現代詩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

現代詩のカテゴリーです。

十三句

 
耳畳み蜩聴かず幹に凭る



天上は女だらけに大火かな



静脈の透くことありし夜の雷



忘八に似る忘我にて葵枯る



炎あらば双葉ををみな二匹にせむ



水難を女難に代へて接岸す



パライソは孕む同胞(はらから)ひかる原



行く雲ををみなに見たり今日の繭



わが女声閉づるがごとく本を閉づ



脳幹に喜女顕ち以後を翁かな







吸盤の付き弱まりてあの世乞ひ



転写、八月の終りは長く銀貨舞ふ



をみならがつどへば母の疾風(かぜ)湧けり





夕方、女房の帰宅待ちで時間があまってしまったので
「なにぬねの?」コミュ「時かけ」「不思議の国のアリス」に
一挙に十句を出す。
粗製濫造かもしれない(笑)。

ついでに、最近つくった句(●以降)もここに掲げました。

「吸盤」は「なにぬねの?」柴田千晶さんの日記に書き込んだもの、
「転写」はmixi小川三郎さんの日記に書き込んだもの、
「母の疾風」は自分の書いた三角みづ紀さんの詩集評に成した句です。

しかし気分が沈滞しているときに句作は良いですね
 

2008年08月29日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

三角みづ紀・錯覚しなければ

 
――まずは一句、ひねってみる。

《をみならがつどへば母の疾風(かぜ)湧けり》

たとえそれが少女性であっても
女の集合が過激に巨大化すれば
女性にとっての最大の属性「母性」が
その個別性を超越した次元に現れてくる。
たとえば女たちが臨戦する砦をおもい返してみればいい
(となると、たとえば「ハラジュク」での少女性重畳光景では
まだ何かが馴致され、何かが誤魔化されているわけだ)。

「現れる」ということが大切だ。
世界は、本当は追慕のなかにも予想のなかにもなく
ただどうしようもない――重ね書きすら不能な、
この殺伐たる「現れ」のなかにしかないのだから。
「現れ」という語をしるすここでは僕はアジアをおもっている。

三角みづ紀は新詩集『錯覚しなければ』のあとがきでこうしるした。

こわいこわいと泣くわたしを皆たしなめますが、どうしようもない恐怖はどうしようもない。
こわいこわいと呟きながら詩を書いていて、こわいながらも、確かにこわくない瞬間があります。わたしはそれをみるために、詩を書いているのでしょう。

この同語反復、循環論理は意図的で、
あきらかにこれらの文言を三角は詩として書いている。

――ではなぜ「こわい」のか。
女性性の本義に自分の存在がだんだん迫ってきて、
やがて辿りついてしまう「母」の領域によって
それまで記憶や愛情や空間にしるされていると信じた、
自らの個別性を失ってしまうその予感がこわいのではないかとおもう。
むろん実際に出産などの事実があって
戸籍的な母になることとは、これは関連がない。

「母」とは個別性の浄化(漂白/脱色)概念だ。
それを知るためには、概念自体を累乗化してみれば済む。
「母」「母の母」「母の母の母」「母の母の母の母」――
そう、これは吉田喜重『エロス+虐殺』が提示した思考方法だった。

このように世代架橋要素として「母」を重ねてみると、
次第にそれは、静かで無名な、歴史/世代継承の純粋性をつよめてゆく。
祖母の顔を知る孫はいるが、
曾祖母の顔を知る曾孫はどのていどいるか。
むろん十代前の母の母の母の・・の顔を知る者など
特殊例でないかぎりは皆無だろう。

形象はだんだんと常闇に、「根」に、ちかづいてゆく。
自身の成立要因が深い非知に基づく、という認知も生じる。
この非知を生み出す装置が母胎であって、
女たちはそれをもつ自身の恐怖に――静かにも目覚める。

このような恐怖は即座に時間生産の肯定性へと接木されるはずだが、
むろん時間に顔がないように、
本質的な女たちにも顔がないという恐怖を
繊細な女ならば意識の外に置くわけがない
(男は多く、それを性愛の渦中に予感するだけだ)。

たぶん『オウバアキル』で自身の生や存在の個別性に立脚した
そんな「私詩」を書き、事柄の衝撃度も相まって
一挙に詩壇以外からも話題を集めた三角は、
自己属性の蒸散が詩性への接近法だという自覚をもやがて持ちはじめ、
それでいま本質的な恐怖に包まれだしたのではないだろうか。



