ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

乳房とほく流れよ

 
白花をゆびもて挟むあらはれし昔ただ切れわが半減期



すこしづつ死ぬを常とし色失くすわがうつしみと空の鳶の輪



常闇の黒かがよひをとほりたり手にもつものも美(は)しき黒とす



性愛に異境ありせば性愛の外もとよもす滝つ瀬のおと



凶獣がしりぞく今の葉裏見ゆ銀をなすもの白へとただ褪す



千年の白ともおもふ忌み曇りさくらと霊の境つかめず



川上に人あるべきを葛の花踏まれもせずに匂ひ古りたり



千年を耐ふる喩として色もなき鴉ゆきかふ曇り空など



歴年が艶なるゑみを返すなら一刀のもと寵姫血まみれ



ちちぶさは谷底の花ながるるに壊死なくば乳房とほく流れよ






昼までにつくりあげた十首をアップすることにします。
最初の九首がコミュ「タイトルで詩歌句/「百年の孤独」「海と毒薬」」へのもの、
最後の一首が依田冬派くんのミクシィ日記への書き込みです
 

2008年08月26日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

黒瀬珂瀾・街角の歌+十首

 
黒瀬珂瀾さんから送っていただいた
『街角の歌』(ふらんす堂)を随分遅れたいま読み出している。
しかもバウムクーヘンを一片ずつ惜しんで齧るように。

この本は珂瀾さんの著書にして編著だ。
一年を365日のカレンダーにして、
一日一日にふさわしい短歌を珂瀾さんが充(あ)て、
それぞれに200字強の解説が付されてゆく。
本は一ページ二首掲出、月代わりには扉、というシンプルな構成を貫く。
「歳時記を読む」ように読める、ということだ。

珂瀾さんの解説は、時代背景・季題を主にした鑑賞の眼目、
作者の最少の伝記的紹介、などなどで埋められ、
簡潔適確な読みと、幾何学的な構成意志とが
本のなか、静かな緊張で拮抗しているとおもう。

「幾何学的な構成意志」というのは、
珂瀾さんの選歌が「街角」をおもわせるものに限定され、
明治から現代まで対象領域を自在に渉猟して、
結果、読んでゆくこちらの手許には
多重的時間と空間とがこもごも、
季節進展の整序性をも相なして刻々編成されてゆくからだ。

しかも、同一作者が二度と登場しない。
つまり「百人一首」ならぬ「365人一首」でもあったのだった。
「折々のうた」などより構成には厳密さがもとめられている。

「百人一首」の現代的編纂というのは
たとえば塚本邦雄などもおこなった。
それは塚本美学を逆照射しつつ、
短歌の基軸を
リアリズムから反リアリズムへと変貌させる試みとしてあった。

珂瀾さんの営みにはそんな偏向が一切ない。
短歌の多元的立脚を、明治以来の歴史のなかに
切実に、透明な態度でのみただ追ってゆくだけだ。

――考えてみるといいのだけど、
明治以来の365人一首を、主題を「街角」に限定して編纂し、
しかもそれをカレンダーのなかに並べるというのは
二重三重に「短歌知」を誇るアクロバティックなおこないだ。
よほどの蓄積がなければとてもできることではない。

ところがそのアクロバット性がぜんぜん感じられない。
歌群が結局は歴史限定のもと透明な人心と声調に還元され、
一切の署名性をも脱却する消尽を引き金に、
そこに声音の総合といった永遠域を逆にたちあげうると
珂瀾さんが知っているからで、
こういう本に接してこそ短歌芸術の大きさと切なさが迫ってくる。
珂瀾さんはなんてすばらしい仕事をしたのだろう。



珂瀾さんといえば「歌壇のヴィジュアル系」で、
その歌も初期・春日井建を淵源にした耽美幻想色のつよさが有名だが
(珂瀾さんのデビュー歌集『黒耀宮』はその華麗なる結実だった)、
もしかするとこの本をつくりながら
珂瀾さんの作歌精神の基軸が
別方向にうごきだしているのではないかとおもった。
年内には新歌集も上梓されるという。
緊張とともに期待を感じるゆえんだ。



