日記 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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かつて

 
 
【かつて】
 
 
たぶん脆弱をあかしされるため
わたしらに性愛がひらかれた
つよくなるのはけして道義ではない
趣向と愛をみわけなくなるまで
むだにからだがうごかされて
えるのもたがいのからだだという
そのトートロジーこそわらえた
それでもひかりをながめるように
おもいもよらぬちいさな表情を
どんよくに記憶しようとする
そんなよしなしごとにとらわれて
みずからの碗をわってしまうと
破片みたいだねとぜんたいを
つかれたままくくろうともして
このときは性交とはむえんの
ふたりの配置になったと気づく
おるごおると「とどこおる」
この二音こそたがいだといわれ
くりかえしが性交を倦ませた
うごきのくりかえしだけだったと
いとなみをかえせもしたけど
なましろい肌へのなでさすりは
おなじところをちがうように
いつくしむにはついにいたらず
さぐりいれはなにもさぐりあてず
風のような領域がひろがって
てのひらをふと中断させた途端
碗もわれた、眼前は白磁だったと
うつろでかなしいわらいを
むつみのなかへ向けたりした
疲れと愛をみわけなくなるまで
むだに皺がこころにはしって
ひだをもつものがまじわりでは
つねにおくゆきにかわるのだから
それをpornのようにひらたく
意匠にすることもできないでいて
さしだした双のかいなへと
つめたい藁の束がおちてくる
そんなとつぜんもあるのかなと
体位のさまがわりにさしむけてみた
地上だよとあいてはあっさり言い
うしろすがたをとおくそらせて
さかのまちの地図もあるな
ふたりの細工になったなと気づく
しているときも余白がみえていたし
ひかりのふる窓外も配置だったし
かなしさのかたちあることが
かたちのなさにさえまさっていた
 
 

2017年05月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ・劇場プログラム

 
 
昨日から渋谷ユーロスペースなどで公開がはじまった『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』、その劇場用プログラムの出来が感動的だ。同プログラムに原稿を寄せている当方としても、これほどうれしいことはない。
 
ときどき編集者にとっての編集の基本はすべて劇場プログラムのそれに集約されているのではないかとおもうことがある。編集によって語りだす対象が当該映画に厳格にさだめられたうえで、スチルや現場スナップなどヴィジュアル要素が豊富(つまりデザイン化の選択が多様)、「イントロダクション」「ストーリー」「撮影エピソード」「評論」「キャスト、スタッフインタヴュー」など定番の要素をくりこみながら、それらの深浅、拡張力の有無、現在性考察の濃淡、他の映画や文化への言及をも付帯させるか否かで、無限の偏差を形成することもできる。
 
もちろん書籍ではないのだから、頁数(台数)には一定の限度があり、このなかで台割が、シンプルな全体の時間性を組織する。このシンプルさこそ肝要で、それゆえに編集の手つきが、いわば裸形の状態で手にとる者につたわってくるのだ。プログラムと読者の関係は握手しているにちかい。もちろんプログラムは、映画を観たあとに購入者の手のなかでひらかれるのだから、対象にまつわる了解性もおおきいのだが、記憶すべき勘所が確実に言及されているかどうかなど、評価の基準が繊細にならざるをえない。やっつけ仕事などもってのほかで、いわゆる「映画愛」がこぼれにじんでいるかどうかは、情報の展覧、精度、展開の順番などから肉感的に計測されることになる。編集者の力量が着実につかめるのだ。さきに「編集の基本」としるしたゆえんだ。
 
ぼくはキネマ旬報社の編集者時代に、映画書の書評欄を担当することがおおかったが、映画書たろうとする絶望的な野心をもった劇場プログラムにたいしては、熱烈な書評をもって迎えた。それでもそれは書籍ではない。むしろ書籍手前の「中間性」「はかなさ」こそを、劇場プログラムから掬すべきだろう。優位性は、書籍よりもフェティッシュがつよく、時間が経過すればそれが、書棚のなかで「人生の秘密の符牒」ともなる点だ。
 
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』劇場プログラムの編集上の実働者は業界の秘密なのでここに公言しないが、プロデューサーにしてリトルモアの社長・孫家邦の意向を、愛と具体的な編集技術によって拡大した点は着実に感覚される。キャストは端役にいたるまで、さらには多様なスタッフも綿密にプロフィールがしるされ、しかもキャストにはすべて、あなたにとって東京は最高密度の何色か、という質問によって、発言の機会さえあたえられている。綜合的な共同作業によるしかない映画(創作)の真理に、劇場プログラムの方針がうつくしく寄り添っているのだった。
 
