インビクタス・負けざる者たち』のクリント・イーストウッドもいる。
それぞれ試合に勝ち進む経過が仕込まれていたり、
逆転勝利に辿りつく経過が仕込まれていたりするが、
新聞の輪転機に見出し文字が飛び交う描写とおなじく
ハリウッド映画的な説話経済が描写を支配するのは当然だろう。
つまりフラッシュ編集で試合の渦中を、結果を
つないでいって躍動感をあたえる、というものだ。

●むろん試合場の観客の熱狂を切り返すことで
じつは映画を観ている客にも熱狂の反射をほどこす。
この作品でいえば、
業界ゴロ的なスポーツ記者を演ずる観客席の川瀬陽太が
持ち前の諦観を捨て、
クライマックスの試合で熱狂する典型的な描写もあった。

●アルドリッチもイーストウッドも
男女混淆のスポーツを撮ってなどいない。
架空の格闘技「アベックパンチ」に出会っていなかったからだ。
ならばアルドリッチ~イーストウッドの系譜を代表して
「アベックパンチ」のスポーツ映画をハリウッド的に「明朗に」撮ろう
――それが監督古澤健の着眼だっただろう。
脚本は古澤自身と杉原憲明。杉原はぼくの立教での生徒だった。

●ともあれ、話をもどすと、鈴之助は
高飛車カップルの鼻をあかすため、
自ら「アベックパンチ」の分野に参入することになる。
おバカ映画にも散見される定番ストーリーといえる。
あらかじめ声かけしていた胡散臭い男(トレーナー)を
岸建太朗が演じていて(『あしたのジョー』における丹下段平の位置だが、
惨めさと騒がしさがなく、すごく渋い好演だ)、
疑心暗鬼で鈴之助が入ったジムは廃工場を改造しただけ、
リングすらないボロ普請だった。

●がらんどうの薄暗さがしめされてアッとおもう。
雰囲気に既視感があるのだ。
イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』、
イーストウッドとモーガン・フリーマンが運営し、
女子ボクサー、ヒラリー・スワンクが紛れ込んできた、
あのジムにも似ていないか。

●『ミリオンダラー・ベイビー』は
嫌々トレーナーを引き受けたイーストウッドによって
ヒラリー・スワンクが連戦連勝となる前半と
そのヒラリーが試合相手の卑劣さによって全身不随となり、
イーストウッドが尊厳死を施す後半に、残酷に二分されている。
その「二分」を解消し、幸福な前半部分だけで、
あたかもイーストウッドとヒラリー・スワンクが「手をつなぎ」、
リングで連戦連勝を重ねる「見果てぬ夢」がかなえられないか。
あの傑作と似た、ジムの雰囲気は
古澤健たちに秘められた「映画的野心」をそのように感じさせた。

●映画史を交錯させているのではないかというそうした予感は
同じ土壌のうえでパートナー交錯の予感をそのまま発酵させてくる。
ジムに現れる最初の女は、
ロングショットからその精悍な気配をすでにつたえる女だった。
名は「コルビーナ」、
南米パラグアイから来た(しかも不法入国)とのちにわかる。

●「コルビーナ」は美味で知られる南米の高級魚で、
じつは他の主要人物もすべて魚の名をあてがわれている。
鈴之助は「ヒラマサ」、牧田哲也は「イサキ」、
やがて牧田と「アベックパンチ」のパートナーを組む水崎綾女は「メバル」、
やがて鈴之助とパートナーを組む武田梨奈は「エツ」(「エツ」は「斉魚」)。
以下は、その役名でストーリーをしるしてゆこう。

●最初は女を知らないヒラマサのコミュニケーション下手もあったが
練習靴のプレゼントなどをつうじ
ヒラマサ+コルビーナ組は息も合うようになり、
持ち前の筋力と柔軟性もあって有望株とみなされるようになる
(このあたり、ハリウッド的な説話経済性で展開がすごく速い)。
筆記試験が苦手のヒラマサ、日本語がダメなコルビーナに代わり、
同じアパートのイサキとメバルが替え玉受験(「交換」がテーマ)をおこない、
見事プロテストに合格、いざデビュー戦というその試合場で
不法入国の露呈したコルビーナが入管係員に拘束される。