現在、読んでいるのは「六月」。

6月17日
雲母ひかる大学病院内の門を出でて癩(かたゐ)の我の何処(いづく)に行けとか
明石海人

6月19日
選りに選りて上水道に身投げして死骸の汁を四日飲ましむ
森本治吉

6月20日
群集と呼ぶまぼろしの権力へ投げてみよ因陀羅(いんどら)の金剛杵
中山明

6月23日
遠くにて消防車あつまりゆく響き寂しき夜の音と思ひき
尾崎左永子



6月17日、明石海人。
ハンセン氏病にかかるという非運によって37歳で生を閉じた
伝説的な戦前歌人として明石は知られているだろうが、
この罹患宣告の衝撃を唄った一首を
6月17日に置いた珂瀾さんがすごい。
伝記的事実の裏打ちが実証的にあるのかもしれないが、
「雲母(きらら)ひかる」の措辞に
梅雨晴れの残酷な眩しさをみたのだ、と僕などは捉えた。
結句七音の悲傷は決して胸から拭い去れるものではない。

6月19日、森本治吉。
浅学の僕には作者不詳。一読、作家の中心眼目も不明。
ところが珂瀾さんには
これが太宰治の玉川上水への入水を詠んだ歌という把握がある。
四日間の捜索ののち太宰の死体は発見された。
そういう事実が裏打ちされて、この森本の太宰への位置取りが面白く映る。
歌中に季節符号が一切ないのに、そこに日付を捉えた珂瀾さんの眼の鋭さ。

6月20日、中山明。これも僕には作者不詳。
一読、戦慄の走る歌で、大衆(/学生)運動者の作と感じるが、
珂瀾さんの解説は、「フランスの社会学者ル・ボン」からはじめられて、
《因陀羅はヒンドゥー教の雷神で、日本名は帝釈天》と簡素に徹する。
結果、この掲出などはずんぐりと異状を挿入する効果を発揮する。
この「因陀羅」の歌がなぜ6月20日なのか、
その謎が解き明かされないことで却って歌に強烈な印象がのこる。

6月23日、尾崎左永子。
結社短歌の重鎮のひとりという認識が僕にはわずかにある。
珂瀾さんの解説は、歌意を丁寧に追い、
左永子の別の作にも触れる、という正攻法。
ところが僕の心に残るのは、結社短歌なのに女声の必然を経由して、
連想の恣意残酷が意味を脱中心化して調べの美しさだけ織り上げた点だ。
そう、歌には明瞭な「葛原妙子調」がある。
こういう歌が歌誌に不意に登場してしまう短歌という芸術の奥行き。
ところが左永子の短歌は「感覚」の限定性をもっと大切にする。
たぶん珂瀾さんは葛原妙子的なものに
さらに身体の有限性が取り巻いた左永子の歌を
別の独自性として嘉納しているはずだ。
珂瀾さんはこの言外の意を伝えるべく、
左永子の別の一首を解説のなかに掲出する。
《つぎつぎに匂ひことなるなか歩む果実店薬局木材店のまへ》。



珂瀾さんがカレンダーの一日一日を歌の掲出で埋めてゆくとき
膨大な記憶アーカイヴのなかでは「連想」が猖獗している気もする。
結果、一日単位での歌の順番の流れが、
連句に接したような面白さを呼んでいる例もある。
これについては僕のコメント抜きで列挙してみよう。

