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近藤弘文・夜鷹公園 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

近藤弘文・夜鷹公園のページです。

近藤弘文・夜鷹公園

近藤弘文さんご自身から送っていただいた、
07年10月刊行の詩集『夜鷹公園』
(ミッドナイト・プレス)をいま愉しんで読んでいる。

収録詩篇の多くが現代的符牒を前面にはしている。
閉じない鉤括弧(「)の連鎖(A)、
行頭が読点(、)ではじまってしまうこと(B)、
さらには行の転換などによって、語体が入れ替わって、
そこにスパークが起こり、発語の存続性が脱臼されてしまうこと。
一行の束と一行の束の組合せが電気的な恍惚を迎える瞬間もある。
「場」の把握が行き迷う点が肝要だ。
つまり近藤さんの詩は、加算される行の場から自明性を奪い、
読者に詩原理への考察を導く点にも力が注がれている。
それでも抑制された言葉づかいが語感として素晴らしく、
リズムにもずっとしなやかな一貫性が保たれている。

上記A、Bはたとえば石田瑞穂『片鱗篇』の詩篇にも
みてとれた特徴だった。
ただ石田は詩句にたいする読みの同定性を剥奪するために
そうした文法破壊を「反響的に」もちいる。
だから、それらは複雑な字アキ、地名とも何ともつかぬもの、
あるいは植物の学名表記、稲川方人からの語彙「ヘヴン」、
そして究極はそれらの「音(おん)」とともに、
すべてが、同心円が横ずれしてゆくような反響性の枠組に置かれた。
このばあい「欠片」こそが、反響を伝える空間内の媒質だ。
石田を、その使用語彙の好みから稲川方人の流儀と呼ぶ人はいよう。
ただし反響性が線形に沿っていったかつての稲川にたいし
石田が空間性を飛躍的に高めている点には注意が促がされてよい。

これにたいし、近藤さんの慎ましやかでミニマルな手法は
字数の少ない詩行の束を荒掴みにしてばらまくような
そのことによってヒリヒリするような無造作を偽装する。
束X-束Y-束Zが、
(束X-束Y)-束Z とも、
束X-(束Y-束Z) ともとりうるような
自由な出入りをするような、ゆるめられた詩行拘束なのだ。
僕は若手詩人の動向に疎く、総体論が展開できないのだが、
近藤さんのやりかたには新しさを感じた。

証拠のような詩行変転が集中の「廃屋」にある。

「藁を
つかみなさい
とあなたのつくった巣が
ほら
あいさつしてよ
あたしは
こんなにも廃屋のなかで朽ちて
あなたの声に
「雲ひとつない
のである

一見、相当程度に病んだ文法破壊が感じられるはずだが、
(「藁)とは、藁である詩行がバラバラにされ
より少数的に「束」になっているこれら細りの詩行ではないか。
巣が藁に、藁が束に、束が一本の糸にまで解体されてゆく過程が
近藤詩読解の渦中に起こることであって、
「あいさつ」するのはそれでもその散逸を跳ね除ける詩句なのだ。

人称の場がもともと同一性を失しているのだから
ここで命令された対象(あなた)と命令した主体(あたし)には
精確な差異線など引けはしない。
従って「巣」と「廃屋」も同じトポスに再度溶融することとなる。



ただ、このような詩行の構想が
熾烈にすぎると考える向きもあるだろう。
だから近藤弘文も錯綜する詩行=束の場に、
それらを等間隔にみせるようなメタ次元の遠点を設定する。
それが「鳥のいる場所」だ。
詩集タイトル「夜鷹公園」の典拠=「廃屋」の「夜鷹」よりも
(それにしても近藤は「ジョバンニ」のフレーズなど宮澤賢治を好む)、
詩篇「鶫」中の「鶫」に僕などはまず惹かれる。
その最終二聯――

そのためにオルガンを燃やす
などなんでもないことでした小石を蹴って
いるわたしと、蹴られているわたしと。

雪、が降って
ダムの底にしずんでいくオルガンを
燃やしている、鶫

ここでは降雪という全体構図のなか
ダムの水の底へとゆっくり炎上沈下してゆくオルガンを
上位次元から鶫が統べている図柄が捉えられるだろう。
ところがそれはこの詩篇第一聯での
雪-小石-ダム-鶫の位置関係の部分的転位なのだった。
第一聯はこうだ――

雪をほしがる
のは鶫のとうめいないかり
ですほんとうは
みたことありません
(みたことあります)
そばで小石のようなものが
ひとりでにはじけて
いましたダムの底にしずんでいくオルガンを
燃やしている鶫の姿をとらえて
、撃ち落とした