●係員の侵入を阻止しようとしてつながれていた
イサキとメバルの手がまず「切れ」、
ついでヒラマサとコルビーナがつないでいた手も「切れる」。

●コルビーナはパラグアイに強制送還。ヒラマサは以後酒浸りになる。
じつはコルビーナが唯一共同性を感じた女性だったのみならず
ヒラマサはコルビーナに恋情を抱いてもいた
(トレーナーはヒラマサが18歳になった誕生日に
コルビーナと結婚させることで、
コルビーナに日本国籍を獲得させようとしていたともわかる)。

●ここで疑念が走る。
いくらコメディタッチの「汗臭い青春物」として
ドラマが軽快に進むとはいえ、
セックスの暗喩性ももつ格闘技「アベックパンチ」のパートナー同士は
相手への闘いとともに相互の恋愛・結婚をもしいられる
異様な宿命のなかにいるのではないか――と。

●そこでは愛とスポーツが弁別されていない。
労働と愛の弁別を訴えたのはゴダールだった。
その弁別のなくなった職業こそ恥辱的になる。「売春」「俳優業」だ。
ゴダールはよって俳優男女のキスの描写をきらう。
ところが古澤健は『アベックパンチ』で
イサキとメバルのキスを見事に捉えた。単純さによって捉えたのだった。

●ここからさらにエロチックな「関係の交差性」予感が出現してくる。
これにはストーリーを説明しなければならない。

●コルビーナに去られて失意のつづくヒラマサを励起しようと
イサキとメバルがアベックパンチのコンビを組む。
ふたりは最初、抜群の運動神経の持ち主として描写されてはおらず、
だからトレーナーも匙を投げるほどに成長をみせない。
しかしいつの間にか練習でひそかな地力をつけていて、
いつものヤクザにからまれたとき
とくにメバルの柔軟な蹴りによって相手を駆逐する。

●彼らはコンビネーションが悪いだけだった。
メバルはおよそ次のようにいう。
あなたは右半身だけで生きて。左半身はあたしに預けて。
つまりここでアクションの左右/恋愛の左右という
鏡像とも共通する身体的問題が介入してきて、動悸が起こりはじめる。

●ストーリーを端折ると、そのふたりの励起あって
ヒラマサはかつていじめられているのを助けたエツ
(ゆきつけのスナックのおかみの実娘だった)と
新たにアベックパンチのコンビを組むことになる。
メバルの格闘選手としての成長が
ヤクザ頭部への高い蹴りで一瞬にしてしめされたように、
エツの選手としての成長も
たったひとつの練習風景のインサートショット、
ヒラマサのもつサンドバッグに
エツの入れる、高くつよい蹴りでしめされた。

●女子の高い位置への蹴り=選手としての成長、という「図式」があって
それを1カットという高い説話的効率性でしめしてしまう古澤は
ハリウッド映画の骨法を
日本の戦前の名匠のようにわきまえているといえる。

●もともと水崎綾女(メバル)、武田梨奈(エツ)が
アクション派で頭角を現してきた女優だと知らなかったぼくは、
ふたりがそれまでしめしてきたアクションのとろくささに
「アベックパンチ」ファイターとしては大成しないと
完全に騙されていた。
水崎のメバルは、おかっぱ髪の重たい、寡黙で鈍重なキャラ、
武田のエツは、ギャル風の細身ひ弱キャラだと見積もっていたのだった。

●古澤が「見た目の女優価値」を突き破り、
逸脱的にその女優の属性を画面にどんどん展覧してくる、
素晴らしい攻撃性の持ち主だというのは、
前作『青春H making of LOVE』で
「美形ゆえに脱がないだろう」とおもわせた藤代さやに
すごくハードなセックスシーンを導き、
驚愕させた点でも明らかだろう。

●ヒラマサとイサキはもともと武闘派のヒラマサにたいし
傍観者的同行者のイサキという「配分」があたえられていたから、
戦闘能力ではヒラマサのほうが上、
という刷り込みが観客になされている。
そのなかで「烈女」としてメバルとエツが成長してくる。
当然、ドラマは一種、パートナーの交換(スワップ)という
不穏な方向に進展するのではないかと予想も走り出す。
具体的には、「より強そうな」ヒラマサと
「より強そうな」メバルの「合体」を夢想しはじめるのだ。