4月14日
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる
佐藤りえ

4月15日
水族館(アカリウム)にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器
坂井修一

4月16日
人間のあぶらをつけて蘇る始発電車の窓という窓
盛田志保子

しかもこの一連の流れは、4月17日の欄、突然
以下のような税吏による異様な歌で断ち切られる。

にくしみにたぎる言葉もきき飽きて今一軒差押へむ靴屋に這入る
中島栄一



『街角の歌』を読むことは未知の短歌作者の才能を、運命を、
その作例だけで追認するという残酷な礼儀をふくむ。
となって、珂瀾さんが夭折作家の死亡年齢を過たず解説にしるす、
その意味もあきらかになってくるだろう。
早死によって埋もれた不吉な才能を畏れるのみならず、
その全作を知るべきだと誘いかけているのではないか。
こうした基準を、僕は早くも本の冒頭で知った。

1月2日
早春の紗のかかる街四つ角のポストも夢を見るやも知れぬ
永井陽子

一読、メルヘン型幻想の歌におもえるが、
朝靄の喩ととれる「紗」の用語が不吉だと捉え、
珂瀾さんの解説を読むと、
やはり「平成12年1月、48歳にて逝去」とあったのだった。



俳句は峻厳な世界認識装置で、それは言葉の生成とまさに一致する。
ところが短歌はやはり「歌」で、その流れと身体的な空隙性をもって
読む者に感情を代入し自らを無名化させる契機の器として
普遍の水平域にこそたち現れてくる聖なる指標なのだった。
だから下句十四音も余剰ではなく、魂が肉体化する支えなのであって、
これ以外の可能性を突き詰めようとしても
短歌形式はその作者にむなしく離反してゆくだけだろう。

僕も最近はそういうことを考え、作歌をおこなっている。
最近の作例――



をとこへし風に割れざる百年に急いて着物の柄こぼしゆく



百年の孤りに配する千年の多勢、眼路みな白草木炎ゆ



水に泛く円のさみしさ「決」の字のさんずゐのゆゑ民草は知らず



おそ夏はいましの膚の螺鈿へと十年の夢きらり漾ふ



なが雨に甲羅の濡るる気配してわが一年などみだれほぐるる



自分脱出したし水平ライオンも垂直ライオン殺戮班も



聖護院大根泛ぶ記憶には旧臘に見し月を重ねき



凶兆は暁闇あるく郵便の赤ポストにして誤配うれしく



おそ夏のさむさ葡萄を掌(て)に割いて果汁たばしる藍の朝明け



部屋隅に天狗となりて佇ちてゐき脱分節にけぶるわが身が





一首〜五首は「なにぬねの?」コミュ、
「タイトルで詩歌句:「海と毒薬」「百年の孤独」」へ出したもの。
六首・七首、新マイミク「DICE」さんの書き込み欄へ打ったもので
当然、六首めは塚本邦雄の有名歌のパロディ。
八首め以降が今朝の作歌です
 

2008年08月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

五首+十句(八月下旬)

 
蒸し器には春の焼売咲きみだれあれから消えし瀬の渡し板



手詰まりの自己史記述のこの朝もにぶく皺なすあさがほの衰(すゐ)



シガテラを享く僥倖や神待ちて近江の寺にあきつ喰らへり



三年を淵に瞰下ろす色恋は離るる白火、薄荷の冷えもつ



題詠にはつかに滲む百季丸そのをぐなめく貌の影はや







をとめごの蛇腹部分に蝋を塗る



髪に火を点け瓜とせし乙女かな



おのづから桃濡れてをり恋の芯



身を消せば銀いろにこの恋終る



枇杷の森に少女がふたりそれも枇杷



猫を越すこの脚を斬り世を流る



項とはきやきや生(あ)るる魅(もの)のもと



風鈴を脳髄として少女寝る



白雨にて消えゆく契り川にゐて



草鳴りの奥に女の厠かな





最近つくった句歌を上に。

一首めだけ田中宏輔さんのミクシィ日記に書き込んだもので、
その他は「なにぬねの?」で近藤弘文さんが立ち上げたコミュ、
「タイトルで詩歌句・「百年の孤独」「海と毒薬」」への投歌です。

俳句はすべて、同じく近藤さんの「なにぬねの?」コミュ、
「「時をかける少女」「不思議の国のアリス」」への投句。
「少女」テーマなんだけど、次第にネタ切れになりつつあるのは、
「をんな」への興味のほうが年齢的にまさっているから?
 