三角の思考は「逆転」を経由する。――つよく経由する。

だからたとえば、個別の死が複数の死になり、
自己要因が他者を照らす相補性をも難なく掘り当ててしまう。
冒頭収録、「マッチ売りの少女、その後」から――



冬の日、未明、
街角で少女の遺体が発見された
死因は餓死
凍りついた少女の範囲外にも
恐怖のように
マッチが散乱していた
かすかに薬物の匂いがした
(一聯:中途まで)

掲出した最後の行がパンキッシュなサブカルに親炙し
そのような交友をも組織する三角らしいともいえるだろう。

さて逆転の詩句は二聯中途にある――。

誰も少女を殺せなかったから
故、皆が少女を殺したのだ

不可能性の論理が「逆転により逆転されている」。
気をつけよう。
この現代版マッチ売りの少女(当然「詩人」の隠喩だ)の
本当の死因とはなんだったか。
明示されている「餓死」ではない。
オーバードースでもない。

二聯冒頭には
《少女は母親になれなかった/母親のふりさえできなかった》とあり、
「それゆえに」彼女は死んだのではないか。
それは、時間へのつながりを欠いたため、とも敷衍できる。
浮遊のままの浮き草のように世にあれば、
その者は「関係性において」死んでしまう。
その関係性をつくりなしたのは相補的な位置にある他人でもあるから
《誰も少女を殺せなかったから/故、皆が少女を殺したのだ》
という詩句も実は正論理で成立していると注意を払う必要がある。

三角は詩集中、母からの出自を幾度も語ろうとし
母になることを幾度も希求しながら
「現に」「ここに」生まれる自分の衝撃を錯綜的に語りだす。
母から生まれたことと、私が母となることは、時間軸上の相補だが、
ならば時間内のひと雫であるこの私にこそ相補の構図が極限され、
よってこの私は母の産褥の苦痛を映して
存在の継続を「生まれ(/生み)つづけ」なければならない。
「私」は少女ではなく母の形式を借りてでなければ
この産褥の型で崇高に存在できない(私はそうして詩を書く)。

母という
あらゆるこどもたちが抱く
幻影のなかで
わたしたちは立ち回るのだ
わたしたちは母になって
母親になって
それからようやく
紡ぎだす
(「すずな、すずしろ」最終聯)

このときに「私」の個別的単数など
即座に「私」の内在的複数へと変化を遂げるだろう。



大勢のわたし自身のわたしたちが
わたしを囲んで
かごめ
かごめ
を、はじめる
言い当てたわたしを
わたしは食して
もう行かれない場所には
赤い丸をつけるのだった

あなたたち
わたしじゃない
にせものよ
もう少しで
わたしはわたしを取り戻す
でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて
(「うしないつづける」部分)



改行加算には脱論理と曖昧が仕掛けられていて、
こういう三角の詩的修辞に詩作者としての彼女の未来を感じる。
隠されるように忍びこんだ「食して」の修辞の気味悪さ。
これまたフッと入ってくる、「うまいぐあいに」という言葉の自堕落さの戦慄。

この詩篇では「みんな」という、「わたし」の敵対者も定位されているのだが、
その本質がついにつかめないとおもう。
それは論理的にそうなるのだ――なぜなら、「みんな」とは「わたし」であるから。
それで最後の一聯、三角十八番のゾッとするヤクザな修辞が光る。

みんな、泣いていた
わたしは灰になりながら
息ができずに
笑っている



このような前提を置けば、詩集中の白眉詩篇のひとつ、
「悲劇をわたくしは待ち望んでいるのだった」の冒頭聯も理解がゆくだろう。

にんげんが回転して回転して血液になった
その理屈を
母はわたくしに説いた
わたくしは
出刃包丁をスライドさせ
ようやく新聞にまで名前を湿らせた
わたくしは母を拒んだ
その結果、
わたくしは母を孕んだ

「拒んだ/孕んだ」の単純脚韻。しかし事態は熾烈だ。
「母を孕む」というのは認識の逆転ではない。
世代をつないでゆく女性性を
誇示とともに詩的な修辞に包むことでもない。
時間の陣痛の近くに「わたくし」がたえずあるために
「わたくし」が負う倒立的な存在秘儀の形式、だということだ。
「わたくし」が自己抹消を企てても「わたくしのなかの母」がそれを無化する。
それを三角は一旦「悲劇」としるすが、
「悲劇の不可能こそが悲劇」ともたぶん知っていて、
よって悲劇は彼女によって肯定的に待ち望まれる
――そういう幾重もの、(まるでブランショの記述のような)奥行がある。

