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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ご報告

 
 
【ご報告】
 
揺れの衝撃と寝不足で朝からぼうっとしていた今日は、昼頃から重い腰をあげ、「生きるための努力」をしだした。東京にいる女房にケータイでせっつかれたためだ。ご存知のように全道停電という異様な事態で北海道の諸機能がほぼ麻痺したのだが、居住マンションの水道が電気によるポンプ汲み上げ式なので、断水というおまけまでついてしまった。食糧確保とともに、実際は死活に関わる局面に直面していたのだった。その自覚が当初なかった。
 
まずはトイレ用の流しの水の確保。断水をしいられた多くのマンション住民は、ポリタンクなどを持参し、最寄の公園などで一家総出の水汲みに精を出していたが、「生きる努力」のもともとないこの住人のこの住まいにポリタンクなどはない。ところが女房が、以前、ふたりで近場を歩いたときに見学した、山のうえの藻岩山浄水場で、土産にもらった飲料水緊急保存袋(ビニール製)がしまってあることをおもいだす。いわれた場所にそれはあって、ただしビニール表面に印刷してある使用法が、トリセツ音痴のぼくには解読できない。
 
昼頃の札幌は、とびかう電波の混雑からか、もうケータイで諸情報のアクセスが極度にできにくくなっていて、東京から女房がいろいろパソコンで調べまくる。なんと当該の藻岩山浄水場が飲料水の給付サーヴィスを緊急におこなっているという。それで前述の飲料水緊急保存袋(6リットル用)をふたつもってそこへ徒歩で向かった。ときに小雨のちらつく、蒸し暑い上り坂。浄水場自体が袋の配給元なので、複雑な使用法も教示してもらえるだろうと。予想どおり、単純に係員のひとに袋をいろいろ案配されて水を入れてもらったが、両手に6リットルずつ、計12キロの重さの水運搬は非力なぼくには理不尽きわまる責め苦のようで、運よく近づいてきたタクシーを拾った。
 
その時点でケータイはもうバッテリー切れにちかづいていて、次は、充電サーヴィス探しが急務となる。なにしろ女房の指示がないと、不作為が習いのぼくには死ぬ惧れすらあるのだ。だからこれもライフラインの確保にちかい。女房がみつけたのが北1条の地元TV局、STV。水をトイレタンクに入れたあと、またタクシーに乗って当該局にたどりつくと、長蛇の列の終点に、「本日分の充電サーヴィスは終了しました」の看板を立てている係員がいた。相前後して、充電サーヴィスは札幌駅近く、旧市庁舎前の赤れんがテラスでもやっていると女房から、バッテリー切れ寸前のケータイにメールが入る。今度はなんとか充電にありつけたが、「おひとり様5分」の限定つき。充電時間を10分に延長させてもらい、やっと充電率20%の状態にさせてもらうのが精一杯だった。後ろにも多くのひとが並んでいたので。
 
ところで、今日の札幌市民は異様な緩衝地帯にいたはずだ。停電だからJR、地下鉄、市電はすべて運休。信号機が幹線交差点以外は停電しているからバスの運行も皆無。会社に行ってもそこすら停電状態なのだから、父親が自宅待機というパターンが多かったのだろう、それで久しぶりに父親の指導下で、幼い子もふくめ一家が食糧と飲料、ならびに緊急時必需品の買い出しに励む姿が目立った。地震という非日常によって突然めぐまれた一家和睦の週日。ヘンないいかただが、どこかみな、愉しそうなのだ。
 
非日常と日常との予期しない配合ならいろいろあった。まずは地震後10分ていどで全道一斉停電になったのだから、TVが助けにならず、朝になって日の光のもとあらわになった被災地の惨状を動画でみているひとがあまりいないはずだ(ぼくもそうだった)。自宅待機パパが多いのだから、クルマの通行量も通常に較べかなり少なく、それだけで非日常が到来している感触だが、信号機の麻痺によって、道路を信号なしで渡る原初的=昭和30年代的な「かつて」も人々に蘇っている。コンビニ、ドラッグストアなど地域貢献を社是にいれた業種以外は、ほとんど停電で店があけられない。そのような閑散とした街なかを、交通機関が麻痺しているものだから、わりと遠出気味に一家それぞれ、あるいは恋人同士がわたりあるいて、さながらピクニックのようなのだ。店を閉めざるを得なかった店主のおやじたちは、店先の椅子に自ら坐り、往来をぼんやりと見渡している。ここにも偶然あたえられた寸暇を愉しむ倒錯がぼんやり滲んでいた。
 
赤れんがテラスでケータイをやっと充電率20%にしたのち、タクシーばかりに頼るのもバカらしくなり、小一時間かかる徒歩での帰宅を決意。電池式のケータイ充電器が見つかるかもしれないと狸小路をあるいてみると、目当てのラオックスは店を閉めている。ドンキにひとが屯しているほかは軒並みシャッターが下りているのだが、一風堂が果敢に店を開いて俄か難民を店先に集め、飲み屋が二軒、臨時で昼間に開店して、おもに外国人観光客のために、おにぎりを売りさばいている。その外国人たちも予期せぬ非日常を、不如意さを超えた奇異さとしてどこか珍しがっているようだ。彼らは日本でこんな経験をしたと帰国後、知己に自慢げに今日のことを語るのではないか。
 