2008年08月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

柴田千晶・セラフィタ氏

 
詩集として出された柴田千晶『セラフィタ氏』は
単純な読後印象ではポルノグラフィのアヴァンギャルドとなるだろう。
アヴァンギャルドというのは、劣情をそそる性的(内的)描写が不在、
主体としてしめされる対象実在性も幻想性へとからげられ、
なおかつ、奇態な妄想にのめりこもうとする「こちら」を
夢の挿入や異空間の連鎖で
ずたずたに寸断させてしまう悪意にみちているためだ。

それでもこれをポルノグラフィと呼ぶのは、
性的使嗾(とりわけ緊縛マゾヒズム)をもちかける「男性的他者」によって
「私」=主体の自己同定性が解体され、
そこにポルノグラフィ特有の機能的な物語の枠組が生じるからで、
(詩)文中、フランス書院の例示もあるが、
事態はポール・レアージュ『O嬢の物語』、
さらには幻想性の猖獗ということでいえば
マンディアルグの一部幻想短篇に味わいが似るということにもなる。

水準が複層性を保持したまま
同一平面にコラージュのように記述が貼られる。
例示として、詩集冒頭の見開きを転記打ちしてみよう。



セラフィタ氏



眼が乾く
空調の熱風をまともに受け
データ入力オペレーターの眼は絶えず乾いている
柏店婦人服お直し伝票125軒
東京店婦人服お直し伝票272軒
――VDT作業は一時間までとする
  一時間連続して作業した場合には少なくとも十分間の休憩をとること――
眼が乾く
四人のオペレーターは終始無言のまま
休憩時間もPC画面を凝視し
トランプゲームに熱中している
〈フリーセル〉No.29596はまだ誰もクリアできない

  雨降ればオフィスの午後は沈鬱に沈み深海魚として前世


眼が乾く
何処に居ても
眼が乾く(外気に触れたい)
(外光を浴びたい)
誰といても
眼が乾く(言葉を交わしたい)
(性交したい)



改行詩文体で書かれてはいるものの(本では途中からそれも稀薄になる)、
これが出自を異にするメモの、無味乾燥な同列列挙(混在)だという点は
一読にして判明する。
店ごとの伝票件数は仕事上のメモが記述へと外挿されたものだし、
(外気に触れたい)から(性交したい)までの括弧書きは
内心の声として逆に記述に内挿されたものだ。
「――」で挟まれた勤務規約は、おそらく部屋の壁紙から
そのまま記述の現在に侵食してきているのではないか。

偶有的な外在性が記述原理となること――
そうなったときの記述者の「眼」は、居場所の抽象性へと純化される。
しかしこれがぎりぎり詩的文章に飛躍するのは、
《眼が乾く》の俳句的五音がリフレインとなって
「外在」を内的定位へとたえず差し戻すためだ。

あらゆる水準の言葉が空間同一性のなかにコラージュされるというのは
哲学的記述、映画撮影日記、映画館の半券、
通常購入物のレシート、さらにはそれらと脈絡のない他人への悪罵が
糊付けも駆使して記述空間のなかに苛烈に同居していった
タルコフスキーの日記をもおもわせる仕儀だった。

さて、上記引用文には短歌も入り込んでいて、
これもまた作者の記名性の埒外から適用されたものだった。
現代歌人・藤原龍一郎の作歌からの引用。
現代的風景への視線を基準線にして
そこから疎外態を――とりわけ性的疎外態を
喩構造のうえに微妙にスパークさせる藤原の短歌は
以後も柴田の作成する詩篇のなかに繰り返し挿入されてくる。
この「挿入」という事態の性的な様相を意識すべきだろう。