●「交換」はもともと作品のテーマだったはずだ。
コルビーナが活躍していたときの「替え玉受験」がそうだったし、
美形のイサキに恋していた女子高生がいて、
彼女がメバルを、イサキのパートナーの位置に導いた経緯もあった。
交換可能性の予感にゆれる主要人物群、という俳優布置は
恋愛(不倫)映画特有のエレガンスだが、
それがスポーツアクション映画においてなされているのが
倒錯的なのだった。

●ところが「交換可能性」は意外な局面から内破を起こし、
それがヒラマサ―エツ、イサキ―メバルの
パートナー継続性へと結果的に架橋されてゆく要因ともなる。
このことをしめすのが
それぞれのチームの驀進的連勝のフラッシュ編集だった。

●アベックパンチはラインダンス的カップルの対峙ではないと書いた。
イサキ-メバル組では手をつなぎあったまま相互のからだをリングにしずめ、
倒立状で蹴りをおこなうなど上下軸のトリッキーな技が披露される。
同調的コンビネーションが昂じて上下軸のうごきを加算するといっていい。
ヒラマサ-エツ組ではエツの小柄・軽量、ヒラマサのからだの大きさを活かし、
ヒラマサにもちあげられたエツがヒラマサと手を握り合ったまま
相手に意想外の角度から蹴りを入れ、
それがヒラマサのフォローによって威力を倍化させる必殺技を生む
(それらは画柄としてしめされるだけで特別な攻撃名をあたえられない
――恬淡として連戦連勝シーンが進むだけ、という古澤のした選択は
驚愕するほど聡明――いや、「透明」だった)。

●パートナーの左半分が自分の右半分になるという程度の「合体」は、
これらでは分解的に解除される。
逆に左半身/右半身、上半身/下半身と四分割された身体の「パーツ」が
それぞれパートナーの身体部位の交換性によっても鏡像的に増殖され
それがトリッキーに上下軸で沈み、空中で背面化され、
下方からの爆発と上方での回転によって連続性を得る。
身体性は棄却されることで再獲得を結果される。
つまりここではパートナーの身体を物質化することは相手への攻撃であり
同時にパートナーへの愛なのだった。
外延性と内部反射の同時出来。

●ともあれそうして武闘と舞踏の弁別が高速的に溶解する過程にあって
「交換」はパートナーと自らの四肢の「交換」にまず内在的に代位され、
思想的には武闘と舞踏の「交換」にも横ズレしてゆく。
つまりアベックパンチが白熱化してゆけば
論理的に別パートナーとの「パーツ交換」(スワップ)すら
ありえないのだった。

●一旦スワップの予感を呼び寄せておいて
それを試合の描写において「解体」する――
この点にこそ、映画『アベックパンチ』の危ない魅惑の本質がある。

●いずれにせよ格闘技「アベックパンチ」は
恐ろしく厳格なスポーツの発明といえるだろう。
それを古澤は原作マンガを読んだ経験のないぼくにも
試合のごくわずかなフラッシュ編集で会得させてしまったのだった。

●古澤の説話の熱気は波状性の獲得によっている。
ヒラマサのスランプ脱出、
川瀬陽太の書いたメバルへの偽インタビュー記事が
メバルとイサキ相互を傷つけ、ふたりがようやくいたった関係修復、
それらが片づくと作品は一気に大団円に向かい驀進してゆく。

●たぶん古澤の「職人芸」というのは
1カットの秒数(コマ数)調整に
「均質でゆく」「より短くする」など
さまざまな「傾斜」を調整することに現れるだろう。
厳密にはそれは編集技師の仕事だが、
たぶん現場で古澤がカットをかけるタイミングに
すでに傾斜が内包されている。
試合描写では複数カメラで撮られた細部も多いだろうが、
カッティングが「快調」すぎてカメラへの意識は透明化させられる。

●案の定、上述したチャンプ・チームから
新人王の勝者チームとタイトルマッチをおこなうという知らせが来て、
「ヒラマサ―エツ」vs「イサキ―メバル」という
「同門対決」のレールが敷かれる。
ここが映画のクライマックスだ。
若貴兄弟の優勝決定戦で問題となったのは「情」だった。
同門で育ちあった友情のつよいチーム同士が
「情」を昇華して「武闘」へと自ら高められるかが課題となる。