帰り道には幹線の舗道ではなく、古くからある東屯田通を選ぶ。雲から濾過される陽光の加減で、街自体が不思議な黄色に染まっているなかを、子供連れの父・母・祖父母などが悠々とコンビニ袋を提げて歩いているのをみると、ぽっかりあいた空虚のなかに、どこか前述した「昭和」を嗅いでしまう。一家というものの本質は、実際はあまりかわっていないのではないか。時間にあいたこの景観の「穴」が、実際には起こっている惨たらしい被災からの「緩衝帯」になっているように錯覚した。風のなまぬるさと自らの首筋の汗が、錯覚に拍車をかけたかもしれず、自分がとてもぼんやりと歩いているとおもった。
 
さて東屯田通を南下して、自宅ちかくの南22条あたりに近づくと、風景に異変を感じだす。それまでずっと消えていた信号機が連続して点灯していて、内部に明かりのついている店も現れはじめ、あきらかに復電の徴候があるのだった。床屋さんのサインポールも点灯状態で回転している。とうとう自宅マンションに辿り着くと、エレベーターが作動している。家に入り、ブレーカーをオフからオンに戻すと、家の明かりも点いた。蛇口をうごかせば水も出る。ケータイの充電も可能だ。つまりいろいろ昼すぎから札幌内をさまよったのだが、自宅で待っていれば、すべて問題は自然解決したということ。それでも、ひさしぶりにからだを使ったのと、街なかに静謐な「昭和」を見たのとで、無駄足をつかった徒労感がなかった。むろん他の地域にさきがけて電気の恩恵をこうむった僥倖もそれにくわわる。
 
ところでまだ問題がのこっている。テレビは電源が入るのだが、画像が出ないままで、結局、地震によってどんな災難がどんな規模で起こっているのかを、動画状態でまだみられないままなのだった。
 
ともあれ、みなさん、ご心配をおかけしました。励ましに感謝いたします。
 
 

2018年09月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ142

 
 
142
 
ときを統べているのが残鶯のたぐい
番屋にてもながく世はながいまま
もちよる身のあと息だけのこる軽さ
 
 

2018年09月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ141

 
 
141
 
かたほおへやわらかなひかりをうけ
なげかけたまどをみつめたはずだ
わからずおいかけたゆめの日にもう
とげられていたんだろう、祝福は
 
 

2018年08月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

野田順子・ただし、物体の大きさは無視できるものとする

 
 
野田順子『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』(モノクローム・プロジェクト)。物理設問の条件補足のようなタイトルだが、学童期の教室や放課後や家庭を中心に、「いまはないこと」にまつわる回想詩というべきものがならんでいる。一見の素朴な枠組に、残酷や奇想がミニマルに清潔に盛られ、それが物語性をしずかに脈動させ、最後の一行まで注視をしいるのが、この詩作者の特徴だ。よって語り口は視線のいそがない並歩をみちびく。言語派ではないが、たくみな措辞が数多くある。物語性はあるが譚詩的ではなく、それゆえ主体や回想をまるごと消去させてしまう終局の荒業が利く。詩作の根底にたえず逆説が横たわっている。さみしさ。それにしても学童期の回想はなぜ読みをやわらかく馴化させるのか。そのやわらかさがやさしい逆落としまで付帯させるのか。さくらももこ訃報の翌日、家のポストにこの詩集がはいっていたのもなにかの因縁だろう。月食を主題にした詩篇「宿題」で、月のように後ろ姿が常に等距離を保ってうごく、正体の定かではない学童ドッペルゲンガーが出現してくる。むろん恐怖の対象だが、それがわずかに郷愁をも放つのがすばらしい。主体とかならず出会わないこと――ブニュエルがコクトーとの待ち合わせを流産させてしまった体験回想にあったし、黒沢清『ニンゲン合格』で階段を終点にした縦構図の左右を、タイミングをたがえて西島秀俊と役所広司が出入りし「つづける」寓意劇の場面にもあった。公園遊具という無生物が主体となった詩篇もある。カフカ「橋」などが参照されているかもしれない。
 
 

2018年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

詩集ふたつ

 
 
最近はいろいろ困憊していたが、さっきみつけた寸暇に詩集ふたつを読んだ。「男の詩」、という不穏なことをかんがえた。出たため息をうつくしいのではないかと自覚した。自分が女である気がしない。
 
さとう三千魚『貨幣について』(書肆山田)。マルクス主義的な題名だが、深層にはそれもあるかもしれない。生活雑記と日々の決算=金額提示が、かぎりなく単純なことばでつづられてゆく。日記体。生きる日々のほそい束。詩篇をまたがる反復にもってゆかれる。日をまたぐ同一性こそが真実だということだ。雑記でからだが定位されるのはなぜか。さまよいがあるためだろう。
 
松岡政則『あるくことば』(書肆侃侃房)。さまざまな、あるく。成熟したおとこのからだがアジアをあるいている。身体を処世することは、ゆく土地に散り散りになることだ。喰い、見て、声帯はからだの奥へ置く。《わたしは絶望が足りないのか。/それとも不埒が足りないのか。》。いや、両方とも足りている。それでも問うことが足りず、そこが清潔だ。だから問があるきだす。
 
 

2018年08月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)