むろん「歌物語」という古典文芸ジャンルもそこにおもう。
ただし藤原の短歌は相聞歌ではなく、
それでも柴田のしめす物語が(幻想の)性愛の進展だから
歌と(詩)文の接合面には詩的(現代的)「摩擦」が生じている。
『古事記』に挿入される歌謡もまた抒情歌謡で
それは歴史(神話)の心情的厚みを保証(捏造)したが、
たぶん藤原の歌が外挿されることで
地となる柴田の(詩)文には、(擬似)神話性が逆照射されることにもなる。
いずれにせよ、凝りに凝った複層性により
詩集の冒頭がこのように開示されていったのだった。

柴田の本業はマンガ原作だろうが、映画脚本の仕事もあった。
異質シーンの貼りあわせによって軋みを目すということなら、
ゴダールの融通無碍なシーン(ショット)連鎖も念頭に生ずる。



冒頭、「性的使嗾」としるしたが
現在的ポルノグラフィでそれを機能させる場所はメール(ネット)環境で、
しかもそれは「不審者」からのものでなければならない。
そのメール送信者が「セラフィタ氏」だった。
セラフィタ氏からのメールが一瞬、ゴダール映画の苛立たしい組成のように
スクラッチ的吃音をかたどってしまうこともあった
(事故に似た偶有性は、柴田的詩文のなかにあっては訂正・解消されない)。

《あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきてきてきているはずです》(12頁)。

「私」自身より「私の本質」を知ると任ずる者からの権威的容喙。
それはむろん疎外態だが、疎外態がこのように「吃音」を描くのだった
(ここにこの作品の現代性、その根拠のひとつがある)。
このセラフィタ氏のメール文では
「池袋西武ぽえむ・ぱろーる」で歌人「藤原龍一郎」が
「あなた」の以前の詩集を購入する姿を見かけたという記述もある。
そう、作品の多様な空間性に輪をかけるように
そうして作品にメタレベルからの迷彩がさらに施されてもいった。

ちなみに「セラフィタ氏」の語から誰もがおもうのは
バルザックの幻想小説『セラフィータ』だろう。
熾天使(セラファン)から命名されただろうこの主人公は
男には美女にみえ、女には美男にみえ、
そのどちらとも性愛が可能だという「境界上の」幻影だった。

この小説を読んでからもう30年ほど経っているので
細部記憶が定かではないが、
各人物とのセラフィータとの邂逅描写が多元的に進行するなかで
その正体把握を読者にあおる、
バルザックの大時代な19世紀的筆致に、
「やれやれ」とおもいつつ心躍った印象がのこっている。

相手によってこそ自らの性の所属がゆらぐこうした可変性を
とうぜん柴田の『セラフィタ氏』も継ぐ。
77頁、ついに幻想装置のなかでセラフィタ氏を間近に見上げた「私」が
そこに誰の顔を見たのかのヒントはまさにこの点に隠されているのだが、
詩書の結論部分を得々と綴る
手柄自慢の質を評者はもちあわせていないので
ここではそのセラフィタ氏の「正体」を暴かないことにする。

セラフィタ氏の対象選別に性的な自由のある点は、
12頁、《セラフィタと名乗る男と 私の/
セラフィタと名乗る男と 私の男との》という小さな記述にも揺曳していた。



「私」はセラフィタ氏の使嗾によって
とあるSMサイトの存在を知る。
この結果として、のちに中心的となる「坐禅縛り」に先行して
専門度の高い緊縛名が詩文中に列挙されだす(14頁)。
「高手小手縛り」「菱縄縛り」「後手合掌縛り」
「片足吊り」「三本胸部縛り」――じつに嬉しいことだ。