この詩篇は論理必然として、すごく美しい結句で終わる。
《つまりは//遠くから産声が聞こえる》。
誰の産声?――「わたくしの」/「母の」/「われわれの」、だ。

詩篇「満開の母」でも、結語は「わたくしはいつか/母になる」だった。
繰り返すが、母を生むことと「わたくし」が母になることに
女性性論理ではもはや径庭がない。
こういう認識を導いた三角自身の実母が
たぶん実際に魅惑的なのではないか。
その実母は蒸留された三角の意識のなかでは以下のような姿をしている。
《わたくしの母は/鏡にうつらない》
《わたくしの母は/子供らを切り裂く出刃包丁》
《わたくしの母は/邂逅するには美しい》

この詩集で最も美しいとおもったのは
女たちが三角を基点にかぎりない多数化を遂げる「最後の鈴」だった。
フェミニスム的な疎外論を「見せ消ち」にして詩篇が発動されながら、
女性性由来の肯定性としかいえないものに最終的に行き着く。
《錯覚しなければ》、生きられるのだ。
もちいられる喩「鈴」が「美」を形象させながら
幾重にも意味を深化させてゆく機微をみてもらうため
以下に全篇引用しておこう。



【最後の鈴】


鈴をのみこんだおんなは使い物にならない
捨てるのだ
冬の荒野に
夏の砂漠に
秋の教室に
春だけは勘弁してやった

歩くと
ちりんちりんって鳴くのよ
素敵でしょう
だからみんながわたしのこと妬んでるの
もうすぐ捨てられちゃうんだ
あなたは忘れないで


きれいな手足をしていた
軽やかに舞った
だとすれば
彼女は生きなければならないのではないか

石を投げられた
額が紅く染まった
なにもかもが容認できない
使い物にならないなんて
誰が決めたの

おんなどもの群れが
廃棄され
縦横無尽に彷徨う
ひとりのおんなが
ひとりのおんなの
足を踏み
殴られ
爪をたてられ
ひとりが拡大してみんなになる
無数の鈴が揺られ
残されたものは
半生だけだった

冬の荒野で
夏の砂漠で
秋の教室で
一斉に鈴が奏でられた
涙を流すものも居た
使い物にならなくなった
おんなどもに
残されたものは
半生であり
だとすればやはり
生きなければならないのではないだろうか



三角フォロワーの「ポエム作者」というのは
現在、相当数出現しているとおもうが、
そのひとたちと三角のちがうのは
三角の詩(行/聯)の組成が
勢いにまかせた「私領域」の列挙とは程遠いということだ。

聯のあいだには論理的な罠を仕掛けるような行アキがあって、
なおかつ掲出の最終6行に明らかなように
魅惑的で構えの大きな脱論理が提示されて
それで読者が飲み込まれ、
そうした非知の余韻にこそ詩の本性があるという誘導が起こる。

東京新聞8月23日付夕刊の
三角みづ紀インタビュー(インタビュアー:石井敬)は
三角を適確に読者へと誘導する素晴らしい記事だったが、
見出しは「平易な言葉で深く心に」と大書されている。

三角の用語が平易なのはこの記事の引用部分でも明白だろうが、
修辞が成功裡に進展したときには
語と語の作用力によって詩の本懐ともいえる複雑な化合が起こってくる。
不気味で美しく、洞察力に富み乱暴な――ともいえるような。
このとき三角の詩魂の大きさを称賛するしかなくなる。

それは三角が敬愛すると語る(同インタビュー参照)
金子みすゞや芝木のり子の詩にもたしかにあるものだが、
魂や認知には「いまここの」現代性がもっと「悲劇的に」発酵している。
この点が閑却されてはならない。



化合的=融即的措辞、というものが三角にはいつも萌芽的にある。
今回の詩集で眼にとまったものを以下に拾い上げてこの稿を閉じよう。

《無色の椿がわたしを食べる/一気に飲みこむのではなく/じわりじわり/啄ばむのだ》
(「花売り」部分)