●一試合の描写としては最大となるこの同門対決は
技の展開とファイトの質、こうむった打撃の加算をしめす
カッティングが見事に炸裂し、瞠目し息を飲み、
やがては落涙にまで導かれる。
アルドリッチ-イーストウッド型の
不連続を熱気で連続にみせる編集が完全に奏効している。
チャンプ・チーム、エツの母親、トレーナー、川瀬陽太など
すべての階層に伝播する試合への感動に、
映画の観客自身までもがくるまれてゆく。

●死闘を繰り広げる四人にたいし
徐々に画面がハイキー化し、そこでスローモーション化がはじまる。
ヒラマサが、エツが、イサキが、メバルが――「笑っている」。
冒頭、スローモーションで捉えられたヒラマサの笑いが
今度は四倍になって、
その倍数の成立によって映画が幸福裡に終幕に向かおうとしている。
マンガ『あしたのジョー』でいうなら
カルロス・リベラと闘いつつ矢吹丈が得た「法悦」、
それと似たものが画面を支配して
ついに「みえない精神上のスワッピング」がユートピックに完成した。
これほど幸福なクライマックスは滅多にないだろう。

●問題はこの映画のほどこすスローモーションが
生の渦中を死に向けて分解する
阪本順治(『どついたるねん』など)的なものではなく
緩慢化によって薄めようとしても薄められない、
最高の時間性の横溢として現れる点だろう。
それはかつてのアメリカン・ニューシネマが得意とした
「カタストロフのスペクタクル化=抒情化」としての
スローモーションとも似ているようで似ていない。

●古澤健は実際、画面進行を停滞させるスペクタクル化を
頑なにおこなおうとしない。
そうでなければ
アベックパンチの試合描写の透明性が損なわれると
信じているかのようだ。
この透明性はむろんハワード・ホークス的なものだ。
そのなかでこそアベックパンチの「技」の発明性も
『ピラミッド』のように構築される。

●スペクトル化の拒絶は以下の点でも現れた。
たとえば冒頭、ヒラマサ=鈴之助が男を殴打したシーンは
埠頭のある海辺だった。
それに人物たちがランニングでからだを鍛える数々のシーンでは
防砂林のような植生がロングにみえる。
ならば海辺の光景が人物たちの恋情吐露などに再召喚されると
誰もが身構えるだろう。
ところが古澤はそれを外す。

●代わりに古澤は、人物たちの大事な告白、
基本的な出会い、大切な試合結果の報告などを
階段のある急坂もしくは歩道橋にすべて場面限定してしまうのだ。
それらの場所が指標しているのは「中間性」だろう。
だから人物たちは出会い、葛藤し、協同し、「動く」。
逆にスペクタクルな海辺で言葉を伴うそういう芝居どころが撮られると
映画は動かなくなってしまう。
古澤はそれを警戒する。

●ハワード・ホークス的透明性とはマキノ雅弘(正博)的透明性だろう。
映画『アベックパンチ』はマキノの匂いもする。
シネマート六本木で幸福裡に作品を観終えると
ロビーに古澤監督がいた。すこし話すと、
何と『アベックパンチ』は計六日間の撮影だったのだという。
これは撮影所の利点を活かしたマキノの早撮りよりも
あるいは濡れ場の多さの利点を活かしたピンク映画の早撮りよりも
速さにおいて驚異的な数値だろう。

●マキノ型の早撮りは、台本が口伝えであっても
「いま」がどんな撮影場面かをスタッフと俳優が「総意」で了解し、
役割が高速で機能的に分担され、
そこに説話にたいする民族的な記憶台帳が
共有されていることが前提となる。
つまりそれはチームプレイだけのもつ「共有的迅速」で、
「愛」が潤滑油になった感動的迅速だともいえる。

●その「迅速」こそをこの映画の
ヒラマサ、イサキ、メバル、エツ、
その他、悪役もふくめた俳優のすべてが体現し
それで画面進展の一切がマキノ的に透明化していたのだった。
迅速そのものへの了解が
愛と闘争の不分離的合体性のうえに樹立されていて
それが「現状日本」への賦活剤となっている。
ともあれ近頃これほど「迅さ」が豊かにみえた作品もない。
案の定、86分というコンパクトな上映時間だった。
 
 

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2011年06月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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