ふんだんなスチル写真を、プログラムの冒頭と中間と掉尾に長い頁数にわたってちりばめたので、全体は一種の「アルバム体」をつくりあげている。それでまず頁数が多い。ところが寄稿者やインタヴューの切り口も多彩で、それでも頁数がかさむ。プログラムが書籍的な量感をもとうとして、写真とコンテンツをまず吸引しながら、そこへさらにヴィジュアルとは界面のことなる「文字」をも置かなければならない。どうなるか。
 
編集者は過激な選択をした。もともとイントロダクション以下の本文の文字もちいさいのだが、そこにさらに可読限度を超えて小さい文字を、プロフィール、説明などに組み込んだのだった。虫眼鏡をつかわなければプログラムの細部が読めない。昨日実際にこのプログラムがポストに届いて、さっそくぼくは、老眼もあるけど、虫眼鏡をつかって「全部」を読んだ。このプログラムの「構え」が、細部を読まないまま放置することを許さない。つまりは意気込みにうごかされたのだ。しかもスチルのアルバム構成になっていない本文は藍と橙の二色刷で、その二色がかぶって迷彩化、判読のしにくい部分さえあったから、なおさら虫眼鏡が重宝された。原作である最果タヒの詩集の「混沌」がここでは宇宙化され凝縮されている。とりわけヴィジュアル面では、ヒロインの新進女優・石橋静河の静謐で真摯な表情(切々とつたわってくる)、さらには東京風景の図案化が見事だった。くわえて、最果タヒの詩篇を分解する字組も。詩集編集者は参考にすべきかもしれない。
 
この文章は、劇場プログラムを編集した者へのオマージュだから、映画そのものへの言及は、別の機会とする。入っている文字情報のみ、目次から最後に列記しておこう。それだけでも劇場での購入が必須、とわかるはずだ。
 
最果タヒの詩
・P9 彫刻刀の詩
・P61 青色の詩
 
コラム
・P16 角田光代「信じたくて、信じられなくて、でも。」
・P22 宇田川幸洋「鎧う、男と女の出会い」
・P28 いとうせいこう「“声”について」
・P33 高橋源一郎「奇跡のような2時間」
・P40 岸政彦「波と振動」
・P45 水野しず「“青い空”」
・P50 阿部嘉昭「現代詩のゆくえ」
 
インタビュー
・P18 美香役・石橋静河
・P20 慎二役・池松壮輔
・P24 監督・脚本・石井裕也
・P46 原作・最果タヒ
・P54 撮影・鎌狩洋一
・P56 エンディング曲・The Mirraz畠山承平
 
クリエイターのいまを探る
・P26 石井裕也のいま
・P48 最果タヒのいま
 
・P14 解説
・P15 物語
・P34 キャストプロフィール
・P36 イン・ザ・詩ティ
・P52 プロダクション・ノート
・P55 シーンの裏側
・P57 スタッフプロフィール
 
 

2017年05月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

テンポラリースペース

 
 
【テンポラリースペース】
 
 
かずかずの弦を鳴らすひとがいて
とてもひとりではないようだ
おおくの音のすきまに層があって
そこへオーボエとしてはいってゆく
名刺に針でいとをとおした層体のある
花火の家の入口は印房さながら
なまえが賑わってあたまには火の字が
くらくらと刺繍されてあかるい
やまとやあつし、いづつとしひこ
おんがくは音どうしの関係だが
しつかんの関係性でもあるだろう
そえることがあらわれのありかたで
石狩がおおきく堆積した砂洲なら
さみしさの泥炭をつけくわえる
対だったおんな坑夫のいきたあかしも
かんがえられたすべてからの影だと
くちびるは幾つかを幾つかのまま
まぼろしでうかばせようとしていた
ふぶく砂洲へすわりさけびつづけたひと
衰滅にあたらしいこえをのせたひと
こわれてからがうちがわの声になると
からだにはしあわせな懲罰がはしる
北の大地も島ふたつがぶつかりとけて
接合部が褶曲し山の鼻梁になったが
その鼻には魚介の化石がうもれて
それがりんかくの星形とひびきあう
ひろがるけしきがみしらぬかおに似て
多とするあたまに花をあまらせるしびと
うつくしいはなびとがたどりつけば
足下にはこちらのしたオーボエがながれ
みなやわらかくふまれる紙の基底材だ
ぐうぜんと旅の層はそのひとの身の丈を
いちだんすきとおる褶曲にかえている
毀損するまでたたかれるなにかの連続が
からだからの弦の音をただ鬼気にして
そのかおがすでに多重露光だったのだから
みえなさはすでになつかしくみえていて
すきとおるロシア的なひとみの穴も
めぐりの糸をかぎりなくとおしてゆく
なんという共感のゆたかさなのか
とてもひとりひとりではないようだ
どうさをつぎつぎとまきちらして
そこにあった直前をひたすら推敲し
ときのかさねをきたえあげるひと
朱の墨汁で棒みたいな人の字を
巻紙のうえアルカイックにえぐり
書き順の痕跡がその場にのこる
やわらかい緩慢がはいつくばって
みないことが書字をいきものにして
ひみつは線のままの延長なのに
それゆえむしろふかくひみつになると
オーボエのこころがただ敬服する
そのひとの刻々に伴奏をそなえつづけ
この世のかぞえられなさにもゆれて
 