《眼鏡でみようとする世界と/服を着たままはいろうとするお風呂は/均整が保たれているので/寸前で、助かった》
(「破滅の発端はお風呂場にて」部分)

《四季、というものに囚われ/式、というものに惑い/ああ/なんだか死にたくなっちゃったな/満腹になれないんだ》
(「かけぬける、僕らの欲情」)

《蛇行しながらきました/今日のお茶は何にしましょうか》
(「ミシンを売る時」)

《おとうとは/晴れながら降った》
(「家族パズル」)

《このひとごろし!/僕は僕を罵ります/にんげんの飼い方って/牢獄ではないのですか》
(「にんげんの飼い方」)

《わたくしが微塵もないころ/夕日の隣まで叩かれております》
(「夕日の隣まで叩かれております」)
 

2008年08月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

トウキョウサラダ

 
【トウキョウサラダ】


まものになる
いまのせなかだって
すいめんからはななめだよ
跳ぶかもしれない

ひとびとは藻のようなものを
交換する
セックスのなにが健康か
ひっくりかえしたり
ぶちまけたりしながら
ばらばらになった四肢が
だんだんひかってゆくだけ
こんな港さえもが未来だと

物乞いしてあるいて
あごのしたに嘆きがふえる
こびとになればさらに
眼に映るこびともふえる

光芒のようなものが
全景を通過体にして
垂直の桟橋、きれいだなあ
縦に跳ぶ鳥、破滅のいきおい
割れた音を必死に出すのを
手許に放さずつかまえて
ひしょう――卑小のピエタ
泣くために
死にちかい者を捕獲した
それが、おまえ

ホテルにいたんだ
金貨といっしょに
生き死になぞは財布、とおもうから
消えた者とした貸借だけが気になる
からだを冷やすため頼んだくだものも
とおくに置けばのきなみ砂金となって
食べられない水辺の日々もつづく
川沿いでは からだ、
「からだ食べたい」(どの次元で?
(はらわたのないかげろう
の次元でだろう、たぶん

さあ、自分を、自分に

ゴーストや記憶や義手など
霊的なものをあつめては
酢と塩と油をかけ攪拌する
くちに運ぼうとすると
そこに帆ではなく
やはりかげろうがいて
わたしのシャツとおなじ模様だった
つくづくこどもだとおもう

ニースふう(『ニースについて』)
笑い方のそよかぜ。
そういう彼岸が着実にあるから
あれこれひかる
トウキョウサラダも
サラダなのに液体だった
泪みたいに液体なのだった

もはやなんの記念日でもないな
もろとも溶ける
 

2008年08月27日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

乳房とほく流れよ

 
白花をゆびもて挟むあらはれし昔ただ切れわが半減期



すこしづつ死ぬを常とし色失くすわがうつしみと空の鳶の輪



常闇の黒かがよひをとほりたり手にもつものも美(は)しき黒とす



性愛に異境ありせば性愛の外もとよもす滝つ瀬のおと



凶獣がしりぞく今の葉裏見ゆ銀をなすもの白へとただ褪す



千年の白ともおもふ忌み曇りさくらと霊の境つかめず



川上に人あるべきを葛の花踏まれもせずに匂ひ古りたり



千年を耐ふる喩として色もなき鴉ゆきかふ曇り空など



歴年が艶なるゑみを返すなら一刀のもと寵姫血まみれ



ちちぶさは谷底の花ながるるに壊死なくば乳房とほく流れよ






昼までにつくりあげた十首をアップすることにします。
最初の九首がコミュ「タイトルで詩歌句/「百年の孤独」「海と毒薬」」へのもの、
最後の一首が依田冬派くんのミクシィ日記への書き込みです
 

2008年08月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

黒瀬珂瀾・街角の歌+十首

 
黒瀬珂瀾さんから送っていただいた
『街角の歌』(ふらんす堂)を随分遅れたいま読み出している。
しかもバウムクーヘンを一片ずつ惜しんで齧るように。

この本は珂瀾さんの著書にして編著だ。
一年を365日のカレンダーにして、
一日一日にふさわしい短歌を珂瀾さんが充(あ)て、
それぞれに200字強の解説が付されてゆく。
本は一ページ二首掲出、月代わりには扉、というシンプルな構成を貫く。
「歳時記を読む」ように読める、ということだ。