評者自身は緊縛SMの経験がないが、
金科玉条にしているのが平岡正明『官能武装論』に収録された論文、
「縛られて菩薩となりぬ」だった。
緩く縛り、対象が動くことで縛り目が硬化すること、
縛りの進展、責めの進展と同時に、
そこからの解放をもってフィニッシュとする眼目があること。

解放後には蕎麦を食い、食席での話にはジャズが合うとする平岡は
縛りの刻々、解放の刻々に、アジア的風が吹くのを体感していた。
縛り痕の肌への刻印に縄文文化への復帰を感じる向きも
別の映画監督の作品にはあった。

セラフィタ氏の縛りも西洋的拘束ではなくこの流れだろう。
だから本来ならばそれは唯物論的「物理法則」なのだった。
ところが「見られることでこそ自己同定性が溶解してゆく」という
『O嬢の物語』以来の西洋的主体論も当然ここにからんでゆく。



セラフィタ氏は「私」の記憶の隙間にいて、
私を――私の性の奥底にある嗜好を――監視する「不気味な位置」にいる。
だからそれは不気味な他人すべての場所へと代入可能になる。

私には性の恋人がいるが、
それが不気味な風合いを湛えだせばその「セラフィタ度」が上がるし、
私が歌の引用を依拠している歌人藤原龍一郎にも、
私が契約している派遣会社の嶋田久作似の「佐島」にも
私が手芸用の赤縄を大量購入したデパートの女売り子「霜村」にも
ティッシュペーパーに挟まれた弘前の放火犯の似顔絵にも
男との交接中にホテルの窓から見た丹古母鬼馬二似の男にも
水漏れを指摘して家屋に入り込んできた気味悪い戸別勧誘員にも
私の家の隣の空き地を造成する作業員にも
部屋をビデオカセットで埋め尽くし一時期を引きこもっていた私の兄にも
私が八重洲で垣根見た、異臭ただよう浮浪者にも、変貌できるのだった。

こうした対象変貌性は、私自身の同定性剥奪と当然に「対」で、
だから私の(詩)文も多様な別界面に容易に連接してしまうのだろう。

歌物語として正統な機能回復をする一瞬――

《スリーエフの駐車場に中古の赤いボルボを止め/男は私を待っていた》
という柴田の地の文は、藤原の以下の短歌と連接される(18頁)。
《起動音響くフロアの人工の光まばゆく性的悲傷》。

連句でいう「場所付け」。地の文で提示された光景が拡がる。
同時に「悲傷」は「ひしょう」と読むのか「ピエタ」と読むのか。
いずれにせよ、磔刑(縛りにも似た釘による十字架への身体固定、
そこからの解放を母が泣くこと)への連想によって縛り幻想が復帰し、
結果的に聖なるものとSMビザールとの連接が起こったうえで、
「私」が会う男の「セラフィタ性」が高められる余禄も生ずる。

一回の提示機能が一機能に終始しないこと――
これは幻想文学の「特質」だった。
小説的「伏線」にも似るが、そこにはもっと変型された何かがある。
この点を、順を追い説明してみよう。

まずは脱論理が平然と文中に紛れ込むこと。
32頁に好個の例文がある――
《生家の記憶というものが私には無かったが、でたらめに歩いていると/
奇妙に懐かしい椿の木が現れた。この家が私の生家に違いない。》。
「根拠」が他の箇所によって保証されない治外法権。
そうなっていい理由は最終的に一連が夢の記載という保証を得るからだ。

しかしいつしか夢という枠組を外されても
「私」の「無根拠」は次のような創意ある修辞へと変化してしまう。
60頁、《いや実際にはしてこなかったのだが、男にはそう見えたのだから、してきたのかもしれない、何事も。》。
引用では「してきた」ことが何だか不明だろう。
「見知らぬ男とホテルに向かうこと」だった。

連打されるものや連想には幻想的奥行きが付帯してゆく。
「ヒートアイランド現象」――その直訳「熱の島」――津島祐子「歓びの島」。
「歓び」の語からは、クロソフスキー『歓待の掟』の浮上が紙一重だ。