 

2017年05月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

末裔

 
 
【末裔】
 
 
しずかな水のあるところが
からだのどこへ対しているかで
おおよそこころなどきまるものだ
なにごとにも直面をさけるので
横目にかがやきをおぼえつつ
ほとりをさみしくさまよいだすと
体側に芋虫めいたまどがならぶ
眼はからだにおおいほど嬉しいが
すがたがきっとうかつだろう
一点から他点へとうつるときに
からだがこころよさののりものに
かこわれているのはおろかしい
たまさかのけしきのかたちに
つい移動をうながされるなんて
そんざいしてないみたいじゃないか
ああしずかな水のあるところの
水はそれじたいのように水で
かんじようとしてもだえる身に
ない耳飾りが片耳でゆれはじめる
発音ではなく偏差まで聴くと
せかいはそのととのいをくずし
ひかりの巣でいっぱいになり
流線がわれだして恋がたかまる
もっともきらいなじぶんに
そとからの綾がたびかさなって
対象でなくなってしまうのだ
いっていのよこはばあるつづきへ
横目をもちい寄りそってゆくと
いずれからだに左右ができて
どちらがすくないのかもしらず
軽重のさかいがゆれつづける
それでも濃淡にわかれるじぶんに
あいされるすきもうまれるはずだと
からだの受け身がさだめられる
おそらくおんなのうつくしさとは
そんな水のあたりではないのか
すなわちヨルダン川の草むら
あやうく多数にふくまれるてまえで
それぞれがきしべをあるいている
みぞがながれをねむたがるけしきで
しずかな水がかたわらにつづいて
かつての首切りまできらめいている
 
 

2017年05月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

クラブツーリズム

 
 
GWは5月1日から女房が来札して、クラブツーリズムの長距離バスツアーに参加したほかは、三食昼寝つきの自堕落な日々をすごした。この時期のバスツアーなら、道内を南下して日高の二十間道路か松前城での観桜となるべきところ、源泉かけ流しに惹かれて北上、大雪山系のふところちかくの温根湯温泉の宿に泊まる地味な一泊ツアーを選択した。
 
以前なら「鉄」女房はJR時刻表を睨んで、綿密な電車旅行の計画を練ったものだが、経営難のJR北海道の現状は減便だらけで、乗換がうまくゆかず、電車ではまったく移動距離が稼げない。逆に長距離バスツアーは、地味ながら景勝地や名物商店や資料館など思いも寄らぬ場所に連れて行ってくれ、途中、車中用のおやつもふるまう。つまりはこんなに安価で採算がとれるのかという強行軍日程を大サーヴィスで組んでくれるのだ。クルマの免許をもたない夫婦にとっては、現状での北海道見物はバスツアーが最善となるしかない。
 
ツアーは映画『私の男』のロケ地=紋別にまず行き、昼食はマルカハチ水産にて、昼間からホッケ、蟹などの炉端焼き。その後はオホーツクタワーでオホーツク海への知見をやしなって、さらに揚げかまぼこが自慢の出塚水産へ。宿に向かう過程で湧別、遠軽をとおって、北海道のさみしくだだっぴろく、何もない景観を車窓から満喫した。廃サイロの数々を視野に収めたのが収穫だった。女房は寝ていたが。
 
翌日は北の大地の水族館でイトウなどの淡水魚を見物したのち、大雪山系の銀河・流星の滝に接し、一挙に旭川に赴いて、銘酒・男山の酒造り資料館へ。試飲でほろ酔い気分ののちは、あさひかわラーメン村でラーメン昼食。旭川マダム御用達のお菓子やさん・The Sun蔵人で洋菓子の数々を試食し、バス運転手のサーヴィスで美瑛の丘めぐり。最後の行程の「青い池」見物で大渋滞に巻き込まれたのもご愛嬌だった。ただし青い池は去年の北海道台風禍で白濁し、「青白かった」。札幌には19時半すぎに到着。途中、山の端とたわむれるバカでかい夕陽をみた。
 
GWには一冊どころか一行も本を読まず、録りだめしていたドラマなどTV番組を女房と鑑賞した。うち『小さな巨人』『緊急取調室』『犯罪症候群』については、今クールの刑事ドラマという括りで昨日、道新のコラム用に記事を書いたが、意外な収穫は実はほかにあって、ディテールに抒情的な工夫のある『ボク、運命の人です。』だったりする。今クールではいちばん可愛いドラマかもしれない。内容紹介しようかとおもったところで、研究室に学生が来た。なのでこの話題はまたいずれ
 
 

2017年05月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)