珂瀾さんの解説は、時代背景・季題を主にした鑑賞の眼目、
作者の最少の伝記的紹介、などなどで埋められ、
簡潔適確な読みと、幾何学的な構成意志とが
本のなか、静かな緊張で拮抗しているとおもう。

「幾何学的な構成意志」というのは、
珂瀾さんの選歌が「街角」をおもわせるものに限定され、
明治から現代まで対象領域を自在に渉猟して、
結果、読んでゆくこちらの手許には
多重的時間と空間とがこもごも、
季節進展の整序性をも相なして刻々編成されてゆくからだ。

しかも、同一作者が二度と登場しない。
つまり「百人一首」ならぬ「365人一首」でもあったのだった。
「折々のうた」などより構成には厳密さがもとめられている。

「百人一首」の現代的編纂というのは
たとえば塚本邦雄などもおこなった。
それは塚本美学を逆照射しつつ、
短歌の基軸を
リアリズムから反リアリズムへと変貌させる試みとしてあった。

珂瀾さんの営みにはそんな偏向が一切ない。
短歌の多元的立脚を、明治以来の歴史のなかに
切実に、透明な態度でのみただ追ってゆくだけだ。

――考えてみるといいのだけど、
明治以来の365人一首を、主題を「街角」に限定して編纂し、
しかもそれをカレンダーのなかに並べるというのは
二重三重に「短歌知」を誇るアクロバティックなおこないだ。
よほどの蓄積がなければとてもできることではない。

ところがそのアクロバット性がぜんぜん感じられない。
歌群が結局は歴史限定のもと透明な人心と声調に還元され、
一切の署名性をも脱却する消尽を引き金に、
そこに声音の総合といった永遠域を逆にたちあげうると
珂瀾さんが知っているからで、
こういう本に接してこそ短歌芸術の大きさと切なさが迫ってくる。
珂瀾さんはなんてすばらしい仕事をしたのだろう。



珂瀾さんといえば「歌壇のヴィジュアル系」で、
その歌も初期・春日井建を淵源にした耽美幻想色のつよさが有名だが
(珂瀾さんのデビュー歌集『黒耀宮』はその華麗なる結実だった)、
もしかするとこの本をつくりながら
珂瀾さんの作歌精神の基軸が
別方向にうごきだしているのではないかとおもった。
年内には新歌集も上梓されるという。
緊張とともに期待を感じるゆえんだ。



現在、読んでいるのは「六月」。

6月17日
雲母ひかる大学病院内の門を出でて癩(かたゐ)の我の何処(いづく)に行けとか
明石海人

6月19日
選りに選りて上水道に身投げして死骸の汁を四日飲ましむ
森本治吉

6月20日
群集と呼ぶまぼろしの権力へ投げてみよ因陀羅(いんどら)の金剛杵
中山明

6月23日
遠くにて消防車あつまりゆく響き寂しき夜の音と思ひき
尾崎左永子



6月17日、明石海人。
ハンセン氏病にかかるという非運によって37歳で生を閉じた
伝説的な戦前歌人として明石は知られているだろうが、
この罹患宣告の衝撃を唄った一首を
6月17日に置いた珂瀾さんがすごい。
伝記的事実の裏打ちが実証的にあるのかもしれないが、
「雲母(きらら)ひかる」の措辞に
梅雨晴れの残酷な眩しさをみたのだ、と僕などは捉えた。
結句七音の悲傷は決して胸から拭い去れるものではない。

6月19日、森本治吉。
浅学の僕には作者不詳。一読、作家の中心眼目も不明。
ところが珂瀾さんには
これが太宰治の玉川上水への入水を詠んだ歌という把握がある。
四日間の捜索ののち太宰の死体は発見された。
そういう事実が裏打ちされて、この森本の太宰への位置取りが面白く映る。
歌中に季節符号が一切ないのに、そこに日付を捉えた珂瀾さんの眼の鋭さ。

6月20日、中山明。これも僕には作者不詳。
一読、戦慄の走る歌で、大衆(/学生)運動者の作と感じるが、
珂瀾さんの解説は、「フランスの社会学者ル・ボン」からはじめられて、
《因陀羅はヒンドゥー教の雷神で、日本名は帝釈天》と簡素に徹する。
結果、この掲出などはずんぐりと異状を挿入する効果を発揮する。
この「因陀羅」の歌がなぜ6月20日なのか、
その謎が解き明かされないことで却って歌に強烈な印象がのこる。