ある男と別の男の「一致」。
それはフロイトのいう「不気味なもの」の完成だが、
そのまえには類似性の連打が要るのだった。

評者のとりわけ好きな章(詩篇)に、
ニューシネマ由来ではまったくない「スケアクロウ」があるが、
略言するとそこでは、私の戸籍謄本で発見された夭折した私の伯母「時子」、
コピー機のガラス台に忘れられた履歴書、その写真部分にいた「マスクの男」、
それから開店前の日本橋丸善の前に置かれていた
顔部分を白布で隠された「案山子」が「一致」をみる

(柴田の記述はたとえば銀座中央通りの景物を丹念に追う様子に明らかなように
地上の具体的景物を抽象性には決して転化しない――
よって幻想空間を現実性が裏打ちする化学反応が起こるのだが、
こうした東京の地誌的連続性への執着は
『東京ボエーム抄』での倉田良成の作法とも相似だった)。

「一致」が基底層となって上位次元から降りてくる何者かの発語が
掟(命法)であると同時に、第一義的な意味で「詩」ともなる。
案山子が話題対象になれば、「私」がそれに合致するが、
44頁の男の科白「素っ裸の素敵な案山子だ。君をどこに置いて来ようか」は
あきらかに基軸の狂った抒情詩文であり、同時に「命法」だった。

32頁、(結果的にそうと知れる)夢のなかで生家と思しき場所を訪れた私は、
その家に現在住まう主婦から今年のカナブンの「異常発生」の話をされる。
主婦は詩文への外挿者として絶対に「ありえない」述懐をする。
「あの臭い、たまらない・・・まるで男と女が交尾しているときの臭いみたい・・・」。

これを前提(伏線)にして、
ジョン・レノン「イマジン」が念頭に置かれた罰当りの命法が
括弧付きの曖昧さの詩として、記述空間に内挿される。

(想像してごらん。網戸を食い破ったカナブンがいっせいにおまえの躯を目がけて飛んでくることを)



散文形を提示したうえで何が詩かを、身をもって問う熾烈さは
倉田良成『神話のための練習曲集』でも直面したことだった。
倉田の場合それは「練習文」がいかなる内在要因で自走ダイナミズムに転化しているか
――そうした瞬間瞬間によって測られたことだ。

柴田千晶の営みはけれども倉田とはちがう位置にある。

まずは異界面を記述空間に並列させて文それ自体から同定性を奪うこと
(これは通常ひとが考えうる詩の作法だが、
柴田はそれを確信犯的に幻想文学の成立要因とも交錯させてみせる)。

幻想物語全体に歌物語の要件をあたえることで、
一文が他者領域と容易に連接可能だとしめすこと
(ここで西洋的=幻想的ポルノグラフィと日本古典との区分破棄が起こり、
架空の「私」語りには短詩型的「私性」とのスパークが挑発的に生じる)。

さらにその上位次元には命法の生じる場所さえあって、
そこではこのポルノグラフィが詩的に黙示録化する第三の変型すら起こる。

このような多層性こそがここでは詩性として意識されるべきだろう。



最終章「西日デパート」は奇態なデパート空間を舞台に
「押絵」パターンの幻想小説と同様、私が限定空間に閉じ込められ、
そこで「見られること」のマゾヒズムを完成させ、
同時に、「私」をSMの煉獄へと導きつづけた
「セラフィタ氏」の顔が何なのかが暗示される白熱の「詩篇」だ。
しかし前言のとおり読者の愉しみのためここでは詳述を控えておく。