最終行冒頭の「、」(句点)は衝撃の付与にも貢献している。
ただ、鶫はダム中に炎上沈下してゆくオルガンを統覚しながらも
一旦は雪礫が変貌したような小石によって
宙にあっけなく散乱したのではなかったか。

すると詩篇全体がミニマルな
「鶫の散った時間」→「散らなかった時間」を跡付けたことになる。
というか、詩篇は「消えるものが蘇る」媒質として
現実以上に「鶫のイデー」こそを呼び出している、といっていい。
鶫=「つぐみ」の音に注意。
「つぐみ」は「口を噤む」の「噤み」(「沈黙」)の化身だった――
だからそれは発話によって死に
死によって生き返る逆説を我が物にできるのだ。
鶫が「噤み」の色彩をわずかでも帯びて
この錯綜する賢治的童話のような詩からは「詩の骨」が浮びあがる。

さらなる鳥を召喚しよう。ミクシィの画面で
「烏(カラス)」が「鳥(トリ)」と分別的に読まれる自信がないのだが
詩篇中にあるのはみな「烏(カラス)」だ。
「鴉」の表記を近藤が嫌ったのはそれがレイヴンではなく
より卑小な「烏=クロウ」だと明示したかったためだろう。



【「烏が宙に】(全篇)

「あ
烏が宙に
微塵となった
「いまでもわたしたちは
数えたりしない
空き巣に入られて
荒らされた
「巻き貝
のように
くわえるべきものを
「くわえるべき
だろう
あなたの
「括弧のなかの
「夜明けに
「あ
烏が宙に
微塵となった
「わたしたち
黒い文字を散らす
から
「すきまだらけのあなたの
屋根に
そっと耳打ちします
雨が
「煙のように降りだしました
見たことあるでしょ
「オドラデク
ですよ
星形の糸巻き
「あの
工事現場
に点った
「草の根っこにわたしたちは
しがみついている
「のである
傘をさして
「あなたは
木々のうちに持続しない
「どうやら
肩にとまっていた
かたつむり
のようだね
「焦げよ
「焦げよ、と
落ち葉の記憶にまぎれこんだ
「螺旋階段に
いま木の実をこぼしている
のはだれか
ときとして
おとぎ話のつづき
「であったかもしれない
「わたしたち
閉じた目を閉じようとして
います
「あ
烏が宙に
微塵となった
「真昼の夜明けに
あなたは
「ほおずき
がきらいではない
ので
「すこしでも
自転車をこぐ
のだ
「あなたのくわえた
星形の糸巻き
こんにちは
ぼくはみたよ
「落とした名前
を拾った
手のひらが崩れている
「のであった
目をそらすな
オドラデク
「おかげで
太陽がみえないときは
とほうもない
糸くずだよ
「わたしたち
烏の中心にいて
微塵となる
烏です
「さらわれていくのかな
「ほおずき
「太陽のなかに
「黒点
「あなたの
迷子
を見捨てておいたらいい
自転車が消える
この
真昼の夜明けに
「わたしたち
閉じた目を閉じようとして
います
「焦げよ
「焦げよ、と



(「)が閉じられず連鎖してゆくことで
時に文節がずだずたに寸断され、
そこで意味や位置関係が不明になってゆく不安を
読者は感じるだろう。
ただ烏の座は、太陽=ほおずきを背後にしていて、
それが、巻き貝、かたつむり、
螺旋階段、オドラデグ、「手のひら」、自転車など
渦を巻く結晶体(「迷子」を内包した物体)に干渉してゆき、
「真昼の夜明け」「閉じた目を閉じ」る、など
矛盾撞着した世界変型がおこなわれようとしているとは察知できる。
ただ、近藤は欠片しか書いておらず、
電気的幻惑に「当てられて」、
熱に浮かれてその「暗闘物語」を完成するのは読者のほうなのだ。
烏はいくたびか反復シーンのなかでおのれを微塵にする。
黒い粉末を虚空に振りまくのだ。
そのときこそ、読者の位置が烏の消えた座と一致することだろう。

「オドラデグ」はカフカの短篇に現れる動物
(しかし「動物」でいいのか?)。
カフカは例によって、細密描写を試みるのだが、
近藤がしるした「星形の糸巻き」程度のことしか把握できない。
その機能が描かれれば描かれるほど
この近藤の詩篇と同じような錯綜へと導かれてゆく。

ちなみに、「カフカ」の姓はカフカが本当に所属した民族の語、
ちなわち「チェコ語」では、「カラス」の謂だった。
この詩篇ではカフカと賢治が合体したときの
影の推移が描出されている、と取った。

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2007年11月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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