6月23日、尾崎左永子。
結社短歌の重鎮のひとりという認識が僕にはわずかにある。
珂瀾さんの解説は、歌意を丁寧に追い、
左永子の別の作にも触れる、という正攻法。
ところが僕の心に残るのは、結社短歌なのに女声の必然を経由して、
連想の恣意残酷が意味を脱中心化して調べの美しさだけ織り上げた点だ。
そう、歌には明瞭な「葛原妙子調」がある。
こういう歌が歌誌に不意に登場してしまう短歌という芸術の奥行き。
ところが左永子の短歌は「感覚」の限定性をもっと大切にする。
たぶん珂瀾さんは葛原妙子的なものに
さらに身体の有限性が取り巻いた左永子の歌を
別の独自性として嘉納しているはずだ。
珂瀾さんはこの言外の意を伝えるべく、
左永子の別の一首を解説のなかに掲出する。
《つぎつぎに匂ひことなるなか歩む果実店薬局木材店のまへ》。



珂瀾さんがカレンダーの一日一日を歌の掲出で埋めてゆくとき
膨大な記憶アーカイヴのなかでは「連想」が猖獗している気もする。
結果、一日単位での歌の順番の流れが、
連句に接したような面白さを呼んでいる例もある。
これについては僕のコメント抜きで列挙してみよう。

4月14日
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる
佐藤りえ

4月15日
水族館(アカリウム)にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器
坂井修一

4月16日
人間のあぶらをつけて蘇る始発電車の窓という窓
盛田志保子

しかもこの一連の流れは、4月17日の欄、突然
以下のような税吏による異様な歌で断ち切られる。

にくしみにたぎる言葉もきき飽きて今一軒差押へむ靴屋に這入る
中島栄一



『街角の歌』を読むことは未知の短歌作者の才能を、運命を、
その作例だけで追認するという残酷な礼儀をふくむ。
となって、珂瀾さんが夭折作家の死亡年齢を過たず解説にしるす、
その意味もあきらかになってくるだろう。
早死によって埋もれた不吉な才能を畏れるのみならず、
その全作を知るべきだと誘いかけているのではないか。
こうした基準を、僕は早くも本の冒頭で知った。

1月2日
早春の紗のかかる街四つ角のポストも夢を見るやも知れぬ
永井陽子

一読、メルヘン型幻想の歌におもえるが、
朝靄の喩ととれる「紗」の用語が不吉だと捉え、
珂瀾さんの解説を読むと、
やはり「平成12年1月、48歳にて逝去」とあったのだった。



俳句は峻厳な世界認識装置で、それは言葉の生成とまさに一致する。
ところが短歌はやはり「歌」で、その流れと身体的な空隙性をもって
読む者に感情を代入し自らを無名化させる契機の器として
普遍の水平域にこそたち現れてくる聖なる指標なのだった。
だから下句十四音も余剰ではなく、魂が肉体化する支えなのであって、
これ以外の可能性を突き詰めようとしても
短歌形式はその作者にむなしく離反してゆくだけだろう。

僕も最近はそういうことを考え、作歌をおこなっている。
最近の作例――



をとこへし風に割れざる百年に急いて着物の柄こぼしゆく



百年の孤りに配する千年の多勢、眼路みな白草木炎ゆ



水に泛く円のさみしさ「決」の字のさんずゐのゆゑ民草は知らず



おそ夏はいましの膚の螺鈿へと十年の夢きらり漾ふ



なが雨に甲羅の濡るる気配してわが一年などみだれほぐるる



自分脱出したし水平ライオンも垂直ライオン殺戮班も



聖護院大根泛ぶ記憶には旧臘に見し月を重ねき



凶兆は暁闇あるく郵便の赤ポストにして誤配うれしく



おそ夏のさむさ葡萄を掌(て)に割いて果汁たばしる藍の朝明け



部屋隅に天狗となりて佇ちてゐき脱分節にけぶるわが身が





一首〜五首は「なにぬねの?」コミュ、
「タイトルで詩歌句:「海と毒薬」「百年の孤独」」へ出したもの。
六首・七首、新マイミク「DICE」さんの書き込み欄へ打ったもので
当然、六首めは塚本邦雄の有名歌のパロディ。
八首め以降が今朝の作歌です
 

2008年08月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)