そこにいたる直前(64頁)に、散文形の隠れ蓑をかぶっているが
記述が最も詩に接近した小さな一連がある。
行分け形態に置き換えて以下に転記打ちしてみよう。



私は管
欲情を連結する
私は管
排泄されるための
私は管
二人の男に連結する
私は管
私は管
収斂を繰り返す歓びの管



自らを「公衆便所」として蔑視するM者の崇高な述懐でありながら、
同時に記述は稲垣足穂型の「人体空洞説」に背景を負っている。
ただそこには足穂的な宇宙論への接続がない。
この欠落にこそ『セラフィタ氏』の現代性の価値が宿っている。



初出一覧をみると、各「詩篇」はみな01年から02年の詩誌への掲載。
柴田は6年後にそれらを集成してこの書を世に問うた。
引用した藤原龍一郎への敬意もあったろうが、
自らのなした混在的文学様式が「詩」としか総称されえない意義を
現在の詩のフィールドにぶつけてみたかったのだろうとおもう。
営みの挑発性が素晴らしい。
 

2008年08月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)

煙にまみれた自画像

 
【煙にまみれた自画像】


うすやみをゆくしろへびから
けむりへの感性をたかめてゆく
そのあたりを、おくがというのだ

かすかにそらはわたしをうつしていたが
行路をまがりつくして知った
屈曲とは音曲に似たべつの通路だと
休符がおしあげる夏の霜柱をあるく
ものものしく草履がほどけてゆく
マモウという音 そのインドの韻き
疲弊が苦労なのではけっしてない
疲弊にいたる音階の記譜、それが仕事だからだ
早速 がらすたばこを暮れのこりに咥え
雲からは琵琶をひきずりおろして
唄う中心を一切れの僧形にした
あいうえお と そう吟ずる

ぎらついていた葉緑は 泥みはしない
あっさりと溶暗に加担して類を形成し
ちきゅうはその類力によりまわってゆくのだった
趨勢がしかあるときに
仲間という語は正負どちらをとっても怖い
なかまとはむしろ鞭毛のゆれのような感じだろう
誠を尽くしての終わりはけだものとしてわらうか
けむりとなって拡散するかで
ひとが人の匂いをなくする水っぽい食後もある
王冠のようなパフェはこの瞬間をすべりこみ
まさに形成への胆力、その台座をうばう
(あれもけむりだった、)
あいうえお そこでそう吟ずる

いつかは鹿の爪となって森の通路を掻くのだから
木の実のふりつづける金色の幸福すら
まばたきひとつでこれまたけむりにすればいい
喫煙とはたえず幻滅の予備演習で
自身への繋辞など遮断して
「わたしの三匹」の 口先のたわむれに任すべきだ
二を軸にした魔法が磨耗するとして
そこからの例外にこそ親密も宿る
基本はいつでも森のような集合体だ
おまけに日本語の現在の母音も五音あって
それだけでも音への親しみは普遍というべきだろう
あいうえお そう吟ずる
森状を発声にする

奥に伸びようとする「あ」を
「い」で斬ってわたしも平面に復する
ただし余燼が生じて それがけむりに似るだろう
「う」「え」「お」がそうして三匹になる
こんなふうに自分を追悼できないかわりに
母音をあらかじめ追悼しているとするなら
この詩語はなんのざわめき
わからないまま森状を発声にする
あいうえお いつもそう吟じて

ことばの鹿がちかづいてくる
へびのきえた場所に





夏休みにしなければならなかった課題のひとつは
詩稿の整理だった。
サイトにアップしていた「ネット詩集『誰かとは君のこと』」は
タイトルを「ネット詩集『あけがたはなび』」に変え、
そこでの不出来詩篇を一挙に刈り込んだ。

詩集を構想する愉しみのひとつは、
まさにこの「刈り込み」――「自己切断」にある。
血を流しているつもりなのに、
自分の躯から蜜が流れだす感覚に導かれるのはなぜだろう。

その作業の余勢を駆って
サイトには「一人連詩『大玉』」もアップした。
http://abecasio.s23.xrea.com
「サイト更新履歴」か「未公開原稿など」の欄で双方を確認できます。

おひまな折にはぜひ
 

2008年08月20日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)